雪の降る日に嘘つきは
@kinoyuuki
第1話
昼過ぎから降り続いた小雨は、いつしかみぞれに変わっていた。冬用タイヤにしておいて良かったと思いながら、相良彩芽はコーヒーに口をつけた。ふ、と吐いた息を、雪まじりの空気がさらっていく。天気のせいか、山あいのサービスエリアは車も人もまばらだった。
「彩芽ー! ごめん、お待たせー!」
彩芽が振り返ると、玉原レナが駆け寄ってくるところだった。目深にかぶった帽子とマスクのせいで、ぱっと見では誰もレナだと分からないだろう。
「買えた?」
「うん! ラスト3個って言われた」
「あっぶな」
レナが、手に持っていた紙袋を掲げてみせる。「MAKIBAプリン」と大きく印刷されていた。得意げなレナの笑顔がまぶしくて、彩芽は目を細めた。
ランダム再生のスピーカーから聞き慣れたイントロが流れて、助手席のレナが小さく手を叩いた。
「ちょっと上げていい?」
彩芽の返事を待たず、レナがスピーカーのボリュームを上げる。曲名は、「真冬の約束」。ライブの鉄板であり、スノー・アラモード――通称スノアラのデビュー曲だった。数年前は毎日のように耳にしていたのに。レナが曲に合わせてハミングするのを聞きながら、彩芽は懐かしさに目を細める。
「私、まだスノアラの曲全部歌える」
「すご。うち、もうだいぶ忘れちゃった」
「えー。しっかりしてよ、彩芽。私はまた三人でやるつもりなんだけど」
「……いつかね」
それは無理、と飛び出そうになった言葉を飲みこんで、彩芽は代わりにそう絞り出した。三人――彩芽、レナ、そして天草詩が、スノー・アラモードとして一緒に活動していたのは五年ほど前のこと。グループ解散後、レナはソロアーティスト、彩芽は後輩を育成するダンストレーナーとして過ごしている。詩、詩は。
「いつかじゃないよ。私たち、来年十周年だよ?」
無邪気なレナの声に、カーナビの音声が重なった。次のインターチェンジが出口らしい。ここまで来れば、目的地までは二十分ほど。
「ごめん、ちょっと音下げて」
「はーい」
レナの手によって、徐々に音楽が萎んでいく。車の窓ガラスにぶつかるみぞれは少し勢いを増したようだった。彩芽はハンドルを握り直した。
総合病院という割に、その建物はこじんまりとしていた。
「ねえ、詩って、元気なんだよね」
建物を見上げるレナの声は少しだけ硬かった。
「まあ一応? 入院してるから超元気ではないけど」
「やめてよ、不吉なこと言うの」
「ごめんごめん、ちゃんと元気だから。ほい」
彩芽が手を差し出すと、レナは素直に握り返してくれた。
ナースステーションは階段を上がってすぐの場所にある。彩芽がカウンターに顔を出すと、見知った顔の看護師がすぐに出てきてくれた。
「こんにちは。そちらの方も面会?」
「えぇ」
看護師と目が合ったのか、彩芽の背後でレナが身体を強張らせたのが分かった。大丈夫と伝えたくて、彩芽はレナと繋がったままの指に力を入れた。世間は彩芽や詩のことをさっさと忘れたが、まだ表舞台にいるレナはそういうわけにはいかないのだろう。だが、看護師はレナに気づいた様子はなく、二人分の面会者用名札を差し出してきた。
「彩芽、慣れてるね」
「まあ……来るの初めてじゃないしね」
「詩の事故って秋ごろじゃなかった? まだ入院してるの?」
レナの疑問はもっともだった。返事を探すふりをして、彩芽は言葉を濁した。事故の詳細をレナは知らない。レナ自身が全国ツアーやCDのリリースで忙しくしていたこともあるが、何よりも詩がそう望んだからだった。
廊下の一番端の部屋。病院側の配慮でネームプレートは無記名だった。ドアの取っ手を握ろうとして、不意に彩芽の指先が強張った。
「彩芽?」
