第2話
太陽は彼の真上にある。視界のほとんどを埋め尽くす砂はオレンジ色を帯びた黄色だ。船はハンミョウの群れを追い込んでいるらしい。太陽の破片のように輝く砂煙の彼方でハンミョウの鳴き声が聴こえる。
「親父、うまくやってるな」
兄が彼の方を向かずに呟く。誰に対して向けたものでもないのだろう。砂と同質のこの男は、風や砂が無意味に移動し続けるように、無意味に目の前の事象に反応するだけだ。
船は平地の彼方へ滑ると、勢いよく折り返して彼らの立つ砂丘の突端へ邁進する。巻き上げられた砂が渦を巻いて空へ向かう。
兄は砂丘を駆け降りる。兄の黄ばんだ背中は砂煙とよく馴染んでおり、彼は兄の姿を捉えながらも見失う。穴は、砂が吹き溜まっても地表から見えなくなるだけで消えることがない。
父親は甲板に立って腰を拳で叩いている。首筋に浮かぶ汗の粒は砂と同じように光っている。太陽が中に詰まった吹き出物だ。砂煙が朝焼けの中の魂のように薄れて消える。兄はいつのまにか丘の真下に立っている。
「親父、ハンミョウがたくさん獲れたのかい?」
「いいや。数は多いが、小さいものが多いな。半分以上は還してやらなきゃいかん」
「稚体なのかい?」
「萎れているということだ」
網の中のハンミョウは折り重なってうごめいている。すべてのハンミョウはこぞって互いの下に潜りこもうとしており、錆色の塊は砂のように形を変える。閉じることのできないハンミョウの鉛色の目に太陽が映っている。乾いた眼球の中にある太陽は白くふやけている。彼は丘を滑り降りる。父親が彼をみて何かを喋った。ハンミョウの腹は腸詰めにされた肉にそっくりだ。こんな不格好な生き物は海にはいないだろう。彼は学習館で観た映像の中の海を泳いでいた魚群たちのことを思う。水底で一筋の線となって回遊する彼らは頭上の波と同じ軌跡を描く。彼らは水と親和している。彼は船縁に手をかけて懸垂の要領で甲板によじ登り、青い静脈の走る膨れた腹を見せるハンミョウを踏んだ。そのハンミョウは老人の咳のような音を立てると、動かなくなる。父親と兄の表情が流動し、笑顔の形を作った。彼はもう横たわるハンミョウを見ていない。彼方に起伏を描く砂丘を見ている。砂丘は形を変え続けるだけで、その場から動くことはない。
水中の藻は自ら発光している。泉に起こる波は、海のそれとは決定的に違う。半透明な膜を何枚も重ねているような波は、海面を埋め尽くす波の動きと比べると静かだ。彼が暗く冷たい水に手を浸すと、水中で漂っていた小海老があわてて似が出した。彼は泉のほとりで眠る。食事だけは船の中で家族と共に摂る。ほとんど唯一と言ってもいい父親の言いつけだ。船室の床にも砂は積もり、破綻と再生を繰り返す血管のような模様を描き続けている。ハンミョウの煮物の上にも砂はうっすらと積もっており、兄は皿に息を吹きかけてから箸をつける。父親は卓の下に置かれた水差しを取る。水差しは真っ黒な紙に覆われている。父親は刃物でも扱うように水差しを慎重に傾け、吸い口を含んだ。水が跳ねる音を聴きたくないのだろう。彼は立ち上がる。兄はもう食べないのかという意味のことをもごもごと喋る。彼は紙を丸めるような声で返事をして船室を出た。じっとりと湿った頬や額に砂が張り付く。
彼は泉にすっかり浸かっている。風の強い夜などは、目覚めると体が半ば砂に埋もれていることもある。そうでなくとも、体が砂の被膜に鍍金されているという状態は彼にとって気に食わないものだった。寝ている間に砂との同化がいっそう進行しているようなものだ。だから彼は素裸になって泉へ入ると、首から上だけを水面に出し、貧相な草が茂った岸を枕に眠るのだ。舌の裏側から唾液が染み出してくる。唇の隙間を通って口の中へ侵入した砂が唾を吸いとり、頬の内側へ広がる。水のにおい。砂が壁を叩く音。彼は夜の砂のことを思う。夜の砂は、昼の砂とは全く異なる物質だ。大気中の水分を吸って、どこまでも黒く膨れる。水を吸って黒く膨れた砂は、驚くことに腐ることもあるそうだ。乾いた砂の真下には、そのように黒くぐにゃぐにゃと腐った砂が堆積していると思うと、彼はいつもぞっとしない気分になる。自分もゆっくりと砂に覆われ、気づいたときにははるか地底で湿り気を増しながら腐っているのではないかと彼は混濁した意識の隅で思う。しかし、そんな考えもすでに乾いた砂粒のように散っていく思考に吹かれ、崩れつつあった。
暗闇には点々と光が散っている。光は鼓動するようにそれぞれが明滅し、息をひそめている。点呼するように瞬く光の粒を見ていると、いつか学習館の映像で見た発光するカビを思い出す。何千何万という光の粒は瞬きこそすれどその場を動くことはない。増減するように見えても密度は一定だ。彼は星雲を背にしてなにかがそこに存在することに気づいた。それは彼のすぐ近くにあるようだったが、同時に彼はその空間に自分が存在しないことに気づく。海、海へ。明滅する星の群れが彼にそう呼びかけている。暗闇の中で星雲を背に佇むそれは彼を見つめているように感じる。海、海へ。海へ行くべきだ。海へいくべきじゃないのか。いつまでもそんな場所で腐っているつもりなのか。乾いた砂と腐った砂と動き回る砂だけが支配するそんな土地でお前は抵抗せず埋まっていくつもりか。海を目指せ。海へ。光の粒が視界から消えていく。彼が遠ざかっていくようでもあるし、星々が点灯をやめ暗闇の底へと帰っていくようでもあった。海へ。海へ行くべきだ。それはどこでもない場所から彼にそう語りかけていた。
