第2話 ―ブラッドショット―
暗闇に沈む町を背に、俺は歩を進めていた。
目指すのは、市街地の東――通称“腸の裏”。
吸血鬼たちの溜まり
名の通り、血と臓腑の匂いが染みついた場所だ。
……そこでしか、答えは見つからない。だから、潜るしかなかった。
そこへ辿り着くには、腐りかけた路地を抜けなければならない。
浮浪者や犯罪者の影が這いずる、町の膿の通り道だ。
崩れ落ちそうな煉瓦造りの建物が互いに傷を庇い合い、隙間からは怒号と嗤い声、獣じみた咳が漏れていた。
街灯の光は夜霧に濁り、視界は泡立つように曇っていく。
這い寄る気配と、粘つく視線が肌を撫でてきた。
……相変わらずの有様だ。
それでもホワイトチャペルよりはまだマシだ。あそこでは影が、人間の皮を剥いで歩いていたのだから。
鉄と血の匂いが、ぬるい空気に溶けている。
見るな、聞くな。ただ、通り抜けろ――
――不意に、前方でざわめきが立った。
足が止まり、俺は霧の奥に目を凝らす。
路地の先。
薄暗がりのなかで、数人の男たちに囲まれた女の姿が見えた。
擦り切れた外套を胸に引き寄せ、何かにすがるように、片手をゆっくりと持ち上げている。
声が聞こえた。
いや、聞こえた“気がした”だけかもしれない。
喉の奥から絞り出すような声だった。あまりにも細くて、耳がそれを受け取る前に空気に溶けていく。
それでも、助けを求めていた。間違いない。
男たちは笑っていた。
声に温度はない。まるで、それすら芝居の一部のようだった。
石畳を擦る靴音が、わざとらしく響いている。女を囲む円が、じわじわと狭まっていくのが分かる。
……金か? それとも身体か?
いや、違うな。
あの目――あの乾いた眼差しには、“壊す”ことへの欲しかなかった。
踏みにじって、自分がまだ“生きている”と確かめる。
そんな連中は、この街にいくらでもいる。
だが、それを前にして、俺の脚は勝手に止まっていた。
目を逸らし、そのまま歩き去るつもりだった。
何も聞かなかったふりで、ただ通り抜けるだけ。
この街では、それが唯一の生存術だ。
だが、耳の奥に何かが引っかかった。
――音。
割れた硝子のように、細く、鋭く、鼓膜をかすめて残る破片。
微かな声だった。助けを、乞う音。
足が止まっていた。気づけば、そうなっていた。
……はぁ。
ため息とも、吐息ともつかない音が漏れる。
見なければよかった。聞かなければよかった。
関われば、また泥に引きずられる。わかってる。わかってるのに。
前方で、ふたりの男がこちらを見た。
一人は鉄棒を肩に担ぎ、どこかで錆びたような目をしている。
もう一人は、笑っていた。皮膚に貼りついたそれは、感情ではなく仮面に近い。
濡れた石畳に、じくじくと靴音を刻みながら近づいてくる。
「なぁ、兄ちゃん。……金でも女でも、ちょっと分けてくれや」
声は軽い。だが、空っぽだった。
俺を“人間”だと思っているようには、とても見えない。
銅貨か、パンくずか。
……あるいは、ただの暇つぶしか。
心の奥が、冷えた唾を吐き捨てる。
肩から力が抜けた。懐かしい感覚だ。
路地裏に巣食うハイエナども。
だが――。
俺は、戦場を知っている。
そして、身体のどこかが、あの匂いにまだ反応しているらしい。
鉄棒を振り上げかけた男の手首を、反射的に掴む。
次の瞬間、関節が逆に跳ね上がり、濡れた音を立てて弾けた。
手応えは、骨と腱が軋む生々しい感触。
皮膚の下で何かが壊れる。その感触に、心が何も言わない。
続けざまに、もう一人の男の腹へ拳を沈めた。
鈍く湿った抵抗が、拳の奥まで染み込んでくる。
