Gladiators 剣闘士たち

すけ

Gladiators 剣闘士たち

 後ろから完全武装の兵士にせっつかれ、俺は狭く薄暗い、じめじめした通路を歩く。前方には出口の明かり。

 奴隷という職業……いや、身分の人間が存在する。

 容姿・性別・年齢等の肉体的資質によって選り分けられて値付けされ、売り買いされる……人の姿をした家畜。

 その家畜の一種に、流血の鑑賞を好むという腐った市民達に娯楽を提供する――闘士奴隷と言う物がある。

 拳闘士奴隷・格闘士奴隷・剣闘士奴隷……その戦いの内容によってさらに区分される闘奴達……。

 俺はその闘士奴隷のうち、武器を用いて戦う剣闘士奴隷だ。

 数年前の戦争に兵士として参加した俺は捕虜の身になり、そのまま自国の撤退、そして講和の報せを聞いた。

 同様に捕虜になっていた奴等の内、貴族階級にあった騎士達やその直属の部下の一部は、家や国からの身代金の支払いによって開放されたが、一兵卒に過ぎない俺の為にそんなものが支払われる訳も無く、かといって自腹で払うにはかなりの巨額。

 身代金が払えずに奴隷にされた俺は、ある剣闘士養成所の主催者に買い取られることになった。


 ――一試合ごとにお前達には報奨金が支払われる、それらを全て自分の勝利に賭けろ。

   勝った配当金は次の試合でまた自分に賭ける……そうして配当金総額がお前達を買った金額に達した時、それと引き換えに私はお前達を解放しよう。

   望むならば私の部下として召抱え、褒美と相応の地位をとらせても良い。


 養成所の所長はよく肥えた腹をゆすり、満月のような顔の下部にある亀裂からそう言った。

 その言葉を信じ、俺達は修練に励んだ。試合のたびに仲間は減り、しばらくするとまた増える。

 そんな中で俺はかろうじて勝利し続け、いつしか最古参の一人となった……そして、目標金額まであと一勝。

 そう……今日の試合で勝てば、俺は解放されるのだ……。


 ――解放されたら……自由になったらどうしよう? 何をしよう?

 

 毎日のように空想していたこと。

 養成所の高い石壁の中じゃ、空想することくらいしか娯楽がないからだ。

 空想の中では、いつでも好きな時に解放身分になれた。

 惚れた女を口説き、酒を呑み、美味い料理を食べる……。

 あと一勝でそれが現実の物になるのだ。


 ――解放されたら……自由になったら何をしよう?


 もう剣を持っての殺し合いなぞゴメンだ。嫁さんでも貰って、畑でも耕していようか……。


 ――解放されたら……自由になったらどうしよう?


 嫁さんか……そう言えば、勝利者に祝福のくちづけをしてくれる、名前も知らない彼女……彼女も奴隷なんだよな……。

 可哀想に、勝つのが俺みたいな美形――美形なんだよ、少なくとも今の剣闘士奴隷の中じゃ――ばかりならともかく、大抵はタコとどっちがマシかって容姿の奴等ばっかだし。

 彼女、結構美人だよな……奴隷になるまでは何をしてたんだろう。

 そうだ、俺は今回勝てば晴れて解放身分。

 それだけじゃない、元が奴隷なだけに大した出世は望めないが、それにしたって闘技場の元チャンプとあればそれなりの待遇は手に入るはず……彼女の身請けとかできないものか……。

 少なくとも今の身分よりはかなりマシなはずだし……。


 ――解放されたら……自由になったら――


 俺の空想は半ば妄想じみてきて、さらに尽きることもない――

 数年間、本当にただこれだけが娯楽だったのだから。




 俺は通路の出口を抜け、闘技場に出た。

 歓声が頭上から降ってくる――大気を振るわせる歓声は、夏の暑い日差しと相俟って、光の雨が叩きつけてくるようだ。

 ぐるりと周囲を取り囲む観客席……俺の右手側に主賓席がある。そこには貴族達が敗者の生死――場合によっては勝者のそれまでも――の決定権を持つ裁定者として座っている。そして――

 

