きみに恋した日

 サッカーの応援のあと、私は公園に寄り道してジャングルジムに上った。

 ここは颯大に桜貝をもらった公園だ。そして、みんなで勉強会をしようと決めた公園。ひさしぶりだ。あのころは、毎日のように、四人でここに寄り道しておしゃべりしていたっけ。

 ジャングルジムの上から颯大と夕焼けを見たのは冬だった。ジャングルジムのてっぺんから沈む太陽の光の中に飛んだ颯大の後ろ姿は、ストップモーションで私の心の中にある。

 あんなふうに高いところから飛び降りる気持ちで、私、これから颯大の家に行こうと思う。家の近くで、帰ってくる颯大を待つつもりだ。

 ちょっとストーカーっぽい気もするし、突然会いに行くなんて引かれるかもしれない。もし、颯大がカノジョと一緒に帰ってきりしたら、私、とんでもなくミジメなヒトになるけれど。

 それはそれで、私の新しい楽譜の最初の一音になる。会わずにもやもやと考え続ける心を打ち砕く強い一音に。

 私はジャングルジムの上から遠くを見た。子どもたちに帰宅を促す五時のチャイムはとっくに流れたけれど、六月なので空はまだ明るい。小さなころ越えたかった山並みもくっきりと見える。いつか見たことのない世界へ行きたい、私の原点。そこを忘れなければ、たいていのことはなんとかなるような気がする。うん、きっとなんとかなる。

 覚悟はできた。よし、行こう。

 夕暮れの金色の光の中に、颯大のようにふわっと飛びたかったけれど、私の運動神経ではムリなので、『よいしょよいしょ』と鉄パイプを降りた。最後の二段のところで、体の向きを変えて、えいっ、と飛び降りる。勢いって大切だよね。がんばるぞー、と着地のポーズもびしっと決めた。

 だって、夕暮れの公園に人影なんてなかったから。

 そう、誰もいなかったのだ、ジャングルジムに座っていたときは。

 公園の入り口で、自転車にブレーキをかけた男子が、こちらを見ていた。



 高校生ぐらいの男子だ。

 ジャージ姿で、自転車のかごにはスポーツバッグが突っ込まれている。

 えっ、見られた? ──どきっ、としてから、さらに心臓が跳ねた。──えっ、あの男子って……?

 男子が自転車を降りた。自転車を押してこちらに歩いてくる。少し離れたところで止まった。信じられないみたいに私を見ている。

 信じられないのは、私の方だ。

 近くで見る彼はやっぱり背が高くなっていて、顔つきも少し変わっていた。頬が引き締まって、男の子から少し男っぽい感じに。

 しばらく無言で見つめ合い、先に口を開いたのは、私。

「じゅ……16点くらい?」

 言った瞬間、あほだ私ー、と思った。ポーズを決めたまま固まっていた両手を急いで下ろした。

 颯大は驚いたように目を開いて、すぐに顔を背けた。肩が震えている。

 笑っている? ていうか、私、笑われている? うわあ、どうしよう、恥ずかしすぎる……。熱くなった頬を両手で押さえる。

 やがて、顔を上げた颯大は、もう一度まっすぐに私を見た。

「ひさしぶり……綾原」

 懐かしい声がゆっくりと私の名前を呼んだ。恥ずかしさが泣きたいような気持ちに変わった。でも、何も言えずに頬を隠したまま小さくうなずく。

 颯大は何か考えるようにちょっとだけ沈黙して、

「ひょっとして、試合、観た?」

 なぜわかったんだろう。私が目顔でたずね返すと、

「制服だから、藤白の応援かな、って」

 あ、そうか。

「……あの、颯大、は、なぜここに?」

 やっと声が出た。手を顔から離せた。

「通学路だから。ここをまっすぐ抜けると、近道だから」

 そう答えて、颯大はすっと息を吸った。

「まさか、16点の体操の演技が見られるとは、思わなかった」

 ふたたび、頬が、ぼん、と熱くなった。あれは綾原礼夏一生の不覚だよ!