骨がしびれ、重みと粘度が掌にまとわりつく。
……なぜか、それが妙に落ち着いた。
ふたりは、音もなく崩れ落ちた。
空気に漂うのは、血と鉄の匂い。
濡れた石畳と、夜の息遣いだけが残る。
女の姿は、もうなかった。
逃げたのだろう。それでいい。
助けたつもりはない。騒がれるのが面倒だった――ただ、それだけだ。
指先に、ざらりとした感触が残っていた。
視線を落とす。拳にこびりついた血が、微かに灯りを返していた。
気づけば、それを舌で拭っている。
無意識だった。癖でもない。ただ、本能がそう動いただけ。
味はなかった。甘くも、苦くも、塩気すらない。
けれど、喉の奥が、ゆっくりと熱を帯び始める。
静かに、だが確かに、何かが染み込んでいく感覚に近い。
それは液体というより、感覚そのものが体内に浸透していくような――そんな錯覚だった。
頭を覆っていた靄が、ふっと剥がれる。
視界の輪郭が鋭くなり、匂いが深く、世界の“色”が一段階濃くなる。
胸の奥で、鼓動がひとつ、跳ねた。
……なんだ、これは。
ただの血。それだけのはずだ。
それなのに、身体のどこかが喜んでいる気がする。
悪くない。とすら思う自分が、いちばん不快だった。
拳を振り払って血を飛ばし、襟を正す。
夜の路地は、さっきと同じ場所のはずなのに――今は、まるで違う色に見えた。
俺は、何もなかったような顔で、また歩き出す。
辿り着いたのは、ひび割れたコンクリートの階段だった。
入口には、錆びついた鉄格子が斜めに傾いている。
まるで、通すまいと口を閉ざしているかのように。
その格子にもたれかかるように、ひとつの影が立っていた。
じっと、こちらを見ている。
「よぉ――待ってたぜ」
声はざらついていて、夜気を裂くように響いた。
街灯の薄明かりの下、男は肩をすくめて笑う。
ルーカス・グレイ。
相変わらず、“生きている”というより、“そこにいる”という存在の仕方をしている。
まるであの鉄格子に“生えた”かのように、微塵も動かない。
「早く行こうぜ。うまい酒が、俺たちを待ってる」
そう言って、ルーカスは格子に手をかけた。
ぎしり、と嫌な音。歪んだ隙間から、夜の奥へと続く闇が覗く。
一拍だけ、息が詰まる。
階段の先に広がる“何か”を、身体が拒んでいた。
それでも、もう引き返す理由もなかった。
足を踏み出す。
階段を下りるたび、空気が冷え、湿気が絡みつく。
世界が、ゆっくりと沈んでいくような感覚。
鼻腔をかすめるのは、鉄と煤の匂い。
その奥に、ほのかに混じる古い血の香りがあった。
そして、視界が開ける。
そこは、かつて人々が行き交ったはずの空間――いまは、誰にも思い出されない廃駅だった。
足が自然と止まる。
空間そのものに刻まれた“過去”の残滓が、皮膚の内側をそっと撫でてくる。
「……ここは、なんだ?」
声が低く落ちる。
ルーカスが振り返り、軽く笑った。
「昔は動いてた。けど、新しい路線ができてさ。今じゃ、誰も使わない。……だからこそ、俺たち吸血鬼の楽園ってわけだ」
さらに奥へ進むにつれて、空気の層が変わった。
湿った鉄の香りに、甘くざらついた血の気配が混ざってくる。
古びた木柵のゲートを抜けた先――いくつかの影がたむろしていた。
誰も言葉を発さず、ただ夜と同化するように存在している。
その奥に、もうひとつの扉があった。
その上に、鈍く光る文字が浮かぶ。
《BLOOD LOUNGE》
思わず立ち止まる。
BARでもあり、駅でもあり――それ以上の“何か”が、そこにあった。
真紅の車両が、ホームの中央に突き刺さるように据えられていた。
もはや列車ではなく、場そのものに取り込まれた“内臓”のような存在。
