君に捧げたバルカローレ

石動 朔

Wake Up, My Dear.

 見上げれば青と春が映える桜花爛漫の日々は、いつもより少し強めの夕立によって早々と散っていってしまった。

 そんな日に、一通の封筒が私のもとに届く。


 風合いのある和紙にシルクの印刷で、五枚の花弁を大胆に映したもの。

せっかく近くで桜を見れるっていうのに、遠目で済ませようとしていた私を見透かすような、あの人らしい贈り物だった。

 私は手紙を開く前に、そっと目を閉じる。そしてあの病室から見える桜の木を丁寧に思い描いた。

 記憶の海に意識を沈めていくと、鮮明に覚えている一日がゆらゆらと蛇行する気泡のように浮き上がってくる。


◇◇◇◇


 あれは、私が入院してからもう少しで二年が経とうしていた頃だ。

 私が入院のために割り当てられたこの病室には、二つのベッドがある。奥が私、手前があの人、ツバメさんだ。カーテンによってすべてが覆われていて不気味な雰囲気ではあるけれど、そこに誰かがいることは明らかだった。


 この部屋が他の病室と距離があったことや名前を示すものが一つも見当たらないことから、訳ありの人なのかな? と思う。

 だとしたらどういう経緯で自分がここに充てられたのか。まったく持って思い当たる節がない。これについては早々に考えるのをやめた。

(私がツバメさんと呼ぶのは、その人のお願いだからだ。本当はマーティンと呼んで欲しいそうだけど、タイピングしやすいほうが良いという私の意志を尊重して和名のツバメにしてくれた)


 その日の朝も、ツバメさんの歌声が優しくこの部屋を満たしていた。この歌を聴き始めてから、いつしか私の中で起床という行為が心躍る楽しいものに変わっている。目を覚ますと嫌なことしか思い出せない憂鬱な日々が噓みたいだった。


 起き上がって窓の方を見ると、ちょうど良い高さに桜が花を咲かせている。


「もしこの世から桜が消えたとしたら」


 ツバメさんが突然歌うのをやめて、そう一言呟いた。

 私は急に投げかけられた質問に慌ててパソコンを開いて、唯一の連絡先が記されているツバメさんのチャットに文字を打ち込んだ。


『それは桜という存在はあって、その上でこの世からなくなってしまったってこと?』


 メッセージは右側に偏っていて、一見するとチャットの機能を果たしていないように見える。それもこれも、人と話す行為が苦手な私に原因があった。

 それを聞いて普通の人はすぐに呆れてしまうだろう、せっかくの話し相手ができたのに、と。


 だから次の日の朝、机にアドレスの書いてある紙切れがあったときは、驚きと共に喜びが込みあげていた。


 それから私たちは時間の許す限り会話をした。

 ツバメさんは話すことがないと言い、基本的に私の話になる。おかげで今や、ツバメさんは誰よりも私のことを知っている人になっていた。

 性格や好き嫌い、私の仕草を一度も見たことがないはずなのに、よくする癖まで知られている。


 それから日を追うごとに話す内容はプライベートになっていく。ついには、私の周りに味方がいないこと、そしてそれを改善するための努力を怠り、逃げ続けていることを打ち明けていた。

 するとツバメさんは「益者三友なんてそうそう見つかるもんじゃない。そして損者と付き合う決断を拒んだ君はむしろ称賛されるべきだよ」と、私のネガティブな話を軽く一蹴する。

 その上私が病に陥ったのは、罰ではなく私と邂逅を果たすためだとさえ言ってのけるほどだ。

 そして、その言葉の一つ一つが私の人生の支えになっている。今はまだ沈んでいるこの気持ちも、いつかは晴れるんじゃないかと信じている自分が確かにいた。


 私のメッセージを読み終わったのだろう。少し間をおいてツバメさんは短く息を吐く。

「もし明日の朝、目覚めたときに桜が根こそぎなくなっていたとしたら人々はどう思うのか、というところかな。きっと初めから存在していなかったら、人々は春が少しつまらなくなるだけでごく自然に暮らすだろうね」


 私は桜のない世界を想像する。


『うーん、そんな世界、春がつまんなくなるよ。私は割とこの窓から見える桜を楽しみにしてるっていうのに、それがなくなってしまったら目の前にあるビルのせいで心まで閉鎖的になっちゃうよ』


「そうだね。数少ないこの部屋の楽しみが一つなくなってしまうのは悲しいことだ」

 沈んだ声色からツバメさんの心情が感じ取れる。自分から振った話題なのに…… と思ったが、出かかった言葉をなんとか押しとどめて、代わりに気になっていることをツバメさんに問いかけた。