 だけど、颯大は、

「見たとき、うれしくなって」

 と、早口に続けて。

「正月に蓮に会って……綾原のこと、髪を伸ばして大人っぽくなった、って言ってたから、俺の知らない綾原になっちゃってんだろーな、って思ってて、だけど……」

 その先を何て言えばいいのかわからなくなってしまったように、颯大は言葉を途切れさせる。そして、

「時間、ある?」

 と、聞いてきた。

 ある。めちゃくちゃある。

 こくこく、とうなずくと、颯大は自転車のスタンドを立ててかごからスポーツバッグを取り、肩にかついだ。そうして、東屋の方に体の向きを変えたのだけれど。

 ぱさり。バッグから何かが落ちた。

 颯大の背後に落ちたから颯大は気づかなかったみたいで、拾ったのは私。

 ミサンガだった。編み目の荒い、色あせたミサンガ。……誰かの手づくり? すごくヘタくそだけど。

 颯大が肩越しに振り向いて、私の手にあるミサンガに気づいた。顔色を変え、低く聞いてきた。

「……引いた?」

「え?」

「ミサンガ……まだ持ってた、とか……」

 私はもう一度ミサンガを見る。色あせた、青と黒のインテルカラー。ハッとした。まさか、この超ヘタくそな手づくりミサンガ、私が颯大の誕生日にあげたもの?

「ごめん、何か、未練っぽい、ていうか……」

 謝られちゃったけど、そんなことよりこんな駄作を好きな男の子にプレゼントしていた自分にショックだ。それに──。

「ううん。私も、桜貝、まだ持っているから」

「──そうなの?」

 持っている資格がない、と思った。捨てるのはかわいそうだから海に帰そうか、と考えた。だけど、どこの海に? とかぐずぐず考えて、手放さなかった。手放せなかった。イギリス語学研修の勉強を始めてからは、スタンドライトの台座に立てかけてお守りにしていた。大切にしていた。

 私はミサンガをぎゅっと握って、目を閉じた。

「新しいミサンガ、つくってもいい?」

 緊張で胸が痛い。断られたら、きっとすごく落ち込む。でも、私、キズついてもいいから新しい音符を並べたいのだ。

「今度はもう少し上手なのを。お……おそろいで」

 おそるおそる目を開ける。でも、颯大の顔をちゃんと見られなくてすぐに視線を落とした。

「あの、その……カノジョ、いたら、ごめん」

 とても長く感じた沈黙のあと、颯大の声が聞こえた。

「……うちの学校、共学だけど、オトコ率九十パーセント以上だから……」

 それは、カノジョはいない、ということだろうか。どきどきしながら、じっと次の言葉を待っていると。

 いきなり、私は颯大の腕にくるまれた。

 ぎゅっ、と。

「悪い」

 颯大の声が耳もとでする。

「すぐ離す。ミサンガ、ほしい」

 ホントにすぐ、颯大は私を離した。バッグを自転車のかごにもどして、スタンドを蹴る。

「綾原と話したいと思ったけど、今日はうまく話せないや。また連絡して、いい?」

 颯大が私を見ている。記憶のままの、明るく冴えた目で。

「うん」

 たったそれだけの返事が少し震えた。

「家まで送りたい」

「うん」

 颯大に向かって一歩踏み出す。

 風が吹いた。

 その風に、私はそっと最初の音符を置く。離れていたときも、私、ずっときみが好きだった。


   *


 入学式の日、中学校の校庭は桜が満開だった。

 早く来いよ、と友だちに呼ばれて、彼は校庭を走った。校庭は新入生でいっぱいだったけれど、うまくすり抜けて友だちのところまで走る自信はあったのだが。

「あ、すみません」

 急に振り向いた誰かにぶつかってしまった。手に持っていた数枚の紙が落ち、あっという間に風に飛ばされた。校門でもらった部活勧誘のチラシだったからそのままなくなってしまっても困らない。周りの新入生たちもみんな無関心。でも、ゴミになるのは悪い気がした。しかたなく追いかけようとすると。

 女の子がひとり、チラシに向かって走っていた。一枚、もう一枚……手を伸ばして三枚目をつかまえたところで勢い余って地面に膝をつく。

 あわてて女の子に駆け寄った。女の子はすぐに立ち上がって汚れたスカートをはたき、彼に気づくと、チラシを差し出した。

「はい」

「……ありがとう」

 風が吹いて、桜の花びらが彼女の上に雨のように舞い落ちた。薄いピンクの花びらがとても似合うと思った。メガネの向こうの大きな目も、そのまなざしも凛として。

 れいな、と呼ぶ声がした。その声を振り向いて、彼女は彼の前から走り去った。桜吹雪をくぐりぬけ、女の子たちの輪の中に。


 ──その日、風は強く吹いていた。  

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恋風〜きみに恋した日 風は強く吹いていた はお @rishu7

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