青いウミガメ
東蒼司/ZUMA文庫
青いウミガメ
彼女に声を掛けられたのは、カウンターの青いウミガメを眺めているときだった。
「お父さんが獲って来たの」
カップを拭きながら笑顔を振りまく彼女は、僕よりもいくつか年下に見える。年齢を聞くのは不躾だと知りながらも、聞かずにはいられない葛藤があった。
「それは、海に行って?」
煙草に火を点けながら年齢の代わりに尋ねた。
「まさか。すぐそこの博物館が閉まるからって、3万円で買い取ったの」
彼女が顎先で店の扉を示す。つられて目を向けても博物館の輪郭が見えるはずはない。ダークブラウンとガラスの扉が静かに閉じられているばかりだ。
「閉館するんだよね」
「詳しいね、お兄さん。この辺の人?」
「全然。取材で回ることが多いだけだよ」
「記者かなんか?」
「まあそんなとこ」
煙を吐き出しながら適当な返事をした。本当は僕はフリーのWebライターなのだけれど、わざわざ説明するのは億劫だ。Webライターっていうのは新聞記者とは違うのか。しかも東京都に限りなく近い千葉県の街外れに、一体何を取材するものがあるのか。多くの人はそんな疑問を持つし、実際に何度も尋ねられた。
Web記事を読む人っていうのは、サブカルチャーに精通した人々が多いんです。だから新聞や雑誌ほど、政治や社会に切り込まないし芸能も扱いません。この町の博物館が近々閉館になるでしょう。それの取材です。気になる人も案外多いんですよ。
答えは定型文的に決まってくるし、長くなる。
ほとんどの場合は「そうなんですね」と言われて終わる。
だけど極稀に、数少ない関心を持った層がそのままPVという数字になるとか、あるいは新しい記事に繋がるとかもあった。つまり「まあそんなとこ」とお茶を濁した僕の回答は職業的な意味では不正解だ。
だけど答えを曖昧にしたいくらい疲れているときだってある。
「住んでるんだと思ってた。ここのとこ毎日来るから」
「いい店だからね」
「ねえ、記者さんがいるってことは何か事件があったの?」
彼女はさっきからシンクに両手を突いて、今にも身を乗り出さんとしている。接客態度としては褒められたものではない。
それでも僕には、彼女の中に見え隠れする店員という役割に縛られないパーソナルが好意的に思えた。
「博物館が閉まるって事件」
簡潔に告げると、彼女は一瞬だけ目を丸くした後に顎を突き出して笑った。
白いしなやかな顎を眺めながら、煙草を押し潰してミルクの溶けたコーヒーを啜る。
「そんなの大した事件じゃないよ」
街の寂れた喫茶店ですらこんな扱いなのだから、閉館という末路も必然なのかもしれない。
もう一度カウンターの隅に鎮座するウミガメを見る。
全身を青く彩ったウミガメは鮮烈なコバルトブルーを携えていて、サファイアのように透き通った瞳に見つめられると大海に放り出された気分になる。冷たい海水に沈みながら陽光の降り注ぐ海面を見上げていると、大きなウミガメが悠々と泳いでやって来る。
人智では太刀打ちできない自然に包まれるの恍惚とした心地を、この青いウミガメは与えてくれる。
こんな魔力を持ったウミガメでさえ、彼女が救わなければ行方知れずになっていたかもしれないのだ。
※※※
いとま町総合博物館の閉館が発表されたのは先週のことだった。コロナ禍で激減した利用者数が戻って来なかったらしい。
所蔵品は各地のコレクターが買い取り、残りは教育委員会が引き取って、それでも余った品々は廃棄される。
建物は自治体の所蔵庫としてしばらく運用され、今後の用途は未定だという。
日雇いのWebライターである僕の武器は有り余る時間とフットワークだからすぐに記事にしようと思い至った。
町の小さな博物館が閉館になる話は悲劇として売れるはずだ。ターゲット層との相性も良い。多少のムーブメントは起こせそうだ。
多少のムーブメント……自分で浮かべた単語に苦笑いした。そんなものを起こすのに、どれだけ骨が折れるか。それが簡単にできるなら、少しは仕事を選べるのに。
サブカルチャー精通した人々が読むコアなWeb記事を目指していたが、気付けば需要があって割高な記事――脱毛サロンや転職求人や株式売買のPRばかり手掛けている。