レナの怪訝な声が、彩芽を現実に引き戻す。
「あ……開けるね」
ゆっくりとスライドさせたドアが唸るような音を立てる。今日はやけに重たい、と彩芽は思った。
「おー、おつかれ」
呑気な声がした。詩の、声。
詩は背もたれを起こしたベッドに身を預け、点滴だらけの手をひらひらと振っていた。
「詩っ!」
彩芽が何か言うより早く、レナが駆け出していた。レナは半ば飛びつくようにして詩を抱きしめ、何度も名前を呼びながら、詩の胸元に頭を擦り付ける。そんな二人をよそに、彩芽は勢いよく振り回された紙袋の中のプリンのことが気になっていた。
「彩芽、天気大丈夫だった?」
レナの頭を撫でながら、詩が窓の外に目をやる。彩芽もつられて詩の視線をたどった。窓の向こうはいつの間にか白んでいて、西日を反射して雪がきらめいている。真っ先に心配するのが天気かよ、とは思っても言わなかった。
「一応タイヤ替えてきたし」
「さすがリーダー。計画的」
「リーダー関係なくない?」
「いやいや、あるよ。あるある」
「もう、適当」
ぽんぽんと行き来する言葉のテンポが心地良くて、彩芽の頬が自然と緩む。同時に、レナがくすりと笑ったのが分かった。
「え、あたしそんな面白いこと言った?」
「ううん。でも、詩の適当さがおかしくって」
「え、今あたし褒められ」
「てはないと思うよ」
あちゃー、と詩が自分の額を軽く叩いてみせる。大げさな身ぶりは、きっとレナのためだろうと彩芽は思った。
「レナ、プリンは?」
「あ、そうだった。MAKIBAプリン買えたんだよ! 食べよ食べよ」
「すごいじゃん、大人気店のやつ」
詩の声が少しだけ上ずる。嬉しい時の彼女の癖。何度も聞いてきたから、彩芽はそれを知っていた。ラスト3個だった、と得意げに言いながら、レナがプリンとスプーンを渡してきた。
「――ねえ、詩」
レナの声がした時、彩芽のプリンはまだ半分ほど残っていた。レナの次の言葉が彩芽にはすぐに分かった。思わず制止したくなったが、それではここに来た目的が果たされない。
「来年、スノアラ十周年だね」
「……覚えてるよ、ちゃんと」
「約束したよね、私たち」
「うん」
だんだんと震え始める声を、レナは誤魔化すつもりもないようだった。
「私、三人でステージに立ちたいよ。本気だよ」
じわりと語尾が溶けていく。思わず彩芽はレナの背に手を添えた。呼吸のたびに、レナの体が小刻みに揺れる。
「うん。あたしもだよ」
「……え?」
「なーにしょぼくれた顔してんの、レナ」
「だって、詩。怪我は」
「今絶賛リハビリ中だから!」
詩が力こぶを作ってみせる。その腕から垂れた点滴の管が、ぷらぷらと揺れた。詩のスマイルは五年経った今もあの頃と変わらず完璧で、それが余計に彩芽の胸を貫いた。レナが派手な音を立てて鼻をすする。
「詩ぁ……っ!」
「こーら、泣いたらメイク崩れるよ」
「良いもん」
レナの涙を拭おうとした詩の腕が、点滴の管に引っ張られるのが見えた。彩芽はその引っかかりをそっと解いてやる。
「私、ちょっとトイレ行ってくる」
「うん。ついでにメイク直しておいで。出て左だから」
ありがと、と残して、レナがぱたぱたと部屋を出て行く。
引き戸が完全に閉まった途端、彩芽は耳の奥がぎゅっと圧迫されたのを感じた。急に二人きりであることがくっきりとしてしまった。
「レナはかわいいねえ」
詩の指が、点滴の管のねじれを丁寧に解いていく。不器用な指先が気になって、彩芽もそれを手伝った。
「……うそつき」
言葉は勝手に彩芽の口からこぼれた。もう一生歩けなさそうなんだよね、と言った時の詩を、今もはっきりと覚えている。笑顔を作ろうとした詩を彩芽が抱きしめたのは、初めてこの病室を訪れた時だった。
