第11話 あの日の記憶
季節は初夏へと移り、日差しは日増しに強さを増していた。木々の緑は深まり、生命力に満ち溢れた季節のはずなのに、僕の心は晴れることなく、むしろ、じっとりとした湿気を帯びた熱気が、まとわりつくように不快だった。そして、この季節が来るたびに、僕はあの日のことを悪夢のように思い出すのだ。
高校三年の秋。木枯らしが吹き始めた、肌寒い放課後の帰り道。アパートのゴミ捨て場の脇で、僕が彼女に、最も醜悪な要求をしてしまった、あの瞬間。菜々美が、今まで見たこともないような怒りと絶望の表情で僕を拒絶し、僕たちの関係が完全に終わった、あの場所。
あのゴミ捨て場の光景、壁を這っていた黒い影、そして菜々美の最後の言葉は、トラウマとして僕の記憶に深く刻み込まれていた。だから、菜々美から「今夜、9時に例の場所で」という、場所を明示しないメッセージを受け取った時、僕の胸騒ぎは頂点に達した。「例の場所」とは、まさか……。
嫌な予感は的中した。指定された時間、僕が重い足取りでたどり着いたのは、数年の時を経てもほとんど変わらない、あの薄暗く、不潔なゴミ捨て場だった。壁際にはゴミ袋がうず高く積まれ、生ゴミの腐敗臭と、埃っぽいカビの臭いが混じり合った、不快な空気が鼻をつく。街灯の光も届きにくく、足元には得体の知れない黒い影がいくつも蠢いているのが見えた。ゴキブリだ。過去の記憶と、目の前の光景、そして生理的な嫌悪感ががないまぜになり、僕は吐き気を覚えた。
その時、闇の中から、まるで溶け出すかのように、彼女が現れた。大島菜々美。
夜の闇に映える、光沢のある黒いサテンのキャミソールドレス。肩や背中が大胆に露わになっており、初夏の夜には少し肌寒いのではないかと思えるほど挑発的な装いだった。化粧もいつもより濃く、特に赤いルージュが、薄暗がりの中で毒々しいまでに際立っている。
そして、足元。彼女が履いていたのは、ドレスと同じ、漆黒のエナメルパンプスだった。春にチューリップを無残に踏みにじった白いパンプスとは違う、さらにシャープで、攻撃的なデザイン。10センチはあろうかというピンヒールは、まるで凶器のように鋭く尖り、滑らかなエナメルの表面は、周囲のわずかな光を拾って、ぬらりとした妖しい光沢を放っていた。靴底は、おそらく硬質な合成皮革だろう。汚れ一つなく、暗がりの中でもその完璧なフォルムが際立っていた。
「……覚えてる? この場所」
菜々美は、僕の目の前に立つと、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで尋ねた。
「ここで、私たち、終わったのよね。あなたが、私に『あれ』を踏んでほしいって、言えなかった場所」
彼女の言葉は、容赦なく僕の古傷を抉った。僕は何も答えられず、ただ唇を噛み締めるしかなかった。
菜々美は、僕の反応を確かめるように一瞥すると、ゆっくりと視線を足元の暗がりへと移した。壁際やゴミ袋の隙間を、無数の黒い影が這い回っている。カサカサという、不快な羽音や足音。
「見て。あの時、あなたが欲しかったもの。……今夜は、たくさんいるみたいね」
その声は、氷のように冷たく、感情が欠落していた。
次の瞬間、彼女はためらうことなく、その漆黒のエナメルパンプスで、ゴミ捨て場の汚れたコンクリートの上へと足を踏み入れた。まるで、聖域にでも足を踏み入れるかのように、あるいは、これから始まる儀式のための舞台に上がるかのように、静かに、しかし確かな足取りで。
そして、ゴキブリたちの殲滅が始まった。
まず、彼女のパンプスが、足元を素早く横切ろうとした一匹を捉えた。鋭利なピンヒールが、的確にその黒い胴体を貫く。
プチッ。
硬い外骨格が砕ける、鈍く湿った音。ヒールを引き抜くと、コンクリートの上には、潰れたゴキブリの体液と内臓が、黒いシミとなって残った。漆黒のヒールの先端にも、その汚物が付着していた。
しかし、菜々美は顔色一つ変えない。嫌悪感も、躊躇いも、微塵も見せない。むしろ、その目は冷徹なまでの集中力に満ち、次の獲物を探していた。
逃げ惑うゴキブリたち。壁を登ろうとするもの、ゴミ袋の影に隠れようとするもの。しかし、それらは全て、菜々美のパンプスの餌食となった。
尖ったトゥが、壁際のゴキブリを蹴り潰す。パキッ、という乾いた音。