それでも僕がいとま町にやって来たのは、取るに足らないプライドに限界がきたからだ。美しい青いウミガメを救った彼女と、細いが確かに存在した博物館に焦点を当てる。
そうすれば、僕の小さなカルチャーも救済される気がした。
店を出て駅への道のりを歩きながら展示のひとつひとつを思い出した。
魚や貝のはく製、飼育されている蛙やトカゲ、石器、仏像、木彫りの民芸品……。お世辞にも広いとは言えないスペースで珍しいとは言えない品を展示していた。
学芸員らもそれを分かっているからか、展示方法には力を入れていたと思う。
しかしそれだけじゃあダメだったのだ――という顛末を、僕が言語化して記事にしなければならない。
駅前のビジネスホテルに戻ってまずパソコンを立ち上げた。
わざわざ泊まるほどの距離でもないけれど、取材対象の近くでなるべく長く生活をするのが僕のスタイルだった。
スプレッドシートを開きながら五月雨式に言葉を書き連ねる。
博物館、閉館、悲しい、住民の声、いとま町、歴史、海、喫茶店、ウミガメ、店員。
ウミガメと店員がひと際印象強く浮かび上がるのを感じた。どうやらこの物語は彼らが肝になるのかもしれない。
※※※
「ああ、青いウミガメね。あれは美術作品なんですよ」
翌日に訪れた博物館で、学芸員の男性は淡々と言った。
禿げあがった頭の割に眉毛はボーボーに生えている、腰の曲がった皺だらけのお年寄りに、小奇麗な黄土色の制服は不釣り合いですらあった。
「ここは美術館でもあるんですか?」
「いいえ。ここはれっきとした博物館でした」
でした、とあえて言葉を選んだことに特別な意味を感じた。
入場口の脇にある応接室だった。
Web記事の取材だと告げると、受付の係員は愛想よく通してくれた。ソファに座って待つ僕の前に現れた学芸員も、これまた愛想の良いおじいちゃんだ。
「美術館ではないのに、美術品ですか。民芸品とかの類なんですか?」
「それに近いかもしれないね。あのウミガメは私が若い頃に砂浜に来たんですよ。迷い込んできたのかな、それで町の人みんな見に来たんだよね」
「たしかにウミガメが都市部の砂浜に現れるなんて珍しいですもんね」
「そうなんです。全国新聞にも載ってニュースにもなったんですよ。何もない街なもんですから、ちょっとしたアイドルでしたよ」
おじいちゃんは口元を緩めながら語る。ワイドショーで見るインタビュー映像さながらの熱意だ。
みなまで言わなくても、そのウミガメが力尽きた末に標本として展示される運びとなったことは分かる。
「なぜそれが青くなったんですか?」
疑問の核はそこだ。甲羅からヒレから眼球に至るまで、余すところなく鮮やかなコバルトブルーで塗られた、それに至る経緯が不明瞭だ。
例えばそれが環境問題への問い掛けであれば、ウミガメに生の面影を残す方が模範的だろう。あるいは民芸として昇華するのであれば、生物として直接的な姿を残さずにパーツを活かした品を作るはずだ。なぜシルエットはウミガメのまま、人工的な着色を施したのだろうか。
テーブルに両手を置いて尋ねる俺に、おじいちゃんは穏やかな口調で答えた。
「分かりません」
「え?」
「私には美術のことは分かりません。だけど、結果的にあの青いウミガメは美しい姿で最後まで彩ってくれた。だからあなたも心に残ったんでしょう?」
言った後で、おじいちゃんはおもむろに頷く。
自分もそうだったから、と言外に告げていた。
「まあ、当館が美術館ではないというのはその通りです。他に展示する宛もなくて、個人の所蔵になるのはもったいないから引き取っただけです。それでもうちが閉まることになったから……後はあなたも知っている通りです」
「喫茶店のオーナーが買い取ったとか」
「いいえ、お金は一切動いてませんよ。役目を終えた作品が作者の手に戻るのはごく当たり前のことですから」
思わず眉をひそめた。喫茶店の彼女から聞いた話と違うじゃないか。
「僕はオーナーが3万円で買い取ったと聞いています」
食い下がってみたものの、おじいちゃんは首を横に振るばかりだ。
では、一体誰が何のために嘘をついているのだろう?