目醒めた彼は素裸のまま風洗式便所へ入り、先ほどの記憶を反芻した。海へ行くべきだと、あれはそう語りかけていた。言われずともだ。いつかはこんな土地を捨てて海へ行くつもりでいたんだ。だが、どうやってこの土地を出るか、この土地を出てどうやって海へ行くかなんて考えたこともなかったことに彼は気づく。彼の小便を吸った砂が蟹のように泡を吹いている。便所から出た彼はあわただしく衣類を身にまとう。鉄桶に泉の水を汲み上げると、黒い布を被せて中身が見えないようにした。
砂は緩やかな傾斜を描いている。靴底の砂が下へとこぼれ落ちていくのがわかる。その男は奇妙に歪んだ家の軒先で煙草を吸っている。煙草の煙は舞い上がる砂よりもずっと粗く、彼は遠目にも二種類の煙の差異をはっきりと見分けることができた。密度の違うその煙は決して混ざることがない。
「小父さん」
彼が呼びかけると、男は鼻から二筋の煙を吐き出し、おうと弱々しい声を出した。
「水、持ってきたよ」
「すまねえな」
水という言葉に男が不快感を与えたことがすぐにわかる。表情は感情に吹かれて形を変えるし、水に触れれば泡を吹くだろう。彼は軒下に鉄桶を置く。水が桶の内側を打ち付ける音が鳴り、顔は腹を空かせた赤ん坊の表情に形を変える。
「小父さんは、船で遠くへ行ったことがあるのかい?」
「遠くってどこさ?」
いきなり踏み込んだ質問だったかもしれないと彼は思う。表情をうかがう限りでは、男が何かに勘づいた様子はない。この砂野郎にこんな高等な演技ができるはずはないだろう。彼が一歩踏み出すと、男は一歩後ずさる。
「この砂漠の外さ」
「ないね。この砂漠に外があるなんてことすら考えないな」
巣を張る蜘蛛そっくりの動きで男は体を揺らす。よくただの動きでここまでわかりやすく本心をさらけだせるものだと彼は感心する。
「でもさ、ここから離れた場所へいつも行っているんでしょう。こことどう違うのか、私はそれが知りたいんだ」
「近場のハンミョウを獲り尽くすといけねえってんでな、いつもよりちっとばかし離れたところまで船を走らせたことはあらぁな。ここらじゃ見かけない硬い草が生えた場所だったなあ。そうさな、砂漠の景色はどこへ行っても同じでなあ、つるつるした丘が遠くにふたつ並んでたな。俺たちはしばらくそこでハンミョウを追ってたんだが船の腹が砂を抉ったときにな」
男が口ごもったので、彼は真正面を睨み据えて顔全体を膨張させた。眼球が飛び出し砂と同じ色に焼けた顔が二倍以上に膨れた彼の面を見て男は驚愕する。彼が口を窄めて顔を萎ませると男はその気流に乗せられたかのように濁々と言葉を噴き出した。
「乾いた砂の下には黒っぽく湿った砂があったんんで俺たちはそりゃあ驚いたよなんでお天道様に照り付けられてからからに乾いた砂の下に湿った砂があるのかって驚いたけどそれ以上にびっくり仰天したのがなお前その黒く湿った砂に半身を埋めたハンミョウの中にやけになまっ白いものが混じっているんだよ最初は色の抜けたハンミョウかと思ったんだがそれにしてはやけに大きくて思わず船を止めて甲板からしげしげ眺めたらなそりゃあ人間だったんだ」
「人間?」今度は彼が驚愕する番だった。「嘘でしょう」
「嘘なもんかねお前ようく聞けよハンミョウってのはな砂の下にいるもんだがたいていは布団を引っ被るみてえにしていてそんなに深く深くそれこそ湿った気持ちの悪い砂があるほどの深みにいるなんてこたあねえんだよしかも人間がいたんだぞ何人いたから忘れたがなまっ白い素肌をさらしてやけにつるつるしてたなあ毛なんて体に一本もないんだしかも太陽の光が嫌いらしくてなあ鳴いたんだぞそりゃあ嫌な鳴き声なったなあハンミョウの鳴き声なんて比べ物にならないくらいいやらしくてああ人間にこんな声が出せるなんて思いたくもねえよああきっとこいつらはずっとずっとそれこそ生まれたときから砂の下で水気を吸ったりハンミョウの稚体の臓物だの枯れ草の根っこだのを穴みたいな口で食べて光を見ることもなく生きてきたんだろうって思ったら嫌な気分になったねえあんまり驚いたもんでみんなですぐに土を被せてハンミョウどもを追いかける作業に戻ったけどあいつら今もあそこにいるのかねえ地中を移動したりするのかねえ」
痴呆のように唾を顎まで垂らして喋り続ける男の目はすでに彼を見ていない。
彼は砂丘を見つめる。あの下に白い肌の人間が折り重なって埋まっている光景を想像するとぷつぷつと首筋に鳥肌が立った。海へ。海へ行くべきだ。目の裏側で星が明滅する。
黄昏の先の海へ @kirinoikari
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