鉄のランタンがぶら下がり、赤い液体の入ったグラスが淡く照らされている。
カウンターの奥には、仄暗い灯りの中、黙々とグラスを磨く影。
死んだ世界の中で、そこだけがやけに“生きて”いた。
ブラッドラウンジの奥へ進むほどに、空気が濃くなっていく。
赤く沈んだ照明のもと、グラスが触れ合う音と、吸血鬼たちのくぐもった笑い声が混じり合っていた。
「おいおい、ルーカスじゃねぇか! 今日も生きてるな、名誉“死に損ない”さんよ!」
どこか乾いた声が飛ぶ。
カウンター脇のソファに、足を投げ出した男がいた。
ロイ・デヴィル。痩せた身体にくたびれたコート。
笑ってはいるが、その口元はひび割れた陶器のようだった。
「おう、ロイ。死に損ないはそっちだろ」
ルーカスが肩をすくめる。
ロイは一通り笑った後、こちらを見た。
「そいつ、初めて見る顔だな。……おいおい、顔色わりぃぞ? 血、切らしてんのか? それとも緊張か? ははっ」
身振りを交えて、冗談めかしてみせる。
軽い。だが、その軽さは無理に浮かせたものだ。
オリヴァーは目を細める。ロイの指先が、わずかに震えていたのを見逃さなかった。
「こいつはオリヴァー、俺のダチだ。今案内してんだ」
ルーカスが、必要最低限だけ答える。
「へぇ……そういうこと。なるほどな」
笑みは崩れない。だが、その目だけが変わった。
ロイの視線が、ルーカスを射抜く。声が落ちる。
「なぁ……ルーカス。なぁ、また……あのヤク、くれよ。チェリーをよ……もう、切らしちまったんだ」
冗談交じりだった声音が、そこでふいに壊れた。
目が見開かれ、コートの裾を握る手が微かに痙攣している。
指先が、血のない爪を食い破りそうなほど強張っていた。
オリヴァーの脳裏に、過去の光景が揺れた。
――塹壕の底。
震える兵士。
注射器を握ったまま、虚ろな目で笑っていた男。
モルヒネで痛みも恐怖も薄れ、やがて何も感じなくなった仲間たちの顔が、闇に浮かぶ。
「あとで裏に来い」
ルーカスの声が、鋭く割って入った。
ロイは、その言葉に救われたように肩の力を抜いた。
そしてまた、貼りつけた笑みを浮かべる。
「サンキュー、マジで。お前がいねぇと俺、もう終わりだぜ……ははっ……」
身を翻し、何事もなかったかのように歩き出す。
だが、軽い足取りの裏で、床を擦る踵の音だけがやけに不安定だった。
彼の残り香が消えたあとも、鼻腔に微かに漂っていた。
甘く、濁った匂い。血と薬が混ざり合ったような、吐き気すら覚える芳香だった。
ロイの姿が闇に溶けると、場の空気がわずかに緩んだ。
残されたのは、血と薬が混ざったような、甘く鈍い残り香だけ。
オリヴァーは、カウンターに肘をついたまま、静かに口を開く。
「……あれが、“チェリー”か」
ルーカスはすぐには答えなかった。
ポケットから煙草を一本取り出し、火を点ける。
紫煙を肺に満たし、数拍の間を置いてから、ふっと吐き出した。
「薬だよ。最近は……そっちのほうが儲かる」
語調に後ろ暗さはない。
どこか事務的な響きさえあった。
オリヴァーは目を細める。
だが、問い詰めるでもなく、非難するでもなく、ただ一言。
「なるほど」
それだけだった。
会話はそれ以上、必要とされなかった。
ルーカスが小さく笑う。
「お前、昔から変わんねぇな。……そういうとこ、助かるよ」
オリヴァーは、ただ目線を戻す。
言葉なんかより、沈黙のほうがよほど通じ合えることもある。
ルーカスがちらりとこちらを振り返り、それからカウンターの奥へと目を向けた。
「よぉ……"アレ"を、ツレに飲ませたい。あるか?」
