第9話 雪の中で
シンシンと音もなく雪が降り積もる。世界から色が失われ、ただ白と灰色の濃淡だけが支配する公園。吐く息は白く、頬を刺す空気は痛いほどに冷たい。ぼくはベンチに座り、ただ漫然と、雪が降り積もっていくのを眺めていた。手袋をしていない指先は、もう感覚がなくなりかけている。なぜここにいるのか、自分でもよく分からなかった。ただ、この静謐な白の世界に、引き寄せられるように来てしまったのだ。
「あれ、やっぱり。こんなとこで何してるの?」
不意に、聞き慣れた声が鼓膜を揺らした。顔を上げると、少し離れたところに菜々美が立っていた。隣には、忘れようもない男が寄り添うように立っている。背が高く、少し笑みを浮かべた男。菜々美の彼氏だ。彼女は幸せそうに男の腕に絡みつき、こちらを見下ろしていた。
「大島さん…」
「紹介するね、彼氏の拓也。拓也、これが話してた…」
菜々美は言葉を濁したが、拓也と名乗った男は、値踏みするように、あるいは何か面白いものでも見るかのように、ぼくを頭のてっぺんから爪先まで眺めた。その視線には、明確な好奇心と、そして微かな侮蔑の色が混じっている。菜々美から、ぼくの「こと」を聞いているのは間違いなさそうだ。
「へえ。あんたがねぇ」
拓也はニヤニヤしながら近づいてくる。菜々美も、悪戯っぽい笑みを浮かべて後に続く。
「こんな雪の日に、一人で黄昏てるなんて、相変わらずね」
菜々美が軽口を叩く。昔と変わらない口調だった。
「別に…ただ、雪を見てただけだよ」
「ふーん。雪、好きなんだっけ?なんか、汚いもの見るの、好きじゃなかった?」
彼女はわざと、拓也に聞こえるように言った。拓也の口角が、さらに意地悪く吊り上がる。ぼくは何も言えず、俯いた。彼女がぼくの性癖…マゾヒスティックな傾向や、踏み潰しへの倒錯的な興奮を知っていることは、今に始まったことではない。だが、それを彼氏にまで話しているとは。
「なんだよ、暗いなぁ。せっかく雪なんだから、もっと楽しくやろうぜ」
拓也が言うと、足元の新雪を軽く蹴り上げた。白い粉雪が、ぼくのコートの膝あたりにかかる。
「ははっ、拓也、ひどーい!」
菜々美が楽しそうに笑う。そして、彼女も真似をするように、足元の雪を蹴り上げた。今度はもう少し量が多く、ぼくの胸元まで白い飛沫が飛んだ。
「ほら、あんたもやり返しなよ!」
拓也が笑いながら言う。しかし、ぼくは動けない。いや、動かない。心のどこかで、この状況を、この屈辱を、待っていたのかもしれない。
ぼくが抵抗しないのを見て、二人の行動は徐々にエスカレートしていった。
「なんだよ、つまんねーの」
拓也はつまらなそうに言いながらも、今度は本気で雪を蹴り上げてくる。ざざっ、と音を立てて雪の塊が飛んできて、ぼくの肩や顔に当たる。冷たさと、軽い衝撃。
「きゃはは!もっと!もっと白くしちゃえ!」
菜々美も完全に面白がって、両足で雪を蹴り上げ始めた。まるで雪合戦のように、しかし一方的に、ぼくは雪の礫を浴び続ける。コートも、髪も、顔も、あっという間に真っ白になっていく。冷たさで感覚が麻痺していく一方で、腹の底からは奇妙な熱が込み上げてくるのを感じていた。
「っ…!」
降りかかる雪の塊にバランスを崩して、ぼくはベンチから転がり落ちるように、ふかふかの新雪の上に倒れ込んだ。空を仰ぐと、灰色の空から白い結晶が舞い降りてくるのが見える。
「あーあ、倒れちゃった」
「だっせーの」
二人はぼくを見下ろし、楽しそうに笑っている。真っ白な雪景色の中で、二人のカラフルなダウンジャケットと、弾けるような笑い声だけが妙に鮮やかだった。
「ねぇ、拓也。もっと埋めちゃおうか?」
「いいねぇ、それ」
二人は示し合わせたように、倒れているぼくの周りの雪を、足で蹴り集め始めた。ざっ、ざっ、と雪がかけられ、ぼくの体はさらに白い雪に覆われていく。冷たい。重い。しかし、嫌悪感よりも、言いようのない興奮が勝っていた。
そして、次の瞬間。
「えいっ」
菜々美が、履いていたブーツのつま先で、ぼくの脇腹あたりを軽く蹴った。ごふっ、と雪が舞う。痛みはほとんどない。だが、その行為に含まれた侮蔑と支配のニュアンスが、鋭く胸を刺した。
「あはは、菜々美、やるじゃん」
拓也も笑いながら、ぼくの太もものあたりをスニーカーの底でぐりぐりと踏みつけた。雪ごと踏みつけられ、鈍い圧迫感が伝わってくる。
「なんだか、雪だるまみたい!」
「こいつ、雪だるまにしては反応薄いけどな。もしかして、喜んでんじゃないか?」
拓也が、ぼくの性癖を知っていることを前提に、嘲るように言う。
菜々美は、きゃっきゃと笑い声を上げながら、さらに数回、ぼくの体をブーツで軽く蹴った。それは本気の暴力とは違う、まるでじゃれつくような、しかし残酷な戯れだった。二人の楽しそうな笑い声が、雪に吸収されることなく、クリアに耳に届く。
ぼくは雪に顔をうずめるようにして、ただその行為を受け入れていた。冷たさ、屈辱感、そして背徳的な快感。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合って、頭の中を掻き乱す。彼らは、ぼくがこれを望んでいると、あるいは少なくとも、嫌がってはいないと思っているのだろうか。その歪んだ構図そのものが、ぼくの倒錯した心を刺激した。
「ま、こんなもんか」
「飽きたね」
しばらくして、二人は満足したのか、蹴るのをやめた。
「じゃあね、雪だるまくん。雪の中に埋まってなさい」
菜々美が手を振り、拓也は最後に一度、ぼくの背中を軽く踏んでから、二人は笑いながら公園を去っていった。
静寂が戻る。シンシンと雪が降る音だけが聞こえる。ぼくは雪の中に埋もれたまま、しばらく動けなかった。全身が冷え切っているはずなのに、体の芯だけは奇妙に熱い。二人の笑い声と、足蹴にされた感触が、まだ生々しく体に残っている。屈辱的で、惨めで、そして、どうしようもなく興奮している自分がいた。
空を見上げると、雪はまだ降り続いている。世界を白く、白く塗りつぶしていく。このまま雪に埋もれてしまえたら、どんなに楽だろうか。そんなことを考えながら、ぼくはゆっくりと、重い体を起こした。コートについた雪を払いながら、ふらつく足取りで、誰もいない公園を後にした。
靴の中まで雪が入り込み、冷たさが足首を刺す。だが、その痛みすら、今はどこか甘美なものに感じられた。あの二人の笑い声が、まだ耳の奥で響いている。今日の出来事は、きっとまた、ぼくの中で忘れられない屈辱と快感の記憶として刻まれるのだろう。そして、それを望んでしまった自分自身への嫌悪と、どうしようもない肯定感の間で、ぼくはこれからも揺れ動き続けるのだ。白い雪は、そんなぼくの歪んだ心を隠すように、静かに降り続いていた。
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