ウミガメの存在が脳裏にこびりついたまま、他にいくつかの質問をして切り上げた。
「記事が出来上がったら、ぜひ私どもにも見せてください」
メモやらレコーダーやらをまとめているところに、おじいちゃんが言った。
「もちろんです。初稿が上がった段階と公開前とで、二度ほどチェックしていただきたいと思います」
楽しみです。おじいちゃんの言葉を残して応接室の扉は閉まった。
博物館の脇にある喫煙所で煙草を吸いながら、ぼんやりと頭を巡らせた。
ウミガメの背景が意外に複雑であるなら、記事にひと山盛り込める。
喫茶店の彼女は、父親が3万円で買い取ったと言っていた。
学芸員のおじいちゃんは、作者に無償で返したと言った。
ひとまず喫茶店のオーナーが青いウミガメの作者で間違いないのだろう……と考えて、そういえば作品としての名前を知らないことに気が付いた。
おじいちゃんに聞けばよかったものを、うっかりしていた。煙を深く吸い込んで、長く吐き出す。
やはり僕は疲れているのだ。とにかく青いウミガメを掘り下げないことには始まらない。
幸いと言うべきか、取材するのに最も適した人物にあてはある。
※※※
喫茶店の扉を開けると、まずリズミカルな鈴の音が出迎えてくれる。
次いでウミガメの青い瞳と目が合って、最後に「いらっしゃいませ」という店員の声。
彼女は俺の姿を認めると「あら、いらっしゃい」と親し気な調子で言い直した。
軽く片手を挙げながらカウンター席に座る。
「ブレンドコーヒー」
決まり文句みたいに言った僕の前に、おしぼりと灰皿が置かれる。
「今日も取材?」
「そう。博物館に行ってきたよ」
「お兄さんも忙しいんだね」
彼女は戸棚からマグカップを取り出して言った。
「このウミガメ、どうして青いんだろう」
疑問が口を突いて出た。彼女は何度か瞬きしてから、顔いっぱいに笑みを浮かべた。
「海の色だから、とか?」
「海の色……たしかに、その通りだ。このウミガメってオーナーが買い取ったんだよね?」
「そうだよ。もしかして、お父さんに取材?」
「できればお願いしたいな」
「あいにくだけど、今はいないのよ。今週はお母さんと旅行でさ」
「随分と長いね。どこへ?」
「パリ。ルーブル美術館とか行くんだって」
点と点の繋がる気配がしたとき、コーヒーの香りが店内を漂った。
「はいお待たせ」とダークブラウンの注がれたカップが置かれる。ミルクと砂糖を注ぎながら、
「オーナーって芸術家なの?」
尋ねた僕を、彼女は声を上げて笑い飛ばした。
「まさか。ただの美術が好きなおじさんだよ。でもそれ、お父さんに言ったら喜ぶよ。絵とか彫刻とか大好きでさ」
「作品があるなら、店内に飾ればいいのに」
「嫌だよ、だって下手くそだもん。せめてこのくらい華があればいいんだけど」
そう言って彼女はウミガメの頭を撫でた。華のあるそいつを作ったのが父親であることを、きっと彼女は知らないのだろう。
ルーブルへ行くほどの熱意に満ちた人物が、娘に傑作を明かしていないのが不思議だが、きっと事情があるに違いない。
「そのウミガメ、名前はなんて言うんだい?」
「名前なんてないよ」
「でもほら、はく製とかじゃないだろう。青く塗られてるんだからさ。作品としての名前があるんじゃないかな」
「なによお兄さん、これが美術品とでも言いたいの? ウミガメを青く塗ってあるだけじゃないか。綺麗なだけで、芸術なんて大層なもんじゃないよ」
「芸術だよ」
言った後で、しまったと思った。目を見開く彼女から逃れるように煙草に火を点けた。
煙を吸って吐き出すまでの間、彼女は何も言わなかった。ムッとして言い返すわけでも、呆れて顔を逸らすわけでもない。
ただ僕が次に告げる言葉を待っているみたいだった。
煙草を灰皿に置いて、青いウミガメに視線を送る。天啓は降ってこない。彼女に目をやる。視線が交錯したして、小さく首を傾げた。
「それは美術品らしいよ。博物館の人が言ってた」
「そうなんだ。こういうのも芸術なんだね」