その一言に、バーテンのまぶたがわずかに動く。
返事はない。けれど、無言のまま頷いた。
手元に置かれたグラスの中から、ひとつを選ぶ。
透明なガラス――分厚く、冷たく、持つ者の体温を拒む器。
慎重な手つきで、それが置かれる。
まずは、琥珀色の液体。
ウイスキーだ。香ばしい麦の香りが、ゆっくりと空気に満ちていく。
……だが、それだけでは終わらない。
バーテンは小さな瓶を手に取り、その中身をほんの一滴、グラスの中へ。
深紅を数滴。
血のような色が、煙のように広がり、琥珀色を侵食してゆく。
バーテンは何も言わず、グラスを差し出した。
淡く赤みを帯びた液体が、灯りの中で鈍く揺れる。
オリヴァーは手を伸ばし、それを受け取る。
確かにウイスキーの香り。けれど、わずかに混じる別の匂い。
灰と香水と、無数の欲望に塗り固められたこの場所では、本来なら消えてしまうはずの……微かな血の気配。
だが、それでも身体のどこかが感じ取っていた。
引っかかるような警鐘が、胸の奥で小さく鳴る。
それでも、引き返す理由はなかった。
オリヴァーは、静かにグラスを傾けた。
最初に来たのは、馴染み深いスモーキーな香り。
煤けた麦の苦味が舌を撫でる。だが、次の瞬間、花が咲いたような甘さが広がった。
鉄と蜜。火薬と花びら。
矛盾する味覚が、喉の奥でゆっくりと絡み合っていく。
熱が、静かに胸を満たす。
奇妙に澄んだ感覚が、神経の奥まで染み込んでいく。
グラスを置いたオリヴァーは、わずかに目を細めた。
何かを疑うように。だが、その声は柔らかかった。
「……やけに美味いな。どこのウイスキーだ?」
バーテンは口元だけで微笑む。
「血の聖杯、真紅の一雫、赤の奇跡――かつて、この酒を讃えるために呼ばれた名。これを求め、数多の闘争を喚んだ、呪われた美酒。今はただ、血族たちの喉を悦ばせる為の甘露。名は、《ブラッドショット》古より、我ら血族が愛してきた……血の酒でございます」
さも、吸血鬼の歴史を見てきたと言わんばかりの台詞を吐くバーテンの男。
差し出されたグラスを、そっと手に取る。
琥珀色の液体は、わずかに赤みを帯びていた。
揺れるランタンの灯に照らされて、鈍く、静かに光っている。
オリヴァーは一口、口に含んだ。
まず来たのは、スモーキーな麦の香り。
だがその奥に――甘さとも鉄臭さとも言い切れない、言葉にできない何かが潜んでいる。
喉を通った瞬間、胸の奥に熱が灯る。
ぬるりと、内側から身体が覚醒していくような錯覚。
背骨の芯を、氷の指が撫でる。それなのに、視界にかかっていた霧が一枚、ふっと剥がれた気がした。
気づけば、グラスは空になっていた。
自分でも、いつ飲み干したのかわからない。
「……俺も、同じのくれ」
声に出すと、自然にそう言っていた。
思考よりも、身体のほうが早かった。
ルーカスが微笑み、カウンターを指で軽く叩く。
「こいつにもだ」
バーテンは無言のまま、再びグラスを用意する。
同じように、琥珀の液体。その上に、赤をひとしずく。
ルーカスはそれを受け取り、迷いも見せずに飲み干した。
喉を鳴らす音が、ラウンジの静寂に微かに響く。
グラスを置いたその横顔には、変わらぬ薄い笑みが貼りついていた。
突如、悲鳴に似た声と、何かが倒れる重たい音がラウンジの空気を裂いた。
オリヴァーが視線を向けた先にいたのは――ロイ・デヴィル。
顔面は青ざめ、ひきつった筋肉が皮膚の下で痙攣していた。
瞳孔は開ききり、唇の端からは泡が滴っている。
震える手でテーブルを叩き、蹴り飛ばす。
「……ッぐぅ、寄越せ、血を!俺に、寄越せェッ!」
