第10話 春の嵐
長く凍てつくような冬がようやく終わりを告げ、街には柔らかな春の陽気が満ち始めていた。大学へと向かう道すがら、桜並木が淡いピンク色のトンネルを作り、散り際の儚い花びらが風に舞っている。しかし、その穏やかで美しい季節の訪れも、僕の心を晴れやかにすることはなかった。むしろ、生命が芽吹き、色鮮やかに世界が彩られていく様は、僕の内面の荒涼とした風景とのコントラストを際立たせ、言いようのない焦燥感を掻き立てるだけだった。菜々美は、いつ、どんな形で僕の前に現れるのだろうか。冬の日に雪上に刻まれたブーツの跡は、春の雪解けと共に消えたが、僕の心に深く刻まれた彼女の支配の痕跡は、決して消えることはなかった。次に彼女が現れる時は、さらに残酷な要求を突きつけてくるに違いない。その予感だけが、僕の中で確かなものとして存在していた。
桜が葉桜へと姿を変え、代わりに色とりどりのチューリップが公園の花壇を彩り始めた四月下旬。僕は、菜々美からの「公園の花壇の前で待ってる」という、それだけの短いメッセージを受け取り、まるで絞首台へと向かう罪人のような足取りで、指定された公園へと向かっていた。
公園の中央に広がる大きな花壇は、まさに春の爛漫を体現していた。赤、白、黄色、ピンク、紫。様々な色と形のチューリップが、陽光を浴びて誇らしげに咲き誇り、甘い香りを漂わせている。しかし、僕の目には、その鮮やかな色彩も、どこか毒々しく、不吉なもののように映っていた。なぜなら、これからこの美しい花々が、彼女の足元で無残に蹂躙される運命にあることを、僕は知っていたからだ。
花壇の前のベンチに、彼女は座っていた。大島菜々美。今日の彼女は、春らしいパステルイエローの軽やかなノースリーブワンピースを着ていた。柔らかなシフォン素材が風にふわりと揺れ、陽光に透けて見える。その姿は、一見すると、春の陽光の中に舞い降りた妖精のように、無垢で可憐だった。しかし、その完璧に計算されたであろう装いは、僕にはむしろ、これから始まる残酷な劇のための衣装のように思えた。
そして、僕の視線は、吸い寄せられるように彼女の足元へと落ちた。素足に履かれていたのは、一点の曇りもない、真っ白なエナメルパンプス。鋭利なまでに尖ったポインテッドトゥ、足を華奢に見せる浅い履き口、そして、地面を突き刺すように細く高いピンヒール。エナメル特有の、硬質で冷たい光沢が、春の柔らかな日差しを跳ね返し、人工的な輝きを放っている。純粋さを象徴する白と、無機質で攻撃的なフォルムの組み合わせは、倒錯した美しさを醸し出し、僕の心を強くざわつかせた。靴底は、おそらく滑らかな合成皮革だろう。汚れ一つなく、まるで今日、初めて箱から出されたかのようだった。
「こんにちは。待ってたわよ」
僕に気づいた菜々美は、ゆっくりと立ち上がり、微笑んだ。しかし、その笑顔は仮面のように薄っぺらく、瞳の奥には、獲物を前にした捕食者のような、冷たく鋭い光が宿っていた。その光は、僕の心の奥底を見透かし、これから与えるであろう苦痛を愉しんでいるかのようだった。
「チューリップ、見事に咲いてるわね。まるで絵葉書みたい」
彼女は、目の前に広がる色とりどりの花壇を見渡しながら、感心したような声を上げた。しかし、その声のトーンには、美しいものに対する敬意ではなく、むしろ、これから破壊する対象を品定めするかのような、冷ややかな響きがあった。
「でも……」
彼女は、ゆっくりと僕の方に向き直った。その視線は、僕の心を射抜くように鋭い。
「綺麗すぎて、なんだかつまらないとも思わない? 全部同じように咲いてて、個性がないっていうか。……少し、変化が欲しくなるわよね?」
その言葉は、明らかに、これから始まる蹂躙の儀式への序曲だった。僕は、喉が渇き、心臓が早鐘のように打つのを感じた。
「さあ、行きましょうか。もっと近くで見てみましょうよ」
菜々美は、僕の返事を待つまでもなく、花壇へと歩き出した。そしてこともなげに、花壇の低い柵を優雅に跨いで、その中へと足を踏み入れた。
真っ白なエナメルパンプスが、チューリップの根元の、湿り気を帯びた黒い土の上に、くっきりとその跡を残す。その純白と黒土の対比は、鮮烈で、背徳的だった。
まず、彼女は目の前にあった、ひときわ大きく咲き誇る、燃えるような真紅のチューリップの前に立った。それは、まるで女王のような威厳を放っていた。
「この赤、情熱的で素敵ね」
菜々美は、うっとりとしたように呟いた。そして、次の瞬間、その表情が一変した。冷たい無表情になり、彼女は履いていたパンプスの、鋭く尖ったトゥで、そのチューリップの太く瑞々しい茎を、まるで邪魔な雑草でも蹴るかのように、力強く蹴りつけた。
ポキッ!