彼女がわざとらしく言って、それが僕には気の毒なほど殊勝に見えた。
まるで、ウミガメを芸術と肯定することに、大きな躊躇いがあるかのように。
「作者は君のお父さんだ」
だから僕が肯定した。
彼女が驚くのは目に見えてるから、意識して視界に入れずに煙草を持ち上げた。鼻から出る煙が顔にまとわりついて、一瞬視界が白く霞む。口から話して彼女に視線を戻したとき、今度は僕が驚く番だった。
「……どうして知ってるの?」
彼女が浮かべている警戒の――あるいは敵意の眼差しは予想していなかった。
「学芸員に教えてもらった」
「お父さんに言わないでね、それ」
さっきと真逆のことを言う彼女に、それでも指摘できないのはあまりに殊勝な表情を浮かべているからだった。
父親をウミガメから遠ざけたい理由があるのだろうか。コーヒーを一口すすって息を整える。
「オーナーはウミガメのことが嫌いなの?」
「嫌いじゃないと思うよ。むしろ――」
彼女は躊躇いがちに「一番好き」と言った。
「正直な話、僕はすごく良い作品だと思う」
「ありがとう。私も好きだよ」
「どうしてオーナーに言っちゃいけないの?」
「嫌がると思うから。お父さん、昔は本当に芸術家を目指してたんだけど。売れないからってすぐに辞めちゃった」
「だけど自分の作品を褒められることは、誰でも嬉しいと思う」
「そういうんじゃないんだよ」
きっぱりと言われたので、口をつぐむ他なかった。僕にはピンと来ない感覚だけど、もしかしたら親子にしか分からない傷口があるのかもしれない。
彼らの連帯感を侵してまで掛ける言葉は持ち合わせていなかった。
売れない芸術家なんてこの世にごまんと存在する。ゴッホもカフカも死後になって評価された。
博物館でウミガメに感動した人も大勢いるはずだ。これからもコーヒーを飲む客を楽しませるに違いない。
慰めの言葉はいくらでも浮かぶが、そこに慰め以上の価値はなかった。
励ましの言葉を掛けようとする時点で、俺と彼女にある種の上下関係が生まれてしまう。芸術家たる彼女の父親を失敗とみなすことに他ならない。
そうではない、そうではないのだ。
「売れない芸術家……とは思わないけどね」
気が付けばマグカップは空になっていて、灰皿の煙草からは煙が消えていた。
「売れなかったよ。実際に」
「昔はそうだったかもしれない。だけど僕から見れば、君のお父さんは素晴らしい作品を生み出した芸術家だよ」
「今から芸術家を目指せってこと?」
迷わず頷く。
彼女はため息を吐いてウミガメに視線をやった。
「この作品、名前も知らないんだ。タイトルとかあるのかな」
「そのまんまだよ。『青いウミガメ』って、それだけ」
「ならその『青いウミガメ』が代表作になるよ。僕は記者――Webライターなんだ」
長い定型文を付け加えて語ると、彼女の目が微かに輝いた。
「やめちゃったこと、多分後悔してる」
※※※
――千葉県某市。なーんもない街にやって来た。いや、何もなくはない。博物館があると聞いて取材にやって来たのだが……。
まさかの閉館!
なんとこの総合博物館、今月で閉館してしまうらしい。なんてこった、これじゃあいよいよ本当に何もない街じゃないか。トホホ。
だったら、だったらさあ……行くしかねえなあ。街の小さな喫茶店に行くしかねえなあ!
というわけでやって来たのは、博物館から歩いて五分ほどのこのお店。雑居ビルの一階に木製の扉だけある感じがいいですね。お洒落過ぎない居心地の良さがある予感です。
さっそく中に……え!?
いる! ウミガメが! いる! しかも青いウミガメ!
入ってビックリ真っ青なウミガメに出迎えられてしまった。ウミガメってこんな青いの? ビックリするくらい鮮やかな青なんだけど、これマジなの?
疑問は尽きないが、とりあえず席に着いてコーヒーを頼むことに。
ライター「すいません、コーヒーをひとつ」
店員「はーい」
煙草を吸ってコーヒーを待つ間、もう一回ウミガメを眺めてみる。
これは……なんだ?