絶叫のような叫びとともに、ロイは周囲の吸血鬼に手当たり次第に飛びかかった。
爪を剥き、衣服を裂き、牙を振り回しながら暴れる。
数人が止めにかかるが、あっけなく吹き飛ばされてしまう。
腕を乱雑に振り回し、ソファを蹴り飛ばす。
獣そのもの。理性も言葉も、どこかへ消えていた。
片足の靴は脱げ落ち、もう一方の革靴からは鋭く歪んだ爪が突き出ている。
牙を剥いた口からは唾液が滴り、濡れた床に濁った音を落とした。
皮膚からは赤黒い血管が浮き彫り。
血走った目をぎらつかせ、四肢で這い、濡れた石床に音を擦りつけるように進むその姿は――
もはや人でも、吸血鬼ですらなかった。
欲に駆られた亡者。
ただ“血”を求め、暴力の言語しか知らぬ、飢えた何か。
怒声と悲鳴がラウンジを満たし、赤い照明が乱反射する。
場の空気が揺らぎ、崩れかけていた。
ルーカスは――動けない。
グラスを握ったまま、ただ呆然とその光景を見つめている。
だが、俺は――違った。
体が、勝手に動いた。
灰に塗れた本能が、思考より早く前へ出る。
獣と化したロイは俺に気付き、突進を繰り出してきたが、半歩で躱す。
振り上げられた拳を、肩を沈めて滑らせる。
喰らいつこうとする牙は、わずかな重心移動でいなした。
動きは鋭い。現役のベアナックラーみたいだ。
だが、恐怖と渇きが、その軸を狂わせている。
腰の重心を落とし、拳を握る音が自分にも聞こえる。
獣と化したロイの荒々しい爪を、紙一重で躱した瞬間――
――カウンター。
拳がロイの顔面を捉える。
骨が鳴り、肉が揺れ、振動が拳を通じて伝わってきた。
ロイの体は糸の切れた人形のように宙を舞い、ソファに叩きつけられる。
口から血の混じった泡を吹き、そのまま動かない。
ラウンジの空気が凍りついた。
一歩だけ退き、ルーカスの方へ目を向ける。
彼は、ただ突っ立っていた。
まるで、自分の中の何かを――今も取り戻せずにいるようだった。
ロイが崩れ落ちたあと、ラウンジは一瞬、静まり返る。
張り詰めた空気の中、最初に漏れたのは、ざわめきだった。
「すげえ……」
「一撃だぜ……」
「ただ者じゃねぇな……」
どこかから、そんな声が上がる。
ラウンジにいた吸血鬼たちが、俺を見ていた。
俺が何者なのか、決めかねている目で。
けれど、そんな声も視線も、俺の中には届かない。
脳裏に蘇っていたのは――あの戦場だった。
泥と血でぬかるんだ塹壕。
鳴り止まない砲声。
銃を握った手は震えていた。それを落とし、目の前の敵兵と――ただ殴り合った。
拳で、骨を砕いた。
皮膚が裂け、顔が崩れた。
呼吸が止まるまで――何度も、何度も。
あれは、生きるためだった。
……そう、自分に言い聞かせている。
殴った感触だけが、静かに、皮膚の下で燻っている。
「――オリヴァー!」
名前を呼ばれる声が、意識を現実に引き戻した。
顔を上げると、ルーカスが目の前に立っていた。
心配そうに俺を見ている。
……ルーカスは知っている。
俺の過去を。
俺が何を抱えて、ここに立っているかを。
「ああ」と短く、答える。
それ以上、何も言う必要はなかった。
ちょうどその時、奥の扉が開いた。
二人の大柄な吸血鬼が、ぐったりとしたロイの体を無言で担ぎ上げ、奥へと運んでいく。
もう一人は、倒れたテーブルや椅子を淡々と元に戻していた。
……ここの従業員だろう。
壊れたものは、何事もなかったように片付けられていく。
血と混沌の匂いだけを、ほんの微かに残して。
視線だけが、追っていた。
誰も驚かない。俺も、その一人だから。
騒ぎの後のラウンジは、妙に静かだった。