『あと、なんだっけ。桜がなくなったらのどかになっちゃうんだっけ』

 カーテン越しに、うーんと間延びした声が響く。


 世の中に たえて桜のなかりせば

 春の心は のどけからまし


「桜はいつ咲くのだろうか、満開に咲いたら咲いたですぐに散ってしまうのではないだろうかって感じで、ヤキモキする春特有の儚さが無くなってしまうことを詠んだものだね」


『でもそれって良い事なの?ヤキモキなんて私生活だけで一杯一杯なのに、桜にまで気を回してたら疲れちゃうよ』


 それもあるけど、とツバメさんは付け加える。

「それを含めて比喩みたいな意味があるんじゃないかな。

それに人は象徴というものを大事にする。四季がはっきりしている日本は寒さが厳しい我慢の冬が終わって、様々な物事のはじまりを迎える春をとても楽しみに待っているよね。そんな心情を最も形にできるのは、きっと桜だけだろう。

 という言葉だって、桜が咲く日本だからこそ、こういった名前になっているはずさ。

 まぁ日本人に良くある滅びの美学というか、美しくも儚い花っていうのは、どこか刺さるものがあるんじゃない? 散る花の吹雪さえも美しいと感じてしまうのは、そもそも花が散るには咲かなければいけないっていうエモさがあるからね。

 だからきっと桜をこの世から消したとしたら、人々は気が狂ってそのまま神格化さえしてしまうような気がするよ」

 その語尾の上がり具合から、ツバメさんの笑顔を想像するのは容易だった。


 カーテンの向こう側のツバメさんを見たことはないけれど、きっと人を包み込む優しさを纏った人なのだろうと思う。

 思い描く姿はいつも、澄んだ渓流のような雰囲気で、全身から絶えず揺るぎない生命力を放っているように感じられる。でもいざやりとりをしてみると、掴みどころのない、ひょうひょうとした様子が伺えた。


『なんか、ほんと不思議。欠点のように感じるものさえも美点に変えてしまうのだから。それが羨ましくて憎くも感じるのに、結局この花に魅了されちゃう。

だからこそやっぱり散って欲しくない。もし散ってしまうのなら、私も一緒に綺麗に散れたらいいな』

 送信してから気づく。

 私は自分の発言に、あ......と心の中で声を漏らした。ツバメさんは私のネガティブな発言に対して常に敏感だ。

 しばらく沈黙が続いた。ツバメさんは、怒ることはないが忠告はよくしてくれる。

 今までの私の考え方、価値観は違うのだと。環境によって植え付けられた固定概念が自分の世界を生み出しているかもしれないが、世界はそんな形はしていないよ、と。


「桜が散っても、一年でその木が枯れることはない。散ったら終わりじゃない。同じ木で、また同じ花が咲くのを見るために、人は生きるんだよ」


 ツバメさんは私の発言のすべてを受け入れ、私のためだけに作り替える。さらにそれらを美しく梱包し、そっと渡してくれるのだ。


『確かに。そんなこと、考えたことなかった。ありがとう。もっともっと前向きに考えることができそうな気がするよ』

 そう返信すると、ツバメさんがふふと小さく笑みを零した。


「桜の花が下向きに咲くのは、人が上を向くようにするためだと私は思うよ。だから見上げてみて、元気を出して。

 桜も人も、不変や永遠なんてない。だからこそ、人はこの花に自分を寄せているんだよ。そうして目を合わせながら、互いに手を取り合って生きていく。なんて素晴らしいことなんだろうね」

 ツバメさんはそこまで言うと、一拍置いて私にこう言う。


「私もこの地から離れるときは、きっとさくらを思い出すと思うよ」


 その言葉を聞いて、私は無意識に指を走らせていた。

『それは、どっちの?』

 

 あまりにも速い返信だった。しかしツバメさんはそれを読んでいたかのように、余裕をたっぷり含んだ声で言い放った。

「うん、確かにそうだね。

 この世から桜が消えたとしたら、もしかしたら君の名前はなかったかもしれないね」


 そこで、会話は途切れた。

 同時に十数秒の静寂が訪れる。

 車のエンジン音や衣擦れ、足音もない少しの時間。草の芽の伸びる音さえも聞こえそうな空間の中で、一つの綿雲が、流れる時を誰にも気づかれないよう慎重に、ゆっくりと遅らせているような気がした。


「君は死なないよ」


 ツバメさんは毎日絶やさず、何度も何度も私に言う。

『うん、そう願ってくれてありがとう。でも、考えちゃうんだ。

 桜がぱたと軽い音を立てて倒れちゃうみたいに、自分の最期が』

「ううん、君はまだ来年も咲ける。花を咲かせることができる」


 うん。そうだね。

 そう打ちかけて、手を止めた。

 返事が淡泊すぎる。いくらツバメさんの思いを受け入れられないとはいえ、こんな返し方はないだろう。

 しかし、タイピングをやめる音は聞き慣れているはずだ。


 話を聞いて私がメッセージで返す早さよりも、向こうの返答はいつも熟考してから答え始める。


 だが、今は違った。ツバメさんは少しの間を置かず早口で話し出す。


「『彼女は、二十五年間家から出たことがなかったブー・ラドリーよりももっと孤独だった』

 ハーパー・リーのアラバマ物語に出てくる一文だよ。私はね、あの曲が好きなんだ。あれ、良い曲でしょ?」

 あれというのは朝に歌っている曲のことだろうか。

 いつもアカペラで歌っているけれど、その言葉の端々から思うにとてもポップな曲なんだろうなと感じていた。

 歌詞は英語で、サビや間奏でウェイクアップと執拗に訴えている印象だった。普通ならしつこくて嫌になるかもしれないけれど、ツバメさんの優しい声ですべてを包みこみ、穏やかにさせている。

