第12話 鎮魂歌

 初夏の夜、ゴミ捨て場で繰り広げられたおぞましい饗宴の後、僕の世界からは完全に音が消えたようだった。大学の講義も、友人との他愛ない会話も、街の喧騒さえも、どこか遠い世界の出来事のように感じられ、僕はまるで厚いガラスの中に閉じ込められたかのように、現実感を失っていた。菜々美からの連絡は、あの夜以来、ぱったりと途絶えた。それが何を意味するのか、僕は考えないようにしていた。ただ、心の奥底では、これが終わりではないこと、そして、次に来るであろう接触が、本当の終焉をもたらすであろうことを、予感していた。


 季節は容赦なく巡り、真夏が訪れた。うだるような暑さと、けたたましい蝉の声が、僕の神経を苛んだ。そんな八月のある夜、スマートフォンの画面が静かに光った。表示された名前は、やはり大島菜々美だった。


『今夜、夏祭りがあるでしょう? 7時に、神社の入り口で待ってる。……浴衣、着てきてくれると嬉しいな』


 最後の言葉には、有無を言わせぬ圧力が込められていた。僕は、クローゼットの奥から、数年前に親に買ってもらったきり、一度も袖を通していなかった紺色の浴衣を取り出した。慣れない手つきで帯を締めながら、鏡に映る自分の顔を見ると、そこには生気のない、やつれた男が立っているだけだった。これから向かう先が、処刑台であるかのような気分だった。


 夏祭りは、最高潮の賑わいを見せていた。色とりどりの提灯が夜空を飾り、屋台からは様々な食べ物の匂いが漂ってくる。浴衣姿の人々が楽しげに行き交い、子供たちのはしゃぐ声や、太鼓の音が響き渡る。この陽気で華やかな喧騒が、僕の置かれた状況とはあまりにもかけ離れていて、まるで悪質な冗談のように感じられた。


 神社の入り口、大きな鳥居の下に、彼女は立っていた。


 息を呑むほど、美しかった。


 彼女は浴衣ではなく、僕の予想を裏切り、清楚な白いノースリーブのワンピースを着ていた。それは、僕が高校時代に初めて彼女に惹かれた時に見たような、そして去年の秋、コスモスを踏み潰した時に着ていたものと似たデザインだったが、素材は上質なシルクのようで、夜の闇の中でも柔らかな光沢を放っていた。風に揺れるスカートの裾、細い肩、うなじにかかる後れ毛。その姿は、まるで夏祭りの夜に舞い降りた、儚く美しい精霊のようだった。


 そして、足元。僕は、そこに視線を落とし、再び息を詰まらせた。彼女は、素足に、真っ白なエナメルのポインテッドトゥ・バレエシューズを履いていたのだ。バレエシューズ特有の、足を柔らかく包み込むようなフォルム。しかし、素材は硬質なエナメルで、つま先は鋭く尖っている。そして、色は一点の曇りもない純白。可憐さと攻撃性、純粋さと人工的な冷たさ。相反する要素が同居したその靴は、彼女自身の二面性を象徴しているかのようで、異様なほどの存在感を放っていた。薄い靴底はフラットで、おそらく地面の感触はダイレクトに伝わるだろう。エナメルの表面は、提灯の赤い光を反射し、妖しく濡れたように輝いていた。


「……来たのね」


 僕に気づいた菜々美は、静かに言った。その声には、何の感情もこもっていなかった。


「浴衣、似合ってるじゃない」


 彼女は僕の姿を一瞥し、そう言ったが、その目は全く笑っていなかった。むしろ、その瞳の奥には、深い侮蔑と、ほんのわずかな、しかし確かな哀れみの色が浮かんでいるように見えた。


「少し、話しましょうか」


 彼女は、僕を促し、祭りの喧騒から少し離れた、神社の裏手へと歩き始めた。そこは、提灯の明かりも届きにくく、ひっそりと静まり返っていた。遠くから、祭りの囃子の音や人々の笑い声が、まるで別世界の響きのように聞こえてくる。


