親切なタクシー運転手
アオキユーキ
親切なタクシー運転手
終電を逃した。
あたりはすっかり静まり返り、街灯のオレンジ色の光がアスファルトをぼんやりと照らしている。夜の冷気がじわじわと肌を刺し、人気のない道に響くのは、遠くで鳴く猫の声と、自分の足音だけだった。
ポケットの中で冷たくなったスマホを取り出し、タクシーアプリを開こうとする。が、画面は無反応。充電が完全に切れていた。
「マジかよ……」
小さくつぶやきながら、仕方なく歩き出す。肩をすくめて首を縮めると、心なしか冷えが余計に身に染みた。
夜風がビルの隙間を吹き抜け、かすかにビニール袋がカサリと音を立てて転がる。コンビニの明かりが遠く遠くに滲んで見えるが、そこまで歩くのも気が重い。
ふと、背後からエンジン音が近づいてくる。低く安定した音が、静寂の夜に溶け込むように響いた。
「お兄さん大丈夫?乗りますか?」
不意に運転席の窓が開き、低めの穏やかな声が耳に届いた。顔を覗かせたのは、五十代くらいの中年の男。やや白髪混じりの短髪で、優しげな目元がほのかに光っていた。顔立ちはどこか親しみやすく、ほっとするような雰囲気があった。
「助かります、お願いします」
ドアが開く音が静かに響き、冷えた空気をかき分けて車内に足を踏み入れる。
座った瞬間、ふんわりとレモンの爽やかな香りが鼻をくすぐった。ほんのり甘く、それでいて清潔感のある香り。思わず深呼吸したくなるような心地よさだった。
「どちらまで?」
住所を伝えると、彼は軽く頷き、スムーズに車を発進させる。エンジン音が静かに夜の静寂を切り裂き、滑らかに道路へと吸い込まれていった。
「お兄さん運が良い、最近この辺り物騒ですからね」
「え…そうなんですか?」
「ええ。ついこの間も、この近くで変な事件があったんですよ。夜道を歩いてた人が、いきなり襲われたらしくて」
「知りませんでした……犯人は?」
「さあ……まだ捕まってないみたいですよ。お兄さんも気をつけてくださいね」
ゾッとした。物騒なんてことは初めて聞いた。自分はよくここを通る。タクシーを捕まえられなければ歩いて帰ることもあった。体の奥が急激にひやりと冷える。急にシートが背中に張り付いたような感覚がした。
黙っていると、怖がらせてしまいましたね、と、運転手はにこりと笑う。その顔は、なんとなく安心できる雰囲気だった。
それからしばらく、他愛ない雑談を交わしながらタクシーは静かに進んだ。運転手は気さくで話しやすく、緊張していた心も次第にほぐれていった。
やがて、車は自宅マンションの前で静かに止まった。
「ほら、無事に着きましたよ」
「あ、ありがとうございます!」
財布を取り出し、メーターを確認しようとして、そこで、背筋が凍った。
メーターが、どこにもない。
どこを探しても、あるはずの数字はどこにも見当たらなかった。視線をさまよわせるうちに、車内の空気が微かに変わった気がした。レモンの爽やかな香りが、妙に遠く感じられる。
運転手は相変わらず穏やかな笑みを浮かべたまま、じっとこちらを見つめている。
「……料金、おいくらですか?」
喉がかすかに震え、声は思ったより小さくなった。恐る恐る尋ねたその言葉に、運転手はふっと微笑んだ。
「いいんですよ、今日は特別ですから」
手が震えた。ありがとうございましたと声を絞り出し、そっとドアを開けて外へ出た。夜の冷たい空気が肌を刺す。
安堵の息を吐き、マンションのエントランスに向かおうとしたとき、ふと振り返った。
タクシーの姿はどこにもなかった。
車のテールランプどころか、遠ざかるエンジン音すら聞こえない。
街灯のオレンジ色の光が、静かな道路を照らすばかりだった。
——まるで、最初から存在しなかったかのように。
冷たい夜風が、背中をひやりと撫でていった。
親切なタクシー運転手 アオキユーキ @azimibiyori
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