 ――いた、彼女だ。


 いつも通り、主賓席の脇には、勝利の女神の扮装をした彼女が控えている。

 勝利者は主賓の前に行ってねぎらいの言葉をかけてもらい、脇の階段を降りてきた彼女に祝福のくちづけを貰うのだ。

 ふと彼女と目が合う……気のせいだろうか、少し微笑んでくれたように見えた。まあ、一応顔見知りと言えなくもないしな――ここ最近、彼女のくちづけは俺が独占気味だし……。

 一際高くなった歓声だか野次だかに、俺は視線を前に戻す。

 俺の出てきた入場口の対面にある、もう一つの入場口から対戦者が出てきたところだった。

 まだ少年と言っていい、若い男だ。

 闘技場中央に立つ男が、客席に向かって少年の経歴を読み上げている。

 俺は意識して聞かないようにする……これから殺し合う人間のことなど、知りたくもなかった。

 次に読み上げられる俺の経歴。

 少年に対する同情や冷やかしのこもった歓声は、一転、俺に対する熱狂的なそれとなった。

 剣闘士として長く戦い続けるうち、滑稽なことに、奴隷である俺に多くのファンがついたのである。

 純粋に俺の強さと運に感心した奴、俺に賭けて大金を得て調子に乗った奴、なんか勘違いしている女達。

 国まで絡んでいるこの大きな娯楽の主役である闘奴――その中でも、それなりに強くて比較的見た目のまともな俺みたいな奴は、自由市民にとってはちょっとしたアイドルなのだ。


 ――お気楽なことだよな。


 俺は歓声に片手を挙げて応えた。




 選手の紹介が終わり、ジャーンと銅鑼が鳴らされる。

 その合図に従って、俺達は円形闘技場の中央部へと足を進めた。

 近くで見ると、少年の幼さはさらに際立って見えた。

 十五、六くらいだろうか……俺が初めて剣闘士奴隷としてここで戦った歳よりさらに二つ三つ若いだろう。

 ……だからといって負けてやる気はさらさらないが、やりにくいことも確かだ。

 考えようによっては、こいつに勝てば俺は自由になれるのだから素直に喜ぶべきだろう。


 ――悪いな少年、お前にも未来はあったろうが、それは俺も同じだ。


 なぶる気は、ない。

 俺はただ、強い意思をこめて少年をねめつける。

 少年は少し怯んだようだったが、すぐにぐっと睨み返してくる――が、膝が笑っている。それが虚勢であることは明かだった。

 闘いという物は、三分の一くらいは始まる前に勝敗が決まる。

 前哨戦はとりあえず俺の勝ちらしい……だが気は抜けない。

 歩み寄ってきた男達二人が、俺と少年に剣を一振りずつ渡す。

 両者とも剣を構えると、場内が水を打ったように静まりかえった。

 裁定者が右手を振り上げ、振り下ろす。


 ――ジャーン!!


 銅鑼が先ほどに倍する大音響を発した。試合開始の合図。

 俺は音と同時に飛びだし、大きく振りかぶった一撃を相手の剣に叩きつける。

 勝負の残り三分の二のうち半分はこの初太刀だ。


 ――俺はこれっくらいてめぇを殺してぇんだ!


 それを相手に思い知らせるための一撃。

 どうせ受けとめられる単純な太刀筋ならばと、ハナっから相手の剣を狙う。

 だいたいからして、俺達は防具らしき防具をつけてない。

 肩当て、胸当て、それらを繋ぐ革のベルトくらいなものだ。

 一撃を食らっただけで致命傷になるような状態……逆に言えば、一発まともに入りさえすれば勝利はほぼ確定だ。

 それが故に、俺達は一太刀一太刀に全力を込める。

 気持ちが守りに入った方の負け、攻め気で相手を圧倒すれば勝ちだ。

 剣を持つ手に走った痺れに顔を歪める少年に、俺はさらなる攻撃を加える。

 噛み合った相手の剣を払い、そのまま弧を描くように剣を返して胴を薙ぐ。 

 咄嗟に飛び退った少年の腹に赤い筋が走る。

 もう一撃、さらに一撃、ついでに一撃。

 少年は体勢を崩しながらも、意外な巧みさで全てを受けとめた。

 とはいえ、俺のペースだ。焦ることはない……。

 少年は次第に俺の攻撃を受けきれなくなり、ついに左脇腹に深手を負った。

 出血の激しい傷口を片手で押さえた少年に対し、俺はここで決めようと剣を大きく振りかぶる。

 その時、少年が行動に出た。

 傷口を押さえた手をこちらに向かって振り、自分の血を目潰し代わりに投げつけてきたのだ。


 ――顔に似合わずダーティな手を……!