海の色って感じの綺麗な青だし、インテリアとしてはすごくオシャレなんだけど。ちょっと説明が欲しい。こいつの正体を教えてくれ。
ちなみに店内には雑誌とか新聞が置いてあって、壁にはメニューとか貼ってある。奥の席からテレビの音が聞こえてくる。平日の昼間にやってる当たり障りのないバラエティーを流してる感じ。あ、いかにも昔ながらの喫茶店て感じがする。いいなあ~こういうの。こういうの……。
ダメだやっぱりウミガメが気になる。あんまり気になるので、思い切って聞いてみることにしました。
ライター「すいません、あのウミガメはなんですか?」
店員「あーあれね、実は私の父が作ったんですよ」
え、どういうこと???
店員「実は私の父は芸術家だったんです。売れなくてすぐにやめちゃったんですけどね」
ライター「じゃああのウミガメも売れなかったの?」
店員「そうです。地元の博物館に引き取ってもらって、なんとか保存することができました」
ライター「だけど博物館がコロナ禍で閉館しちゃうから、喫茶店に戻ってきたってことか」
うーん、ドラマティック! こんなに素晴らしい作品が売れなかったのも驚きだけど、巡り巡って製作者の娘さんのところに戻ってくるのもすごいよね。
ふらりと立ち寄って喫茶店でこんなドラマに出会えるなんて!
何も無い街とか言ってごめんなさい。
ライター「芸術家ってことは、他の作品もあったりするんですか?」
店員「いいえ、あの一作品だけです。ウミガメへの思い入れが相当強かったみたいなんです」
うわーなんかいいな、それ! 渾身の一作品全てをぶつけて燃え尽きちゃった感じ、めっちゃ芸術っぽい!!
それで今は喫茶店のオーナーなのもいいし、そこからもう一度芸術に挑戦し直すのも熱い。そういう潔さってなにやってもカッコいいんだよなあ……。
※※※
次に博物館を訪れたのは、記事の初稿を確認してもらうためだった。
いつかの応接間に印刷した記事を広げて、例のおじいちゃん学芸員と広報担当に見せる。
「オーナーも喜んでくれるといいんですが」
まずはじめにおじいちゃんが口を開いた。
「きっと喜ばれるはずです。あんな美しいものを作った方なんですから」
まるで自分事のように言うと、おじいちゃんは「ほおー」と感嘆を漏らした。
「でもこれ、当館はあまり関係ないですよね?」
鋭い言葉を発するのは広報担当だった。髪を整然と切りそろえた三十代くらいの男だった。
ぴっちりとスーツを着こなす姿はサラリーマンのようだが、私服の僕と制服姿のおじいちゃんの中では、むしろスーツの方が浮いていた。
「そんなことはありません。あくまでも博物館の閉鎖がキーになるので」
「喫茶店の彼女には見せたのですか?」
おじいちゃんは穏やかに言った。
そういう事情もあって、僕は何度目になるとも知れない喫茶店へ訪問することになった。
どうせ他に行くあてもないから、コーヒー飲んで煙草を吸うために来ていたのだが、こんなにも入り浸るとは思っていなかった。
博物館を出て大通りを渡り、しばらく歩いて路地に入る。
テナントビルの立ち並ぶ街並みの一角に、褪せた看板と木彫の扉が姿を現した。
いとま町に滞在するのは今日が最後だ。
「あ、いらっしゃい」
鈴の音と共に入店すると、彼女の弾む声に出迎えられる。
「ちょっと見せたいものがあってさ」
カウンターに座りながら、印刷した記事の束を手渡す。彼女は不審そうに眉をひそめたが、すぐに「ああ」と納得した。
煙草に火を点けて、読み終えるのを静かに待つ。
「僕の記事はそんな感じ。どう?」
キッチンでコピー用紙を捲る彼女に煙が掛からないよう注意しながら言った。
「どう……って言われても。正直、分かんない」
「事実に間違いはないかとか、表現が適切かどうかとか」
「その辺は大丈夫だと思う、けど」
「けど?」
「お兄さんの書く記事ってこんな感じなんだね」
彼女の口調には怪訝な響きがあった。
あるいは学術書や新聞記事のようなものを想像していたのだろうか。たしかに芸術を志した目線では、インターネットの記事は悪ふざけにすら見えるのかもしれない。