ソファは引きずられ、椅子は傾き、テーブルには割れたグラスの破片が散らばっている。
誰も大声を上げる者はいない。
ただ、赤く沈んだ照明の下で、それぞれが元の席に戻ろうと動き出していた。
ルーカスが、俺を手招きした。
「飲めよ。……少しは落ち着く」
カウンターに並べられたグラス。
中には、さっきと同じ、琥珀色に赤が滲んだ液体――ブラッドショット。
俺は、ひと呼吸だけ躊躇った。
血入りのウイスキー。
さっきは流れで飲んだが、今は、意識している。
それでも、手を伸ばした。
今は心に巣食う嵐を、少しでも晴らしたかったから。
グラスを持ち上げ、口に運ぶ。
少しずつ、ゆっくりと。
スモーキーな麦の香りと、微かに甘い、鉄の気配。
喉を通るたび、荒れていた鼓動が、ほんの少しずつ緩やかになっていくのがわかった。
確かに――ルーカスの言う通りだ。
カウンター越しに、ルーカスが苦笑いを浮かべる。
「こんなハズじゃなかったんだけどな。……すまなかった。今日は奢るよ」
肩をすくめるようにして、グラスを俺のほうに押しやった。
俺は、黙ってそれを受け取る。
そのまま、グラスの中をじっと見つめた。
「……アレが、例のチェリーか?」
問いかけると、ルーカスは煙草をくわえながら、わずかに目を細めた。
「ああ。まぁな、量を守ればイカれたりはしないんだが……あんなふうになるのは、初めて見た」
短く、だがどこか苦々しげに答えた。
俺はグラスを回しながら、黙ってうなずいた。
ふと、ロイの動きを思い出す。
暴れていたあの瞬間――爪の鋭さも、踏み込みの速さも、ただの中毒者には見えなかった。
「ロイ、だっけか。やけに動きが良かったが、何者だ?」
ルーカスは、グラスの底を覗き込みながら答えた。
「ああ。優勝者だよ、プライズファイターの。お前はこの界隈に来て間もないから知らないだろうが、俺たちの間じゃ英雄扱いだった」
血の酒を一口啜る。
「……だが、薬漬けになってからは、評判も――奴の人生も、壊れちまった。ブレーキがイカれた列車みたくな」
その言葉には、淡々とした口調とは裏腹に、どこか憐れむような響きがあった。
俺は再び、周囲に目をやる。
吸血鬼たちは、ちらちらとこちらを見ていた。
まるで、警戒と興味が入り混じった視線。
当然だろう。元とはいえ、優勝者を拳ひとつで黙らせてしまったんだから。
しかし、妙に落ち着かない。
視線を戻し、グラスを見つめる。
この液体の奥にあるものを、まだ俺は本当には理解していない。
だが、いずれ――
理解せざるを得なくなる。
ふと、あの場面を思い返す。
運び去られたロイの顔は、すでに魂が抜けたようだった。
「ロイは……どこへ連れていかれた?」
ルーカスは答えず、グラスの縁を指でなぞる。
一拍置いて、目を合わせぬまま呟いた。
「……おそらく、“処分”だろうな」
一瞬、耳を疑った。
「随分と穏やかな言い方だな、殺したってことか?」
ルーカスは、口元だけで笑った。それは諦めとも、苦さともつかぬ歪みだった。
「ああ、ラウンジの“掟”を破ったからな。……仕方ない。良い奴だったんだがな。はは」
乾いた笑いが漏れる。
けれどそこに冗談の色はなく、ただ無理に貼りつけた笑顔だった。
ガラじゃないだろうに。
「……掟を破っただけで、殺されるのか?」
喉がひりついた。知らぬうちに息すら重くなる。
ルーカスの顔を見つめた。
これは、冗談じゃない。
「必ずって訳じゃない。掟にはいくつかあって、その内のひとつの"ラウンジ内で騒ぎを起こすな"を破ったんだ。しかも、"ヤク中お断り"も同時にな」
ルーカスの声に揺れはなかった。だが、その一語一語が鉛のように重い。