「リハビリ頑張ってるのは本当だよ」
「あの子、本気で十周年ライブやる気だよ?」
「レナはいっつもまっすぐだもんね」
「だから本当のこと言うんだと思ってた」
詩が、人差し指を自分の口に当てる。
「……レナはさ、嘘つくの下手だからね。あたしが嘘ついてあげなくちゃ」
「何それ。そんなの、いつかバレるじゃん」
「分かんないよ? それに、いつか本当になるかも」
詩の視線が、彩芽にぴたりと吸い付いた。どこまでも深く、底の知れない海を覗き込んだような気持になった。
「あ、そうだ」
滞った空気をかき混ぜるように、詩がわざと明るい声を出したのが分かった。未開封のプリンが、彩芽の手に押し付けられる。
「え、何」
「今日ちょっと食欲なくて。もらって?」
「や、でも」
「せっかくレナが買ってきてくれたしさ」
プリンを押しつける詩の手の力が増す。彩芽はそれを押し返せなかった。まただ、と思う。レナには足のことを伝えないでくれと言われたあの日と同じ感覚だった。皮膚の表面が、細かな針に覆われたような。
「レナのこと、よろしくね。……彩芽」
そして詩は、こういう時だけリーダー扱いをしてくれない。
帰ってこないレナを心配するふりをして、彩芽は部屋を抜け出した。レナはラウンジの隅っこに座っていた。入院患者との面会用に作られたスペースだが、今は誰もいなかった。
「レナ」
「彩芽……」
レナが小さく鼻をすするのが聞こえた。部屋を出て行ってから少し時間があったが、その間もレナの涙は止まらなかったらしい。
「隣、いい?」
レナが頷いたのを確かめて、彩芽は隣に腰を下ろした。すると、レナの手が無造作に太ももへ置かれる。彩芽が察して握ってやると、その手はびっくりするほど冷たかった。
「冷えすぎじゃない?」
「彩芽の手が温かいだけだよ」
「うそぉ、うちいつも冷たいって言われてたのに」
「それ、詩からしか言われてなくない?」
「そうだっけ」
詩はやけに平熱が高い人で、冷えるステージ裏ではしばしばカイロ代わりになってもらった。そんな些細なことばかりが鮮明に残っている。
「詩ってアイドルだよね。今も」
「え?」
レナの指で遊んでいると、不意に彩芽の指が絡めとられた。
「ねえ、彩芽は、どう思ってるの?」
「どう、って」
「じゃあ質問変える。彩芽は三人でやりたくないの?」
「それ、うちの気持ちは関係なくない?」
「本当に? 本当に、そう思う?」
レナの真剣な視線がこちらを貫く。少しは取り繕わせてくれたっていいのに、レナのまっすぐさはそれを許してくれなさそうだった。
「そんなこと、言ったって、さ」
一つ息を吐くたびに、腹の底に押し込めた何かがうごめいた。腹の筋肉が引きつって、呼吸が上手くできない。
「あー! もう!」
叫んだ瞬間、彩芽の体中を熱が走った。詩も、レナも、勝手だ。うちだって、本当は。
「……言わせないでよ」
「やだ聞きたい」
幼さの残るレナの指先に、ぎゅっと力が入る。今の詩の姿を見てもなお、まっすぐでいられるレナが少しだけ羨ましかった。
「レナのそういうとこ、ずるい」
「ずるくてもいいもん」
「諦めたいわけないじゃん……!」
一度外に出てしまった言葉は、もう止められなかった。熱に突き動かされるまま、彩芽は駆け出した。足は自然とリハビリルームへと向かう。
病室のベッドで諦めた顔をした横顔。
レナに会うと決めた時の瞳。
初めてのリハビリで痛みに震える足。
もう、歩けないと、彩芽に告げた時の声。
一足ごとに、今までの記憶がいくつも浮かんでは消えた。
彩芽がリハビリルームに飛び込むと、詩は目をまんまるにしていた。車いすに移る練習中だとすぐに分かった。何度も見てきたから知っていた。
「な、なに……?」