生々しい、骨が折れるような音が響き、真紅の花は、断頭された罪人のように、力なく地面に首をもたげた。
「あらあら。ごめんなさいね、ちょっと力が入りすぎちゃったみたい」
菜々美は、わざとらしく驚いたような声を上げたが、その瞳には、明らかな愉悦の色が浮かんでいた。彼女は、倒れた赤い花を、今度は細く鋭いピンヒールで踏みつけた。ピンヒールは、肉厚な花弁の中心を容赦なく貫き、土の中に深く突き刺さる。そして、まるで憎しみを込めてすり潰すかのように、体重をかけ、ぐりぐりとヒールを捻った。
鮮やかな赤い色素が、泥と混じり合い、まるで血痕のように、白いエナメルの表面と、ヒールの側面に飛び散った。その汚れは、彼女の純白の装いの中で、おぞましいほどに際立っていた。
「そういえばね」
菜々美は、赤いチューリップの残骸を踏みつけたまま、ふいに、楽しげな声で語り始めた。その声色は、先程までの冷たさとは打って変わって、甘く、弾んでいる。
「この前、彼とね、新しくオープンしたフレンチレストランに行ったのよ。窓際の席で、夜景が本当に綺麗で……。彼ったら、私のために、一番良いコースを予約してくれてたの」
彼女は、幸せそうに目を細めながら、隣に咲いていた黄色いチューリップに、パンプスの底をゆっくりと下ろした。靴底全体が、ふっくらとした花弁を押し潰していく。
グシャッ……。
湿った、鈍い音が響く。
「彼、本当に優しいの。私がちょっと疲れてるなって言ったら、すぐに週末に温泉旅行を計画してくれたり。私が欲しいなって呟いたアクセサリーも、次の日にはプレゼントしてくれたり」
彼女は、黄色いチューリップを踏みしだきながら、さらに続けた。パンプスの底が、花弁だけでなく、その下の緑の葉や茎もろとも、土の中に押し込んでいく。白いエナメルの靴底は、黄色い花粉と緑の汁、そして黒い泥で、まだらに汚れていった。
「私のこと、本当に大切にしてくれてるのが伝わってくるのよ。愛されてるって、実感できるの。……ねえ、あなたには、分かる? この満たされた気持ち」
彼女は、僕の顔をじっと見つめてきた。その瞳には、悪意に満ちた問いかけの色が浮かんでいた。僕の嫉妬心や劣等感を煽り、その苦痛に満ちた反応を観察して楽しんでいるのだ。
僕は、言葉を発することができなかった。胸が締め付けられ、呼吸が苦しくなる。目の前で繰り広げられる、美しい花の蹂躙と、彼女の語る「幸せ」なエピソード。その残酷な対比が、僕の精神を容赦なく打ちのめしていく。顔が歪み、唇が震えるのを、自分ではどうすることもできなかった。
「あらあら、どうしたの? そんな辛そうな顔して」
菜々美は、僕の反応を見て、心底楽しそうに、くすくすと笑った。その笑い声は、春の陽気な空気の中で、悪魔の囁きのように響いた。
「そんな顔しないでよ。これから、もっと楽しい話をしてあげるんだから」
彼女は、満足そうに黄色いチューリップの残骸から足を離すと、今度は紫色のチューリップが群生している場所へと歩を進めた。そして、まるでダンスでも踊るかのように、軽やかなステップで、次々と花を踏みつけていく。
「昨日の夜もね……」
彼女の声は、さらに甘く、そして挑発的になった。
「彼、すごく情熱的だったのよ……。なかなか寝かせてくれなくて……おかげで、今朝はちょっと寝不足気味なの」
彼女は、紫色の花弁を、ピンヒールで執拗に突き刺しながら、続けた。ヒールが土に深くめり込み、引き抜かれるたびに、花の残骸がへばりついてくる。
「彼にね、強く抱きしめられて、愛してるって何度も囁かれると……もう、本当に、とろけそうになっちゃうの。身体の奥から、じわーって、熱いものが込み上げてくる感じ……。あなたには、一生分からない感覚かもしれないけど」