滑らかな靴底全体が、床を這う数匹をまとめて踏みつける。グシャグシャという、おぞましい感触を伴う音。
ピンヒールが、ゴミ袋の上で蠢くゴキブリを、袋ごと突き破る。
彼女の動きは、驚くほどに正確で、効率的で、そして冷酷だった。まるで、害虫駆除の専門家のように。あるいは、憎しみを込めて敵を殲滅する戦士のように。時折、わざとゴキブリを追い詰め、逃げ場をなくしてから、ゆっくりとヒールを振り下ろすこともあった。その姿には、サディスティックな愉悦すら感じられた。
漆黒のエナメルパンプスは、瞬く間に汚れていった。砕けたゴキブリの体液、内臓、脚の破片。それらが、艶やかな黒い表面に、まだらに付着していく。特に靴底は、もはや原型を留めないほど、おぞましいもので覆われていた。滑らかなはずの表面は、潰れたゴキブリの粘ついた体液でぬめり、ヒールの先端には、砕けた殻の破片がこびりついていた。
ゴミ捨て場には、腐敗臭に加えて、ゴキブリが潰れた時の独特の、甘ったるく不快な臭いが充満し始めていた。カサカサという蠢く音は、プチッ、グシャッという破壊音へと変わっていった。
僕は、その一部始終を、壁際に立ち尽くしたまま、見ていることしかできなかった。強烈な吐き気と、目眩。過去のトラウマが、目の前で、何倍にも増幅された形で再現されている。菜々美の狂気に満ちた行為は、僕の理解を超えていた。恐怖で全身が震えた。
しかし、その一方で。
僕の心の最も暗く、歪んだ部分が、この光景に反応していた。最も嫌悪し、最もタブー視していた対象が、徹底的に、無慈悲に破壊されていく様。それは、ある種の倒錯したカタルシスをもたらした。菜々美のパンプスが振り下ろされるたびに、僕の奥底で、何かが解放されるような、悍ましい快感があったのだ。
菜々美は、僕のそんな内面の葛藤を見透かしているかのように、時折、僕の方へ射るような視線を向けた。その瞳は、「どう? これがあなたの望んでいたものでしょう?」と語りかけているようだった。僕が、彼女の狂気に呼応してしまっていること、彼女の支配下に完全にいることを、彼女は確信しているのだ。
どれほどの時間が経ったのか。永遠にも感じられるような、地獄のような時間が過ぎた。やがて、ゴミ捨て場を蠢いていた黒い影はほとんど姿を消し、床には無数のゴキブリの残骸だけが散乱していた。
菜々美は、まるで憑き物が落ちたかのように、ふっと動きを止めた。肩で浅く息をし、額にはうっすらと汗が滲んでいる。彼女は、自分の足元に広がる惨状を、しばし無言で見下ろしていた。
そして、ゆっくりと顔を上げると、汚れたパンプスで、平然と僕のそばまで歩いてきた。靴底が床を踏むたびに、潰れたゴキブリの粘ついた感触が伝わってくるかのようだった。
「……どう? 満足した?」
彼女は、僕の目を真っ直ぐに見つめ、冷たく言い放った。その声には、疲労の色は微塵もなく、むしろ、何かを成し遂げた後のような、奇妙な達成感が滲んでいた。
「これで、あの時の私たちの『終わり』に、本当のケリがついたのかしらね」
その瞳には、嘲笑と、憐れみと、そして僕に対する完全な侮蔑の色が浮かんでいた。
僕は、何も言えなかった。言葉を発することすらできなかった。彼女の狂気と、それに呼応してしまった自分自身の闇の深さに、完全に打ちのめされていた。
菜々美は、そんな僕の様子を見て、満足そうに小さく鼻を鳴らした。
「……じゃあ、また」
彼女は、それだけ言うと、背を向け、汚れた漆黒のエナメルパンプスで、コツ、コツ、と音を立てながら、ゴミ捨て場の闇の中へと消えていった。まるで、悪夢そのものが具現化し、そして去っていったかのように。
一人、おぞましい死骸と悪臭の中に残された僕。足元には、夥しい数のゴキブリの残骸。鼻をつく不快な臭い。そして、心の中には、消えることのない絶望感と自己嫌悪。
もはや、この関係から逃れる術はない。僕は、菜々美という名の、美しくも残酷な悪魔に、魂の最も深い部分まで支配されてしまったのだ。
次に彼女が現れる時、それは、この歪んだ物語の、本当の終焉を意味するのかもしれない。僕は、ただ、その時が来るのを待つことしかできなかった。初夏の生暖かい夜風が、僕の頬を撫でていった。それは、まるで、これから訪れるであろう最後の季節の、不吉な予兆のようだった。
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