戸惑う詩に構わず、彩芽は詩との距離を詰めていく。車いすに座った詩を見下ろすと、詩は小動物のように肩をすぼめた。
「どうしたの、彩芽」
「うちは! うちは……本当は」
言葉を吐き出しながら、彩芽は軽いめまいを覚えた。酸素が足りない、と思う。
「彩芽、ちょっと、落ち着こ?」
「や、だ……」
かくん、と膝から下の力が抜ける。
「彩芽!」
彩芽の膝に痛みが走った瞬間、鈍い音が辺りに響く。
「え、ちょ、詩……?!」
彩芽が顔を上げると、前のめりに倒れた詩の姿があった。すうっと体の芯が冷たくなる。
「ごめん、やっぱだめだった」
詩はなんでもないように言って、腕だけで自身の体を仰向けさせる。彩芽は、その横に膝を崩す。
「リハビリ頑張ってるのは、本当なんだよ」
「知ってる」
「あ、そっか。彩芽は前も来てくれたもんね」
「一か月以上、ずっと頑張ってるのも知ってる」
「あれ? もうそんなになるっけ」
「空き時間に自主トレしてるのも、知ってる」
詩とまっすぐに目が合った。その奥に、ちゃんと色がある。詩だって嘘が下手だ。
「詩が、本当は。本当は一番、諦めたくないのも知ってる」
「……やめてよ」
「きついリハビリも、自主トレも、諦めてないから」
詩の手のひらに続く言葉を制される。
「……詩?」
「あたしは、もうステージには立たないよ」
「なんで!」
「分かんない? あたしはもう前のあたしじゃない」
「でも、ファンの人たちはきっと分かってくれる」
「そうだとして。知らなきゃよかったって誰か一人でも思うなら、あたしはやっぱりステージには立てないよ」
床に投げ出された詩の足は、すっかり筋肉が落ちて作り物のように生白かった。
「分かってよ。一回知っちゃったら、知る前には戻れない」
彩芽はぐっと奥歯を噛んだ。
「詩って、ずっとアイドルだよね」
「えーっと、褒めてる?」
「どうだろ。呆れてる、かな」
彩芽は詩の手を取る。その手はひんやりとしていた。彩芽はその手を温めたいような気がして、両手で包み込んだ。
「でも、ちゃんと見に来い」
「そりゃもちろん」
握り返される手は、力強かった。
ステージの上は独特の熱気が立ち込めていて、乾燥している。スタンバイの時間は、何度経験しても慣れることはなかった。曲げ伸ばしした指の硬さに、彩芽は苦笑する。メンバーカラーの水色の衣装に身を包んでも、ずっと体がふわふわ浮いているようだった。
あれから半年。十周年の単独ライブは叶わなかったが、レナが自分のツアーにその企画をねじ込んでくれた。彩芽はゲスト扱いで数曲の出演が決まった。
二人分の影を認識した会場に、静かなざわめきが走った。ほどなくして、客席がピンクと水色に染まり始める。
「彩芽」
背中越しに、レナの小さな声が聞こえた。
「ん?」
「私たち、ずっと三人だよね」
彩芽はちらっとステージ袖に目をやる。車いすの詩が、ステージ袖で手を振っているのが見えた。その手首に巻かれた黄色いバンダナがひらひらと揺れる。彩芽とレナの手首にも、同じものが巻かれている。
「決まってんじゃん」
一曲目のイントロが流れると、観客のどよめきはさらに大きくなった。「真冬の約束」の歌い出しで詩の過去の歌声が流れ始めた瞬間、悲鳴のような歓声が混じる。
彩芽は、客席にそっと目を移す。
会場のあちこちで、黄色のライトがぽつり、ぽつりと広がっていくのが見えた。
ひとりでに彩芽から笑みが漏れる。きっと、レナも同じだろうと思った。マイクを握り直し、彩芽はこぶしを勢いよく突き上げた。
黄色いバンダナが、はためいて揺れた。
雪の降る日に嘘つきは @kinoyuuki
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