 二人きりになると、菜々美は僕に向き直った。月明かりが、彼女の白いワンピースと、白いバレエシューズをぼんやりと照らし出している。


「前に話したこと、覚えてる?」


 彼女は切り出した。


「彼との結婚のこと」


「……ああ」


「式の日取りも、もう決まったの。来月の初めよ」


 淡々と告げられる事実。それは、僕にとって死刑宣告にも等しかった。頭の中が真っ白になり、立っていることすら困難になる。胸が締め付けられ、呼吸が苦しくなる。


「……そうか」


 僕が絞り出せたのは、またしても、そんな間の抜けた相槌だけだった。


 菜々美は、そんな僕の反応を見て、フッと息を漏らした。それは、嘲笑とも、溜息ともつかない音だった。


「あなたは、結局、何も変われなかったのね」


 その声は、冷たく、突き放すようだった。


「高校生の時から、ずっとそう。自分の殻に閉じこもって、私の足元ばかり見て。私が何を考えて、何に苦しんでいたかなんて、考えようともしなかった」


 彼女の言葉が、次々と僕の胸に突き刺さる。


「あの時、あなたが私にしたこと、私にさせたこと……私は一生忘れない。でもね、それ以上に許せないのは、あなたが、あの後も、結局自分の歪んだ欲望から目を逸らし続けて、何も学ばず、何も変わろうとしなかったことよ」


 彼女の瞳には、もはや侮蔑だけが浮かんでいた。そして、その奥に、ほんの一瞬、深い悲しみのようなものがよぎった気がしたが、それはすぐに冷たい光に掻き消された。


「哀れね。本当に。いつまでも、そうやって、私の足元にひれ伏しているしかないんだから」


 その言葉は、僕の存在そのものを否定する、残酷な刃だった。僕は、ぐうの音も出ず、ただ打ちひしがれるしかなかった。


 しばらくの沈黙の後、菜々美は、ふいに表情を変え、悪戯っぽい、しかし冷たい光を瞳に宿して言った。


「……でも、まあ、いいわ。これが本当に最後だから。最後くらい、あなたの『好き』なものを、もう一度だけ、ちゃんと見せてあげる」


 彼女は、僕の手を取り、再び祭りの喧騒の中へと引き戻した。その手は驚くほど冷たかった。


 彼女が向かった先は、色とりどりの金魚が泳ぐ、金魚すくいの屋台だった。水の匂いと、子供たちのはしゃぐ声。


「ねえ」


 菜々美は、屋台の水槽を指さした。


「あれ、すくってきてくれる? できるだけたくさん」


 その命令口調に、僕は逆らうことができなかった。まるで操り人形のように、僕は屋台の主人からポイを受け取り、水槽の中へと手を伸ばした。ぎこちない手つきで、赤い和金、黒い出目金、白い琉金を数匹すくい上げ、水の入ったビニール袋に入れてもらう。袋の中で、色鮮やかな金魚たちが、窮屈そうに、しかし懸命に尾びれを動かしていた。


「ありがとう」


 菜々美は、僕から金魚の入った袋を受け取ると、満足そうに微笑んだ。そして、再び僕を連れて、先ほどの神社の裏手の暗がりへと戻った。


 そこは、祭りの喧騒が嘘のような静寂に包まれていた。地面は、少し湿った土と、石畳が混じり合った場所だった。


「ここに、出して」


 菜々美は、地面を指さして言った。僕は、言われるがままに、袋の口を開け、中の水ごと、金魚たちを地面に放った。


 色鮮やかな金魚たちが、慣れない土と石の上で、戸惑いながら身をくねらせる。ぴち、ぴち、と、か弱い音を立てて跳ねる。空気中では、彼らの美しい色彩も、輝きを失い、ただただ痛々しく見えた。