その言葉は、僕の最も触れられたくない部分――菜々美への歪んだ執着と、満たされることのない性的欲求――を、的確に、そして無慈悲に抉った。吐き気が込み上げてくる。
「このパンプスもね」
彼女は、ふと足を止め、泥と花で汚れた白いエナメルパンプスを、僕に見せつけるように軽く上げた。
「彼が、『君のその、穢れを知らないような白い足に、よく似合う』って言って、選んでくれたのよ。……ふふ、昨日の夜もね、『これを履いたまま、してほしい』なんて、可愛いお願いされちゃったんだけど……どうしようかなって、迷っちゃった」
彼女は、悪戯っぽく舌を出し、僕の反応を窺った。その言葉と仕草は、僕の心を完全に破壊するには十分すぎた。屈辱、嫉妬、絶望、そして、それでもなお彼女の足元から目が離せない自分への嫌悪。僕の感情は、もはや制御不能なまでに掻き乱されていた。
「ああ、もう、話しすぎちゃったかな?」
菜々美は、僕の苦悶に満ちた表情を見て、ようやく満足したかのように言った。
「でも、見て。おしゃべりしてる間に、こんなに綺麗になったわ」
彼女が指し示した先には、もはや花壇とは呼べない、無残に踏み荒らされた土と、色とりどりのチューリップの残骸が広がっていた。美しい春の景色は、彼女の手によって、徹底的に破壊され尽くしていたのだ。
彼女は、めちゃくちゃになった花壇の中央に立ち、まるで達成感に満ちた芸術家のように、あるいは、戦場を征服した女王のように、その光景を静かに見渡した。そして、最後に、まだかろうじて形を保っていた一輪の白いチューリップを見つけると、その前に進み出た。
そして、ゆっくりと、しかし確実な動作で、ピンヒールをその白い花弁の中心に、深く、深く突き刺した。
グチュッ、という、これまでで最も生々しい音が響いた。
白い花弁は、まるで悲鳴を上げるかのように砕け散り、彼女自身の白いパンプスを、最後の抵抗のように汚した。
「……これで、完成ね」
菜々美は、満足げに呟くと、汚れた白いパンプスで、平然と花壇の外へと出てきた。靴底には、様々な色の花弁と泥が、禍々しいモザイク画のようにこびりついている。
「あら、もうこんな時間。彼が迎えに来てくれる頃だわ。じゃあね」
彼女は、僕に背を向け、何事もなかったかのように、公園の出口へと歩き始めた。コツ、コツ、コツ……泥と花で汚れた白いエナメルパンプスが、アスファルトの上で立てる音が、やけに乾いて聞こえた。その背中は、春の陽光の中で、恐ろしいほどに美しく、そして、僕にとっては絶望そのものだった。
一人、破壊された花壇の前に残された僕。色とりどりのチューリップの無残な残骸が、甘く腐敗したような匂いを放っている。地面には、泥に汚れたエナメルパンプスの跡が、まるで悪意の足跡のように、くっきりと残されていた。
春のうららかな日差しの下で繰り広げられた、残酷な祝祭。菜々美の心の闇は、季節が進むごとに、より深く、より計算高く、そしてよりサディスティックになっている。彼女は、僕を精神的に、そしておそらくは物理的にも、完全に破壊するまで、このゲームをやめるつもりはないのだろう。
次に彼女が僕の前に現れる時、それは、この物語の、本当の終わりを意味するのかもしれない。逃れることのできない運命への絶望感が、春の陽気とは裏腹に、僕の心を重く、冷たく、そして完全に覆い尽くしていくのだった。
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