壊れるまで、笑っていた
- ★★★ Excellent!!!
この物語を読み終えたとき、しばらく動くことができませんでした。どこにでもあるような住宅街の整然とした家、優等生の娘と社会的地位のある父親。そんな「普通」の家庭の中で、小学一年生の桜井沙耶は、毎日明るく笑顔を見せて過ごしています。けれどもその笑顔は「いい子」でいなければならないという切実な願いから生まれた仮面でした。
母を病で失った沙耶は、父・誠の愛を求めて必死に努力します。規律と管理が縛り付ける家で、おもちゃも飾り気もなく、勉強机と賞状、そして母の写真だけが並ぶ無機質な沙耶の部屋。物語の中で担任の高橋明日香が沙耶の異変に気づき、保健室の山田先生も彼女の体に残るあざを見つけます。それでも沙耶は父をかばい続け、「お父さんは私を大切にしてくれる」と繰り返します。児童相談所の職員が介入しようとしても父・誠が弁護士として言葉巧みに対応し、決定的な証拠も得られないまま、事態は一向に進展しません。
「遊びかたを知らない」「好きなことが分からない」と語る沙耶。子どもが本来持っているはずの自由と無邪気さが、家庭という密室の中で静かに奪われていく。この悲惨な現実は、決して遠い世界の話ではありません。日本では児童虐待の相談件数が年々増加しており、その背景には社会的な孤立や家族の機能不全があるといわれています。どれだけ制度を整えても、子ども自身が「SOS」を出せない状況や、周囲の大人が「何かおかしい」と感じても踏み込めない現実が、今もなお多くの子どもたちを苦しめています。
高橋明日香や山田先生のような善意ある大人でさえ、制度や社会的立場の壁に阻まれ、結局は何もできないまま悲劇が進行していきます。沙耶の「いびつな笑顔」は、大人の期待や社会の無関心の中で、子どもが自分を守るために身につけた仮面です。その仮面の裏でいったいどれほど多くの子どもが声にならない叫びをあげているのでしょうか。
この物語が描くのは、救いのない現実です。沙耶は、父の期待に応えようと「いい子」でい続けることに自分の存在価値を見出します。母の死後、父・誠もまた孤独と喪失感を埋めるように、娘に過剰な期待と管理を重ねていきます。二人とも「愛情」を求めているはずなのに、その形はどんどん歪み、やがて沙耶の心は限界を迎えます。そしてある一線を越えた時、沙耶の中で何かが音を立てて崩壊していきます。
読者に安易な救いを与えない物語。誰もが「自分ならどうしただろう」と考えざるを得なくなります。静かで冷徹な筆致で描かれる日常の細部や、沈黙の重さ、社会的制度の壁の厚さが、フィクションを超えて現実社会への鋭い警鐘として響きます。
読後、沙耶の「静かな悲鳴」がいつまでも胸に残りました。これは私たちのすぐ隣で起きているかもしれない現実です。ガラスの箱の中で誰にも届かない声をあげている子どもたちがいる。その気づきと現実から目を背けずに向き合うことの大切さを、この物語は強く訴えている、そのように私には感じられました。