 

 しかし、俺は退かなかった。

 長年の経験がそうさせたのか、ここで退いて相手に体勢を立て直させるよりも、イチかバチかこのまま行く方が良いと判断する。

 霞む視界の中、相手が尻餅をついて後ろに倒れこむのが見えた。その足元に俺の剣が叩きつけられる。

 尻餅をついたまま、必死に後ずさる少年。

 視界は完全に奪われてはいない……俺の勝ちだ!


 とどめの一撃をいれようと、俺は前傾姿勢のまま強く一歩踏み出した。

 ……その一歩で、どうやら俺は三途の川を渡ってしまったらしい。


 ――ずるっ。


 ぬめる何かに足を取られ、俺は前のめりに倒れこむ。

 ……血だまり。

 丁度目の前、チャンスだと思ったわけでもなく、ただ倒れこんでくる俺を払いのけようとしたのか、剣を突き出す少年。


 ――嘘、だろ?


 鋼の刃が俺の胸に滑りこんだ。

 その鋼の冷たい感触とは対照的な灼熱感――。

 俺は絶叫した。



 九死に一生を得た少年が俺の下から這い出すと、わぁっと歓声が起こる。

 その多くは、俺に対する怒声だ……いったい俺に賭けていた連中はどれくらいいたのか。1部の大穴狙い以外、ほぼ全員だろうが。

 ごふっ、と俺は血を吐いた。

 最後の力を振り絞って少年を見上げる――何が何やら判らないといった様子だ。

 俺も何が何やらわからねぇ、なんでだっ!? なんでだよっ!

 こんなことあって良いはずがない、悪いジョークだ――。

 こんなクソつまらないことでっ!! 


 ――俺は、死ぬ?


 嫌だっ! あと一勝なのに……こいつに勝てば、俺は……!

 何か叫ぼうとしたが、出てきたのは大きな血の泡だった。

 審判の男が俺の顔を覗きこむ。


 ――俺は負けてねぇ! まだやれる!


 声が出ない代わり、俺は審判の顔を睨みつける。

 男は、しばらく俺の顔を見た後――勝者の名前を呼んだ。

 少年の名前を。

 一層大きくなる怒号。殺せ殺せと叫ぶ観客の声が聞こえた。

 少年は怯えた顔で周囲と俺を見まわしている。


 ――終わっちまった……。


 そう思った途端、絶望とともに睡魔がやってきた。

 もういい、俺は死ぬんだ。とどめを刺すのがこのガキか兵士か知らないが、どっちでも変わりない。

 いや、この出血だと、もしかしたら死の裁定が下される前に自然に死ぬかもしれないな……。

 後、一勝だったのに……。

 どうでもいいか……闘士奴隷として殺し合いを続けることに比べれば、死ぬのもある意味自由になることかもしれない……。

 俺が瞳を閉じ、自分でも意外なほどあっさりと覚悟を決めた時、ふいに周囲の様子が変わったようだった。

 観客が静かになり、代わりに別の小さな騒ぎが起きているような……。

 もう眼を開けるのも大義だ……ようやく瞼が開くと、そこには予想だにしなかった光景が飛びこんできた。

 あの奴隷女が闘技場に飛び出してきて、なにやら兵士ともみ合いしている。

 女が兵士を振りきってこちらに駆け寄ってくる段になると、驚きの余り、朦朧としていた意識も霞んだ目も一発で治ってしまった。


 ――なんだ? 何が起きた?


 瀕死の俺にとりすがった半狂乱の彼女は……驚くべきことに涙を流していた。

 嗚咽交じりに俺に語りかけてくる彼女の言葉は――俺には理解できなかった。


 ――ゴメン、どこの国の言葉か知らないけど……俺には君の言葉が判らないよ。


 という俺の言葉も、血を吐いて咳き込むというものにしかならない。 

 追いついてきた兵士は、とりあえず彼女を俺から引き剥がそうと、肩に手をかけた。その時――

 一瞬の早業。

 彼女は兵士の腰から短剣を引き抜き、自らの胸に突き立てた!