実際に悪ふざけが高じて成立しているのかもしれないから、否定はできない。
しかし成立してしまっているものは仕方がないのだ。
「気に入らないなら公開しないけど……どうする?」
「まさか。そもそも『青いウミガメ』が世に出るなんて思ってもなかったんだから。このまま喫茶店で埃を被って終わるより、色んな人に見てもらう方が良いに決まってるよ」
彼女の浮かべる笑顔に、嘘偽りがないことを祈るばかりだ。
「ああ、今さらだけどアイスコーヒーちょうだい」
「アイスコーヒーね。今日だけサービスしたげるよ」
コーヒーの注がれる心地よい音を聞きながら煙草に火を点ける。
ひと仕事終えた達成感は何事にも代えがたい。記事が読まれるか読まれないか……はまた別の話だ。
お待たせ、と彼女がアイスコーヒーを運んで来た。口をつけようとして、彼女が一向に離れないので「ありがとう」と怪訝に言う。
それでも彼女は、ジッとこちらを見つめていた。
「な、なに?」
「……ごめんなさい」
「え、え?」
「私、ひとつ嘘ついてた」
嘘ってなにが、と尋ねるより先に、彼女は青いウミガメを指差す。
「あれ、私が作ったの。ウミガメを青く塗ったの、私」
「そうだったんだ。どうしてそんな嘘を?」
彼女が答えるより先に、リズミカルな音が鳴って店のドアが開いた。
いらっしゃいませ、と来客を迎える彼女からは、もはや真実を聞き出せそうにない。
※※※
四日後に掲載された『青いウミガメ』の記事にはそれなりの反響があった。
大きく話題になったわけではないが、全く読まれなかったわけでもない。初動は可もなく不可もなしといったところだ。
あの鮮烈な感動と彼女や博物館からの期待を思えば不甲斐なさが残るが、そもそも僕はヒットメイカーじゃない。それならとっくに契約ライターになっている。
誤算だったのは、記事は日を追うごとにPV数を増やしていくことだった。
じわじわと数字が伸びるに連れて、好意的なコメントも多く寄せられた。
気が付けば、僕の記事では最多の閲覧数を誇っていた。
極めつけは美術に造詣の深いインフルエンサーの目に留まったことだ。
その日を境にアクセス数が激増して、美大生やインディーズのクリエイターを中心に拡散された。
気が付けばインスタグラムやティックトックで例のウミガメを目にするようになった。
願わくば、あの寂れた喫茶店に脚を運ぶ客が増えるように。
そして『青いウミガメ』が多くの目に触れて、埋もれた才能が正しい輝きを放ちますように。
※※※
インスタントコーヒーを飲みながら情報バラエティ番組を流すだけの、とある所在ない朝のこと。
メールボックスに見慣れないアドレスからメールが来ていた。
『こんにちは。私のこと覚えてますか? 青いウミガメを作った、あの喫茶店のバイトです。今はもうバイトじゃなくて、フルタイムの店員として働いています。
記事のことはありがとう。私もスマホで読んだりしたけど、あんなに色んな人が見るなんて思ってませんでした。あれから店に来る人も増えてます。全部あなたのお陰です。本当にありがとうね。
ところで、今回はお願いがあってメールしました。記事の最後に載ってたアドレスに送っちゃったけど、これで合ってるかな。お願いっていうのは、今度個展をやることになったから、それを取材してほしいってことです。『青いウミガメ』がたくさんの人に見られるようになって、もう一回私も挑戦し直そうと思いました。まだ喫茶店に作品を並べるだけですけど、これが第一歩になればいいなって思うの。個展に向けて製作も進めています。
もしお手間じゃなかったら、ぜひもう一度遊びに来てください。お待ちしてます』
ウミガメの制作者が自分であることは明かしていないらしかった。ほっと胸をなでおろすと同時に、高揚も感じていた。
彼女の芸術を手助けすることが、僕自身のカルチャーを救済する気がした。
インスタントコーヒーを啜りながら返信を打った。
そしてすぐにいとま町へ赴く準備をした。
青いウミガメ 東蒼司/ZUMA文庫 @ZUMAXZUMAZUMA
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