 菜々美は、その光景を、静かに見下ろしていた。そして、ゆっくりと、白いエナメルのバレエシューズを、一匹の赤い和金の上へと……。


 プチッ。


 最初に聞こえたのは、そんな、小さく湿った音だった。


 薄くフラットなバレエシューズの靴底が、金魚の柔らかい体を、容赦なく押し潰した。鮮やかな赤色が、白いエナメルの底に、じわりと滲む。


 彼女は、足を止めなかった。


 まるで、定められたステップを踏むかのように、あるいは、汚れた床を浄化するかのように、彼女は白いバレエシューズで、次々と金魚たちを踏みつけていった。


 グシャッ。


 跳ねて逃げようとした出目金を、的確に捉え、靴底全体で体重をかけてすり潰す。黒い鱗が飛び散り、目玉が飛び出す。


 プチッ。プチッ。


 白い琉金を、つま先で追いかけ、何度も繰り返し踏みつける。純白の体が、泥と血にまみれていく。


 その動きは、驚くほどに滑らかで、優雅で、そして冷酷だった。バレエシューズの薄い靴底は、金魚の骨が砕ける感触、内臓が潰れる感触を、ダイレクトに彼女の素足に伝えているはずだ。しかし、彼女の表情は、終始変わらなかった。無表情。あるいは、どこか遠い世界を見ているかのような、虚ろな表情。


 真っ白だったエナメルのバレエシューズは、見るもおぞましい姿へと変わり果てていた。赤や黒の鱗、血糊、粘液、そして土埃がこびりつき、もはや元の色を想像することすら難しい。純白は、醜悪な色彩によって完全に汚されていた。


 辺りには、水の匂いに混じって、生臭い血の匂いが立ち込める。遠くからは、楽しげな祭りの囃子の音が聞こえてくる。そのギャップが、この場の異常性をさらに際立たせていた。


 僕は、目の前で繰り広げられる光景を、ただ、立ち尽くして見ていることしかできなかった。か弱い生命が、僕が愛し、そして憎悪する女性の、美しい足元で、無慈悲に、徹底的に破壊されていく。


 罪悪感。興奮。絶望。悲しみ。虚無。


 僕の中で、全ての感情が飽和し、臨界点を超え、そして、何かが決定的に壊れていくのを感じた。ああ、これが、僕の望んでいたものの、なれの果てなのだ。これが、僕たちの歪んだ関係の、終着点なのだ。


 菜々美への、歪んだ愛情と、激しい憎悪。それらが、ぐちゃぐちゃに溶け合い、もはや区別がつかなくなる。彼女の白いバレエシューズが、僕自身の心臓を踏み潰しているかのようだった。もう、どうでもよかった。全てが、終わればいいと思った。


 やがて、地面で動くものは何もなくなった。色とりどりだった金魚たちは、全て、汚れた泥と血の塊へと変わり果てていた。


 菜々美は、ようやく足を止めた。彼女は、汚れたバレエシューズの底を、気にする様子もなく、静かに僕に向き直った。


 その瞳には、もはや何の感情も浮かんでいなかった。ただ、底なしの闇のような、冷たい虚無だけが広がっていた。


「……さようなら」


 彼女は、囁くように、しかしはっきりと、そう言った。


「もう二度と、私の前に現れないで」


 それが、彼女が僕にかけた、最後の言葉だった。


 彼女は、ゆっくりと僕に背を向けた。そして、汚れた白いバレエシューズで、一歩、また一歩と、暗闇の中へと歩き去っていく。祭りの喧騒の中へと、彼女は溶けるように消えていった。もう、二度と振り返ることはなかった。


 一人、神社の裏手の暗がりに残された僕。足元には、色鮮やかだった金魚たちの、無残な死骸。鼻をつく生臭い匂い。遠くに聞こえる祭りの喧騒。


 終わったのだ。全てが。


 菜々美という存在は、僕の世界から完全に消え去った。そして、僕を長年縛り付けてきた、歪んだ欲望もまた、その拠り所を失い、目的を失った。後に残ったのは、ただ、広漠とした、救いようのない虚無感だけだった。


 これから、僕の時間は、どうなるのだろうか。この壊れてしまった心で、僕は、明日からどうやって生きていけばいいのだろうか。


 答えは、見つからない。


 ただ、足元に散らばる金魚の赤い鱗が、提灯の遠い明かりを受けて、最後の光を放っているように見えた。それは、僕の歪んだ青春の、そして、決して報われることのなかった愛の、残酷で、美しい、鎮魂歌レクイエムなのかもしれなかった。


 僕は、その場に、いつまでも立ち尽くしていた。

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絶望という歓び 写乱 @syaran_sukiyanen

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