“処分”――それは、静かに命を摘む言い回しだ。
グラスの中の酒が、いつの間にか鉄の匂いを纏っていた。
喉の奥で、言葉にならない沈黙が粘り着く。
「納得しているところ悪いがオリヴァー、お前もやばいぜ? お前もラウンジ内で騒ぎを起こしたからな……」
その一言に、カウンター越しの空気が一瞬軋んだ気がした。
俺は無意識にテーブルを叩き、身を乗り出していた。
ルーカスの目を睨みつける。
「……お前、本当にそれでいいのかよ。アイツ、友達だったんだろ? 止めようともしなかった。あれだって、薬のせいかもしれなかったのに……!」
口にした瞬間、自分の声が妙に尖って響いた。
怒鳴るつもりなんて、なかったのに。 思いがけずこぼれた言葉の温度に、自分自身が戸惑う。
胸の奥に噴き上がったものを無理やり押し込めて、ひと言だけ、吐き出した。
「……すまない」
椅子に沈み直す。声を置いてきたままのように、動作だけが先に冷めていく。
「いいんだ。お前の言いたいことはわかる。だがな……このラウンジじゃ、掟がすべてだ。 誰かが抗ったら、全員が道連れになる。だから――傍観が、正解なんだよ」
グラスを傾けた刹那、肌の奥に冷たい視線が刺さった。
カウンターの端。さっきロイを運び出していた、ガタイのいい吸血鬼がこちらを見ている。
無表情のまま、秤にかけるような目つきだった。
視線を返すと、すぐに逸らされる。
割れたグラス片を袋に詰め、陶器の破片を肩に担ぎ、彼は静かに裏手へと消えていった。
妙な気配を纏っている感じだ。不穏だが、追うほどの理由もない。厄介事は御免だからな。
俺はグラスを持ち直し、琥珀に滲んだ赤を喉に流し込む。
ためらいも、戸惑いも、もうどこにもなかった。
苦味と甘み、そして血の匂いが、舌の奥に染みつく。
一口ごとに、胸の奥に沈めてきた後悔が、じわじわと滲み出すようだった。
空になったグラスをカウンターに戻し、浅く息を吐く。
ブラッドショット。誰の血かも知らない。だが、それがどうした。
舌に残るその味は、癖になるには充分すぎた。
気づけば、もう手放せない。
ぞっとするほど自然に、身体がそれを求めていた。
最初は、不気味だった。
だが今では……この酒が、この世の不条理も、俺の"罪"さえも、まるごと抱きしめてくれる気がする。
――その時だった。
背後に気配を感じ、振り返ると、さっきのガタイの吸血鬼が再び立っていた。
今度は手ぶらで、まっすぐこちらを見据えている。
「お前か、あの男をやったのは」
低く、くぐもった声だった。
また、面倒事かと思い「ああ」とだけ答え、身構える俺。
「すまない。ロイのあんな醜態、見せるつもりは無かった。それに……お前が鎮めてくれなきゃ、もっと騒ぎになっていた」
短い言葉に、礼節と、どこかに滲む本気の感謝があった。
少し拍子抜けしたが、俺は黙って頷く。
ガタイの吸血鬼は一拍置き、続ける。
「明日の夜――また来い」
命令でも、懇願でもない。
だが、その声には確かな“意図”が含まれていた。
「バーテンに声をかけろ。……ボスが話したいそうだ」
それだけを言い残し、男は静かに踵を返す。
赤に沈んだ光の中へ、輪郭が静かに消えていく。
俺は再びカウンターに目を戻す。
グラスの底に滲んだ、かすかな血の跡を、指先でなぞった。
明日の夜――か。
命日にならないことを祈ろう。
――to be continued――
ブラッド・イズ・マネー 野衾 @nobusuma9696
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