ピアノ

らいむぎ

ピアノ

学校の音楽室にそのピアノはありました。


かつては黒くてつやつやしていた見た目も、もうすっかり濁ってしまって、綺麗な布でどれだけこすっても、元の輝きは取り戻せません。


そのピアノの、ピンポン玉のように軽く華やかな音色はとうの昔に忘れてしまい、今では枯葉のカサカサとしたような音色しか出せなくなってしまいました。



しかし、そんなピアノにも唯一の楽しみがありました。

ある女の子がお昼休みの時間にそのピアノを弾きに来てくれるのです。


…今日も来てくれたんだ。


ピアノは声を出せませんが、音でその気持ちを伝えます。


(ピロリンポロリン)


女の子も、そのピアノの音色が大好きで、毎日ピアノを弾きに来ては、とてもうれしそうな表情をするのでした。



ある日、女の子がいつものようにピアノを弾きに来ると、そこには珍しく先客がいました。


女の子は音楽室の外でその先客の弾いている綺麗なメロディーを聴きながら、どんな人が弾いてるのかなあと想像膨らませました。


まるでマシュマロを踏んでいるような柔らかなペダルの踏み方や、優しく猫を撫でるようなしなやかな指の動きまで、女の子は音を聴いただけでわかるのでした。


「私が弾いたんじゃ、あんな音は出せないなぁ。」


女の子はピアノの音が大好きでしたが、その音を聴いた日から、その人の弾くピアノの音色が大好きになったのでした。


女の子は人見知りだったので、先客のいるときには、音楽室に入ることができず、ただ扉の前でじっと座って耳をすませていました。そして先客のいないときには、ピアノに駆け寄り、あの人の素朴できれいなピアノの音色を響かせられるように試行錯誤を繰り返しました。


そして、卒業式の日も女の子は同じように音楽室の扉の前で聴き、そこに入る勇気が出せないまま学校を卒業することになるのでした。



その後、長い年月をかけて、女の子はピアニストになりました。


音楽室でのピアノの音色を追い求めることをやめなかった彼女にとっては、それは自然なことでした。


それでも、ピアニストになってどれだけたくさんの人に賞賛されようとも、彼女はどうしてもあの音色が忘れられなくて、それに全く近づけていないことに時々苛立ったりもするのでした。


もしかしたらあの子は今すごく有名になっていて、どんなピアニストでも敵わないような天才になったんじゃないか、そう思っていろいろなピアニストに会いに行きました。しかしどの音色を聞いても、あの大好きな優しいピアノの音色にはたどり着くことができませんでした。



それから彼女はピアニストをやめて、音楽の先生になると、自分の通っていた学校で音楽を教えることになりました。


その学校に来て1番気になっていたのは、あのピアノが今どうなっているのかということでした。当時も相当古くなっていたので、新しいピアノに取り替えられていても、おかしくはなかったのです。


彼女はドアの前に立ち、一呼吸置くと、意を決して扉を開けました。


物の配置こそは少し変わっていましたが、見た目やその空気感はあの頃の音楽室と同じようなものでした。


そして彼女の目線の先にあったものは、黒くてつやつやした真っ黒なピアノでした。

あのピアノは、どこかへ消えてしまっていたのです。


するとそこへ、1人の男性がやってきました。


その男性は彼女を見てペコリと頭を下げ「1曲弾いてくれませんか」と話しかけてきました。


彼女は驚いて「どうして急にそんなことを」と返しました。


「確かに」男性は少し目を伏せて、ちょっと考え込んでそれからまた口を開きました。


「私はこの学校で教師をしている者です。」


「そうなんですか。」


「実は僕はこの学校の卒業生なんです。」


「そうなんですか?」


「ええ。…そしてあなたも同じですよね。」


「どうしてそれを。」


「あ、僕のを聴いてもらったらわかるかもしれません」


そう言うと、男性はその綺麗な、ピカピカしたピアノの椅子に座り、おもむろに曲を弾き始めました。


どこかで聞いたことあるような、懐かしい曲、そんな印象が、彼女の胸にポンと現れたのでした。


でもそれ以上は、どうしてもピンと来ないのでした。


男性は、演奏を止め、また少し俯いて、考え込むと「ああそうか」と言って、音楽室の隅にあった扉を開けました。


その先には、小さな部屋がありました。


「すみませんが、あなたも少しこの部屋に来てもらえませんか?」と彼女に話しかけました。


言われるがまま、彼女はその小さな部屋に入りました。その途端、彼女の記憶の蓋がパカッと音を立てて開いたのでした。


「あの時のピアノ。」


彼女がそう言うや否や、男性はその部屋に置いてあったピアノの椅子に座り、弾き始めました。そのピアノは、色がちょっと濁っていて、カサカサしたような音が鳴るのでした。


「これはあなただったの。」


あの時のお昼休みの記憶が、風でページが捲られていくように、次々と蘇りました。


そしていつまでたっても、女の子がその綺麗で優しい音色に追いつけなかった理由が、やっとわかりました。


この音色は、このピアノと、その男の子の演奏でしか成り立たない、とても素朴で、繊細で、ちょっとつついたら崩れてしまうような、そんな音だったのです。


女の子も我慢できなくなり、その大好きだった曲を憧れの音色とともに弾きました。


弾きながら、女の子は我慢できなくなり、「どうして私のことを」と、ちょっと音を間違えながら聞きました。


男の子は笑って、「実はこの音楽室の扉は、こっちからだと外がよく見えるんですよ。」と返事をしました。


(ピロリンポロリン)


2人の嬉しそうな表情を見ながら、ピアノは嬉し涙を奏でるのでした。


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ピアノ らいむぎ @rai-mugi

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