第8話 蹂躙された秋

 あのカフェでの衝撃的な再会と、彼女が仕掛けた小さな悪戯の後、僕と菜々美の関係は、奇妙な均衡の上に成り立っていた。彼女は時折、僕の前に姿を現し、意味ありげな言葉や視線を投げかけては去っていく。それは、まるで猫が鼠を弄ぶような、一方的で残酷なゲームの始まりだった。


 秋が深まり、キャンパスの木々が赤や黄色に色づき始めた頃、僕は再び菜々美からの呼び出しを受けた。メッセージには、郊外にあるコスモス園の名前と、日時だけが記されていた。なぜ、そんな場所に? 疑問はあったが、僕は抗うことなく、指定された日時にそこへ向かった。


 丘陵地帯に広がるコスモス園は、見渡す限りピンクや白、赤紫色の繊細な花々で埋め尽くされていた。秋の柔らかな日差しを浴びて、風にそよぐコスモスの群れは、まるで夢の中にいるかのような美しさだった。しかし、僕の心は晴れなかった。この美しい風景の中で、菜々美は一体何をしようとしているのだろうか。


 展望台近くのベンチに、彼女は座っていた。今日の服装は、秋らしい落ち着いた色合いではなく、身体のラインにぴったりとフィットした、鮮やかなボルドー色のニットワンピースだった。そして、足元には、同じボルドー色のスエードパンプスを履いていた。つま先はやや丸みを帯びているが、ヒールは8センチほどありそうな、エレガントなデザインだ。スエード特有の柔らかな質感が、上品な光沢を放っている。


「やあ、時間通りだね」


 僕に気づいた菜々美は、ゆっくりと立ち上がった。その表情は穏やかだったが、瞳の奥には、あのカフェで見せたのと同じ、冷たい光が宿っていた。


「どうして、こんな場所に?」


 僕は尋ねた。


「綺麗でしょう? 秋桜、あなたも昔、好きだって言ってた気がして」


 彼女は、僕が言った覚えのない言葉を口にした。僕の記憶を探るような、試すような口調。


「……覚えてないな」


「そう? まあ、いいわ。せっかくだから、少し歩きましょうか」


 菜々美はそう言って、コスモス畑の中に続く小道へと歩き出した。僕は、黙ってその後ろをついていく。パンプスのヒールが、整備された小道の土を、コツ、コツと小気味よく叩く。靴底は、おそらく合成ゴム製だろう。滑り止めのためか、浅い横縞のパターンが刻まれているのが、彼女が歩くたびにちらりと見えた。


 風が吹き抜け、コスモスの花々が一斉に揺れる。甘いような、青臭いような、独特の香りが漂ってくる。しばらく無言で歩いた後、菜々美はふと足を止め、小道から外れて、コスモスが密集して咲いている場所へと視線を向けた。


「ねえ」


 彼女は、僕を振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。


「ちょっと、寄り道しない?」


 そして、彼女はためらうことなく、咲き誇るコスモスの中に足を踏み入れた。


 ザクリ、という微かな音。


 ボルドー色のパンプスのつま先が、まず白いコスモスの花弁を踏みつけた。繊細な花弁は、スエードの柔らかな圧力の下で、いとも簡単に形を失い、押し潰される。さらに彼女が体重をかけると、華奢な茎が、ポキリと鈍い音を立てて折れた。


「あら、ごめんなさい。踏んじゃった」


 菜々美は、少し驚いたような声を上げ、わざとらしく言った。しかし、その口調とは裏腹に、彼女は全く悪びれる様子もなく、むしろ楽しんでいるようにさえ見えた。彼女は、踏みつけた花から足を離さず、パンプスの底で、さらにぐりぐりと花弁と茎を土に擦り付けた。靴底の浅い溝の間に、白い花弁の残骸と緑色の汁が、汚らしい模様を描いていく。


 僕は、その光景から目を逸らすことができなかった。美しい花が、無残に踏み躙られる様。僕の心の奥底にある歪んだ部分が、罪悪感と共に、微かな疼きを覚える。菜々美は、僕のそんな反応を、横目で見ながら確かめているようだった。


「綺麗なのに、可哀想ね」


 彼女はそう言いながら、今度は隣に咲いていたピンク色のコスモスに、ゆっくりとヒールを突き立てた。細いヒールが、花の中心を貫き、地面に深く突き刺さる。そして、まるで憎しみを込めるかのように、体重をかけてヒールを捻った。花は一瞬で原型を失い、泥と花弁が混ざり合った、醜い塊へと変わった。


 それから、彼女の蹂躙が始まった。


 まるで、定められた振付を踊るバレリーナのように、あるいは、ただ破壊の衝動に身を任せる子どものように、菜々美はコスモス畑の中を歩き回り始めた。一歩踏み出すごとに、パンプスの底が、次々と無垢な花々を捉え、踏み潰していく。白、ピンク、赤紫。色とりどりの花弁が、彼女の靴底の下で、次々と命を奪われていく。


 ザクッ、プチッ、グシャッ。


 様々な破壊の音が、秋風に乗って僕の耳に届く。彼女は時折、つま先で花を蹴散らしたり、ヒールで茎を何度も突き刺したりした。その動きは、どこか楽しげでさえあり、その残酷な美しさに、僕は眩暈すら覚えた。


 ボルドー色のスエードパンプスは、もはや見る影もなく汚れていた。つま先やかかとには泥が跳ね、靴底には、潰れた花弁や葉、土がべっとりとこびりついている。それでも彼女は構うことなく、まるで自分だけのステージを闊歩するように、花畑を踏み荒らし続けた。


 僕は、ただ立ち尽くして、その光景を見つめていた。屈辱感、罪悪感、そして、抗いがたい興奮。僕のせいで、彼女はこんな風になってしまったのだろうか。僕の歪んだ欲望が、彼女の中に眠っていたサディズムを目覚めさせてしまったのだろうか。


 どれくらいの時間が経っただろうか。やがて、菜々美は動きを止め、満足したのか、あるいは飽きたのか、踏み荒らされて無残な姿になったコスモス畑を見渡し、ふう、と一つ息をついた。


「……そろそろ行きましょうか」


 彼女は、僕を一瞥すると、何事もなかったかのように言った。その表情は、先程までの狂気的な輝きが嘘のように消え、再び冷たい無表情に戻っていた。


 彼女は、汚れたパンプスを気にする様子もなく、僕の横を通り過ぎ、小道へと戻っていった。靴底に残ったコスモスの残骸が、歩くたびに地面に点々と痕跡を残していく。


 僕は、一人、踏み荒らされたコスモス畑の中に残された。美しい秋の景色の中に刻まれた、生々しい蹂躙の爪痕。それは、菜々美が僕の心に残した傷跡のようでもあった。


 彼女の支配は、もう始まっている。そしてそれは、僕が想像していたよりも、ずっと深く、残酷なものになるのかもしれない。僕は、これから彼女が仕掛けてくるであろう、さらなるゲームに、ただ翻弄されるしかないのだろうか。


 秋風が、折れたコスモスの茎を、悲しげに揺らしていた。

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