第17話 いってらっしゃい

 皐月の両目から温かな雨が降り注いでから22年の歳月が過ぎた。


 あの日——皐月が6歳の冬、コハナちゃんは癌で亡くなった。白石さんと川崎さんの要望もあって、最期の瞬間が訪れるまでコハナちゃんは皐月の腕の中で過ごした。

 幼稚園で覚えてきた童謡をコハナちゃんに歌って聴かせてた声が、ふいに途切れた。

「コハナちゃん、ばいばい」

 みんなが駆け寄ったときには息を引き取った後だった。

 双眸から涙をはらはら流す皐月は親の私から見ても思いのほか冷静で。

 その理由らしきものを、コハナちゃんも祀られている共同墓地で、皐月がぽつりと漏らした。

「コハナちゃん、ここでいっかいおわかれするけど、またいつかあえるからっていってた。だから、かなしまなくていいよ、って」


 そして今日、皐月は大きな岐路に立っている。

「お父さん、お母さん、おばあちゃん。行ってきます」

 駅のホームにて皐月ははにかんでいる。

「はい、いってらっしゃい」

 私が皐月に言えば浩介さんは「いつでも帰ってこい」なぁんて、鬱陶しく泣いた。

「皐月、ワンコたちに舐められないようにな」

 浩介さんは尚も心配そうに声をかければ「大丈夫」と皐月は笑う。

「犬は私にとってパートナーだから」

 じゃあね! と手を振って皐月は新幹線の中に消えていった。


 帰宅して、2頭の引退犬の頭を撫でながらお義母さんは笑った。

「それにしてもさっちゃんが盲導犬訓練士になるなんてね」

「まだ実習生ですよ、お義母さん」

「えぇ、分かってますよ。だけど天職を見つけてきたわよね」

 コナツが亡くなってお義母さんがペットロスにかかったときに支えてくれたのは、今いる2頭の引退犬だ。皐月があの日言った、引退犬ボランティアになれたからこそのことだと思う。

 引退犬ボランティアになりたいと言ったことは覚えていなかったけれど、コハナちゃんのことは大人になってからも何となく覚えているらしく、今でも不思議な体験をすることがあると言う。


「時々、悲しい気持ちになることがあっても、その度に心の中に『よしよし、いい子いい子。安心していいよ、私がそばにいるからね』って声が聞こえてくるの。その声の主を探そうとしても、周りには誰もいなくて。その気配に、ありがとうコハナちゃん、って伝えるとね、穏やかにそれは空に溶けてしまうの」

 コハナちゃんは私にとって神様だね、と言って笑っていたけど、皐月、あなたにとって本当にコハナちゃんは神様だったのよ。


 コハナちゃん、不束な娘ですが、これからもよろしくお願いします。



——完——

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わんわんとさっちゃん 遠坂 爾枝 @34harmonie

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