第7話 弄ぶ菜々美

 あの日、中庭で僕の目の前で「偶然」小枝を踏んで見せた菜々美の行動は、僕の中で消えかけていた何かを、再び燃え上がらせるための、意図的な点火だったのかもしれない。それ以来、僕の大学生活は、彼女の影に怯え、同時に引き寄せられるという、矛盾した緊張感の中にあった。彼女はいつ、また僕の前に現れるのだろうか。そして、次に何をしてくるのだろうか。


 その日は、講義棟のテラスに併設されたカフェで、一人、課題に取り組んでいた時だった。周囲の喧騒から少し離れた隅の席。ガラス窓の外には、秋の色が深まり始めたキャンパスの木々が見える。集中しようとすればするほど、思考は別の方向へと滑っていく。あの時の菜々美の瞳。冷たさと、悪戯っぽい光。


「あら、奇遇ね。こんなところにいたんだ」


 突然、頭上から声が降ってきた。聞き間違えるはずのない、しかし以前とは違う、どこか甘く、それでいて冷ややかな響きを帯びた声。顔を上げると、そこには大島菜々美が立っていた。


 今日の彼女は、身体のラインを強調するような黒いニットのワンピースに、膝丈までのタイトスカート。そして足元には、あの、僕の記憶に焼き付いている、真っ赤なエナメルのポインテッドトゥ・パンプスを履いていた。艶やかな赤が、周囲の落ち着いた色彩の中で、毒々しいほどに際立っている。


「……大島さん」


 かろうじて、僕はそれだけを口にした。心臓が、警鐘のように激しく鳴っている。


「ふふ、久しぶり。元気にしてた?」


 彼女は、僕の向かいの椅子に、許可も求めずに優雅に腰を下ろした。ふわりと、甘い香水の匂いが漂う。その仕草は、まるで旧友に再会したかのように自然だったが、彼女の目に浮かぶ表情は、明らかにそうではなかった。そこには、獲物を見つけた猫のような、計算された好奇心の色が浮かんでいた。


「課題? 大変そうだね」


 彼女は、僕が広げていたノートや資料に視線を落としながら言った。その時、彼女はテーブルの下で、軽く足を組み替えた。赤いパンプスの尖ったつま先が、僕の膝に触れそうなほど近くに来る。僕は思わず身を引いた。


「……何か、用かな」


 平静を装って尋ねる。しかし、声は自分でも分かるほど上ずっていた。


「ううん、別に? ただ、見かけたから声をかけただけ」


 彼女はくすくすと笑いながら、テーブルに置いてあった紙ナプキンを一枚、指先で弄び始めた。そして、まるで手が滑ったかのように、そのナプキンを床に落とした。白いナプキンが、僕たちの足元、ちょうど彼女の赤いパンプスのすぐそばに、ひらりと落ちる。


「あら、ごめんなさい」


 彼女は悪びれもせずにそう言うと、椅子に座ったまま、ナプキンを拾おうとするかのように、赤いパンプスの尖ったつま先を伸ばした。そして――


 彼女は、つま先でナプキンを拾い上げようとしたのではない。代わりに、その鋭利なスティレットヒールで、白いナプキンの中央を、ぐっと踏みつけたのだ。


 コツン、という硬い音が、カフェの喧騒の中で、僕の耳には異様にクリアに響いた。


 ヒールの先端が、柔らかい紙の繊維を突き破り、床のタイルに直接触れる。彼女はそのまま、少し体重をかけて、ヒールを軽く捻るような仕草をした。ナプキンは無残に破れ、ヒールの先端の形に、小さな穴が空いた。


「……うまく拾えないわ」


 彼女は、つまらなそうに呟くと、ヒールを離した。破れたナプキンには、靴底に付着していたのだろうか、微かな土埃のようなものが黒く擦り付けられていた。


 僕は、その一連の光景を、息を詰めて見つめていた。これは、偶然ではない。明らかに、僕に見せるために行われた行為だ。あの、高校時代の、歪んだ関係の中で繰り返された儀式。それを、彼女は今、僕の目の前で、意図的に再現してみせたのだ。


「ねえ」


 菜々美は、悪戯っぽく微笑みながら、僕の顔を覗き込んできた。


「こういうの、昔、好きだったでしょう?」


 囁くような声。その言葉は、僕の心の最も深い部分、忌まわしい秘密が隠されている場所を、容赦なく抉った。全身の血が逆流するような感覚。屈辱感と、同時に、背徳的な興奮が、僕の身体を貫いた。彼女は、全てを知っている。僕の弱さを、僕の歪んだ欲望を、全て把握した上で、こうして僕をもてあそんでいるのだ。


「な……何を、言って……」


 否定しようとする僕の言葉を遮るように、彼女のスマートフォンの着信音が鳴った。彼女は画面を一瞥すると、表情を和らげ、甘えた声で電話に出た。


「もしもし? うん、今? カフェにいるよ。……え、もうすぐ着くの? 分かった、待ってるね。うん、また後でね」


 電話を切ると、彼女は僕に向き直り、悪びれもなく言った。


「ごめんね、彼から。もうすぐ迎えに来てくれるみたいだから、私、もう行くわ」


 彼氏の存在を、これ見よがしにアピールする。僕の嫉妬心を煽るための、計算された行動であることは明らかだった。


「じゃあね。……また、どこかで会うかもね」


 彼女はそう言い残し、赤いハイヒールで床を鳴らしながら、優雅に立ち去っていった。甘い香水の残り香だけが、その場に漂っていた。


 僕は、しばらくの間、動けなかった。テーブルの下には、彼女が踏みつけた、破れた紙ナプキンが落ちている。それは、これから始まる、新たな関係性の象徴のように思えた。逃れることのできない、歪んだワルツ。彼女は、僕を支配し、もてあそぶつもりなのだ。


 絶望感が、冷たい水のように身体に染み渡っていく。しかし、その絶望の底で、僕の心は、倒錯した期待に微かに打ち震えてもいた。次に彼女が仕掛けてくるのは、どんな残酷なゲームなのだろうか。僕は、そのゲームから、もう降りることはできないのかもしれない。


 菜々美の赤いハイヒールの靴音が、まだ遠くで響いているような気がした。それは、僕を破滅へと誘う、甘美で残酷なワルツの始まりの合図だった。

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