健やかでありますように。飢えることがありませんように。
のーと
信じること
かつて見失わないよう必死に追いかけていた背中が、今日は私を「まだ時間あるから大丈夫。慌てて転ばないでよ。」と待っている。
玄関ドアの狭い縦長のくもりガラス通じて届く不明瞭な光が彼には鮮明に見えているに違いない。母はこんなに不安なのにと苦笑する。
「ごめんごめん、お待たせ。行こっか。」
彼は「うん」と頷いてドアノブを回す。春の風がごうごう吹き込み、砂が顔にわああと付着したのを感じる。マスクしてくればよかった!と横で愛息子が叫ぶ。今からでも戻れるけど、と声をかけると、いや、いいや!と笑った。
いってきまあす!とドアを閉めて、私たちは横並びになる。身長はすっかり抜かれてしまったが、誇らしかった。砂埃がすごくて助かった。
「はやいね、もう18歳か。」
「大人ってよくそう言うけど、そんなに早かったかな。」
「んふふ、アンタもじきわかるようになるよ。」
「色々あったし、大変だったよ。俺には随分長く思えた。もう1回やり直しとか言われたら、やんなっちゃうかも。」
三分咲きの桜並木を通って、何の気なしに彼はそんなことを言う。大変な思いさせてごめんねなどと素直に言えば、彼は思い出したように気を遣うだろうから、それは心の中にしまっておく。
「とりあえず、卒業おめでとう。ここまで沢山ありがとう。」
校門には生徒とその父母が卒業式の看板のために長い列を作っていた。皆、いい笑顔だ。
「じゃあまた後でね。入場はまっすぐ歩くんだよ!」
写真はあとでいいやと昇降口に急ぐ息子に「ああ、行ってしまった!」と思う。私にはあと何度、共にする祈りが許されているだろうか。
彼を見送って、私のなかにはたと迷いがひとつ舞い込んできた。
夫に連絡してみるべきだろうか。やはり、私と息子2人では看板前の写真も見栄えが、いや、そんなことは決してないと思うのだけれど。
フッ軽な男だったので、呼びさえすれば来てしまうだろう。ここで断るような男であれば結婚も離婚もなかった。
私は見る目のない女だった。
息子が、何を考えているのか、息子にとって何が1番なのか、ずっとわからない。彼はよく気がつく子だった。無理をして笑っているのかもしれないと何度も考えた。
体育館のパイプ椅子に着席してなお考える。今幸せ?などと野暮なことを桜の香りに後押しされて彼に求めてしまうことが無いように、私は背筋を伸ばす。
一生を委ねる決断さえ違うような、あなたのためでなければはねる油にも、ミシンにも立ち向かえないようなそんな女だけれど、母たる私はせめて強くありたい。
呼名の、私の旧姓、いやもう、一生変わることのない苗字と、彼の名が呼ばれたとき、一番大きな声が私の鼓膜に轟いたから、それがきっと、とっても野暮なその問への答えだと思うのです。
健やかでありますように。飢えることがありませんように。 のーと @rakutya
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