 俺の上に折り重なるように倒れた彼女、彼女は最後に俺の耳元で短い言葉を囁いた……。

 その言葉は、やはり俺の知らない言葉だった――。 


 ――……何なんだ? 死ぬのは俺のはずで……なんで彼女まで死んでるんだ?


 何もわからないまま、最後の最後、妙に醒めていた俺の意識もいつしか闇に呑まれた。





 後ろから完全武装の兵士にせっつかれ、僕は狭く薄暗い、じめじめした通路を歩く。前方には出口の明かり。

 僕は剣闘士奴隷だ。

 所属する養成所では古参の部類に属する。

 2年前、初の試合では、後一勝で解放身分という、当時のこの闘技場では最強と言われていた剣奴と闘い、殆ど運だけで勝利を収めた。

 それ以来妙に僕は運が良く、連勝街道を歩み続けた。

 長い闘いの中で、運だけでなくそれなりの技量も身につけ、今では僕がこの闘技場で一、二を争う強豪と言われるまでになった。

 そして、今日のこの試合に勝てば、僕は自由の身になれるのだ。

 僕は空想する。


 ――解放されたら……自由になったらどうしよう? 何をしよう?


 この空想だけが、僕達奴隷に許されたたった一つの娯楽……いや、これこそが僕達だけの特権なのだ。

 闘技場の中、僕等の殺し合いを見て喜んでるような人間には判らないだろう。

 人がどんなに辛くても生きていく為の原動力……希望を持つこと、夢を持つこと。

 他人にも人生や考えがあることを想像できず、自分自身を鼓舞する刺激を頭の中で生み出すことすらできない、爛れた精神の持ち主達――。

 ありきたりの娯楽に飽き、他人の生き死にをすら遊戯と考える腐った頭で、彼らはこの遊戯に飽きた時、次は何を考えるのか。何を人生の楽しみにすると言うのか。

 初試合の時、僕が殺した剣奴に殉じた女性の言葉を思い出す――。

 あの女性の言葉を理解できた人間はあの場には殆ど居なかったようだったけど、僕には理解できた。……僕の祖国の言葉と同じだったから。

 彼女の言葉を要約するとこうだ。

 彼女は、あの剣闘士の事を愛していた。

 無論、名前と顔くらいしか知らなかったが、彼女はいつも彼の事を考え、想像していた。

 どんな人か? 何が好きで何を嫌うのか? 自分の事をどう思っているのか――。

 彼女は想像の中で彼と街を歩いたり一緒に食事をしたり、共に暮らしたりして、奴隷としての不自由な日々を送る糧とした。

 そして彼の命が失われた時、彼女も生きる支えを失い、想像の恋人に殉じる道を選んだ――。

 そんな彼女の行動を最初は怖いとさえ思ったが、奴隷としての日々を過ごすうち、僕にも判ってきた。

 現実とはいつも厳しいものだ。

 だが、厳しい現実を乗り越えるために、夢を見ることは普通のことなのだ。

 彼女らがもし別の立場で出会っていたらどうなったかは判らない。

 だけど、彼女らにはそれを試すチャンスさえ与えられなかったのだ。

 ここに来ている観客達は、夢や希望持ち、それを現実の中で自由に試すことがいくらでもできる癖に、安易に刹那的な快楽に身を委ねるだけで、それをしようとしない。

 僕は違う。

 今、僕の目の前にはチャンスがある――他人のチャンスを摘み取って手に入れてきたものだが、それだけにその価値がはっきりと判る――。

 僕の犠牲になった人達のためにも――というのは自分勝手な考えだろう。

 ライオンに食われたシマウマが、ライオンに自分を殺したんだから自分の代わりに一生懸命生きてくれなんて言いはしないだろうから。

 彼らは望んで犠牲になったわけじゃないのだ。

 だけど、僕は敢えて言おう。


 ――彼らのためにも、僕は生き抜いて……彼らの成せなかったこと……。

 ――夢や希望を現実で試してやる。 


 僕にできることといえば、これだけだから――。

 もし僕がこの先誰かの犠牲になることがあれば、きっとその人がそれを叶えてくれるだろう。

 この歪んだ世界の中、僕達だけが真に人間なんだ。

 夢も希望も、そしてそれをモノにしようとするだけのエネルギーも持った――。

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