 それと確か、四季によって出だしが違ったような、今日は確かスプリング、春だった。


「原曲はサマーだね。夏の終わりだからこそなんだろうけど、他の季節でも私はいいなと思ったんだ。

 簡潔に言えばね、私は君におまじないをかけているんだ。

 起きろよ、素敵な朝だ。太陽の眩しさをその目で確かめるんだ。起きろよ、とても素敵だぞってね。

 そうやっていつしか君は目覚めている間が楽しくなっていき、今抱えている問題が人知れず根本からなくなってしまっているんだ。といっても根拠のない、ただただ君を惑わせてしまう言葉かもしれないね。こういうの、なんて言うんだっけ?

 まぁいいや。とにかく今の私には、君がまた花を咲かせるためのお手伝いくらいしかできないんだ。

 ......もし君が良ければ朝のモーニングコールぐらいにでも歌わせてくれないか?」


 その問いかけの答えは言うまでもなかった。

 少しの沈黙のあと、ツバメさんはありがとうと、はっきり私に言ってくれた。


 その言葉が最後だった。


 私の意識は晩春の嵐の勢いに呑まれ、深い深い闇に落ちていく。


 しかし混沌の中で、私は確かに意識を保っていた。

 思うにこれは、正確に眠りについたわけではないような気がする。思い出から目を覚ましているのか、未だ記憶の中なのか。自分でもわからない。

 どちらにせよ、これが明瞭な現実の一部であることに変わりはなかった。何らかのエラーが生じて一時的に質感が変更された、現実の一部なんだ。


 辺りの速度が緩やかになる。

 そして、周りにあるすべてがその輪郭を失い、混ざりに混ざって一人の益者を形成した。その人物は私の隣に座って、ゆっくりとこちらを覗いている。


 ああ、やっぱりツバメさんは私の思い描いた通りの姿だったんだ。


 温かな毛布で包みこまれた感覚は、ドアが開かれる音で途端に消えてしまう。目を開け起き上がってみると、両親と担当医が立っていた。

 視界が広い。何かがおかしい。

 横を見ると、そこにあったのは開け放たれたカーテンと生気のないベッドのみ。

 私は慌てて周りの人間に目を向ける。


「あ、の。つ、つ、つばめ、は」


 この入院生活で、思いをすらすらと言えるようになりたいと密かに思っていた。でも、それはこの期間で治すことができなかった。いや、あえてしなかったのかもしれない。

 タイピングの音が好きだと言うあの人に甘えていただけなのかもしれない。

 

 詰まった言葉はなんとか担当医に伝わり、彼は大きく口を開けてああ、と答え、わざとらしく頷いたあとにこう言った。


「残念ながら今年は、この桜にツバメの巣が作られることはありませんでしたね」


 それを聞いて、私ははっとする。

 もしかしたらツバメさんなんて最初からいなかったんじゃないのか。そんな嫌な妄想が全身を蝕む。私が退屈で生み出した幻想か、はたまた神様の悪戯か......

 でも、それでもあの歌は、一番手に届きやすい引き出しの中にあるほど近く、鮮明に私の中で残り続けていた。

『起きろよ、素敵な朝だ。太陽の眩しさをその目で確かめるんだ。起きろよ、とても素敵だぞ』

 そう、ツバメさんが優しく呟いているのが容易に想像できた。

 

 とにかくあの人は実在している。


 入院生活最後の日、そう信じることを心に誓った。


◇◇◇◇


 だからこそ、こうやってツバメさんから手紙が届いたのだ。ただの紙切れではなく、ちゃんとした紙で。

 手紙を開くと、そこには小さな文字で想いが紡がれていた。


『二十五年間、こんなに生き生きとした気持ちになったことはないよ。

だから起きろよ。 私たちにはやらなくちゃいけないことがたくさんあるんだ。

ああただ、朝が早い時間はゆっくりでいい。君を急かすつもりはないんだ。

私は一晩中起きていたからなんでもできる気分だけどね。


 でも、一本の桜が咲き変わり、一匹のマーティンが去ってしまったことを私のせいにしないでくれよ。

 でも、君は自分が言いたいことを言うんだろう?

 だから君がすべてに区切りを付けなくちゃいけないんだ。

 だからいつか来るその日まで、私は散っていく花びらに想いを込めて、それが筏を成し、君を運ぶ方舟となるよう、微力だが後押しをさせてくれ。


 巡り巡る何度目かの春に、桜の木の下で会えるといいな』


 一枚の花弁がくるくると回転しながら川の水面に吸い込まれていき、私はそれを追って下を向く。するとそこには、一面の桜色が途切れることなく、うんと遠くまで続いていた。

 この大きな方舟は沈むことなく、きっと私の進むべき道を示してくれるだろう。


 私はかいを手に取った。


「さくら、行こう」

 私を呼ぶ声がする。


「うん、今行く!」

 力強い私の声が、彼方へ響いている。

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