【三題噺】天守の影でシャツを干す

本日の三題:天守閣、シャツ、読む

ジャンル:ダークメルヘン


 その城の天守閣には、決して昇ってはならないと、村では昔から言い伝えられていた。

 理由は知られていない。ただ、昇った者は誰ひとり戻ってこなかったという。

 それでも私は、その石段を登る。白いシャツが、背中に張りついている。昨晩の雨で濡れたそれが、朝の冷気に乾ききらず、じっとりと体温を奪っていく。

 階段の先、開かれたままの扉の向こうに、何かが待っている。

 私は手にした本を開く。父の遺品。この城と、“何か”について書かれていた。

『昇るな。もし昇ったのなら——“読まれる”前に、“読む”のだ』

 その一文だけが、異様に強い筆圧で記されていた。

 “読む”とは、何を。

 天守の中は、空だった。

 ただ、一面に干された“シャツ”があった。白い、同じ形のシャツが、何十枚も、風もないはずの空間でふわりふわりと揺れていた。

 私は思わず、ひとつ読むようにそれに目をやった。

 ——そこに、名前が書かれていた。

 刺繍で縫い付けられた名。

 村の名前。隣村の名前。旅の途中で消えた誰かの名前。

 そして、父の名前。

「読んでしまったのね」

 振り返ると、少女が立っていた。

 黒いドレスに、編み上げのブーツ。片目に包帯。もう片方の目が、まるで墨を垂らしたように黒く染まっている。

「名を読んだ者は、その名に縛られる」

 彼女は、そう言って、私の手から本を奪い取った。

「もう、間に合わない」

 天守の壁が軋む。

 ひとつ、またひとつ、シャツが地に落ちていく。

 それはまるで、命がほどける音だった。

「どうすればいい」

「あなたも、干されるの。名前を、風にさらして」

「それが……“昇った”者の運命なのか」

「いいえ。読むか、読まれるか。それだけ」

 彼女は、黒い指先で私の胸元に触れた。

 そこに、いつの間にか刺繍が浮かんでいた。

 私の、名前だった。

「今なら、ひとつだけ選べる」

「なにを」

「誰の名を、忘れるか」

 シャツの海が、さざめく。

 そこに刻まれた名のすべて。かつて笑っていた人々の記憶。私が愛した声、手、香り。

 そのうちの、たったひとつだけを、切り離す。

 私は目を閉じた。

 そして、ひとつの名を思い出さないことを選んだ。

 ——誰の名だったか。

 その瞬間、シャツたちは静かに舞い上がった。

 風が吹いた。

 天守の壁が崩れ、世界が反転する。

 私は、地に落ちる。

 けれど、胸元の刺繍だけが、何も変わらず残っていた。

 そこには、私の名と、もうひとつ。

 消したはずの、誰かの名が、確かに縫われていた。


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3ワード・ストーリーズ 夜月 朔 @yoduki_saku

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