『Here's Ema!』
とうとう、最後の日がやって来た。海辺を歩き、シネマ大橋へ入ると、大橋さんの姿があった。彼は緩慢な動きでほうきを動かし、館内の床を掃除しているところだった。大橋さんは曖昧に笑いながら、「今日で最後だから、少しでも綺麗にしてやろうと思ってね」と言った。
「で? 今日もなんか、観てくれるのかい?」
「はい。キューブリックが観たいです」
「お、いいね。キューブリックのどれだい? 『バリー・リンドン』か? それとも、『時計仕掛けのオレンジ』?」
「ええと……」
エマの顔が、ふと浮かんだ。そう言えば、彼女は『シャイニング』が好きって言ってたんだっけか。僕はその映画の名前を口にした。幽霊を自称する彼女がすき好む映画。
「『シャイニング』、観られますか?」
「ああ、いけるよ」
最後のシアターは、3番シアターだった。せっかくなら、と購入したポップコーンの小箱と瓶のコーラを抱えてシアターの中へ入ると、やはりエマがいた。エマはいつものように、僕に微笑みかけた。
「やっぱり来たんだ」
「そりゃ来るよ。最後だからな」
「ですよねえ」
二人して席に座り、わずかに塩がまぶされた出来立てポップコーンを分け合う。
まもなくして、『シャイニング』が始まった。
ヘリコプターから撮影されたかのような、空中からのアングルの映像。
山並み。
車に乗っているジャック、ウェンディ、ダニー。
指と対話するダニー。
場面は変わって、大きなホテル。
三輪車で廊下を走り回るダニー。
エレベーターの中で展開される、真っ赤で大きい波。
水色のワンピースを着た、しかめっ面の双子。
ミントグリーンの風呂場と老婆。
ジャックがアルコールをあおる酒場。
レッドラムの鏡文字。
タイプライターに『All work and no play makes Jack a dull boy』の文字列が打ち込まれる。
狂ったジャック。
そして――。
斧を持ったジャックが、ウェンディに迫る。
その時、ふとエマが口を開いた。
「ねえ」
「何?」
「なんでわたしが成仏しないでここにいると思う?」
僕は即答した。
そんなの決まりきっていた。
「エマは映画が大好きだから」
「大正解!」
エマが白い歯を見せる。
するとその途端に鋭い閃光がかっと走った。
あまりの眩しさに、僕は思わず目を瞑った。
スクリーンの中では、ジャックが顔をドアからのぞかせる、あのシーンが展開されていた。ジャックが言う。
『Here's Johny!』
やがて、光がおさまった。
そろりそろりと目を開けると、そこにエマの姿はなかった。
エマは消えたのだ、と直感した。おそらく満足して、成仏したのだ。
エマの座っていた座席に――一枚のメモが置いてあるのに気づいた。ノートを千切ったようなメモに、走り書きがされている。筆記体の英語で、こう書かれていた。『Here's Ema!』
僕は目を見開いた。
生身の人間が、閃光を発して姿を忽然と消すはずもなかった。彼女は本当に幽霊だったのだ。
そして――彼女は最後の最後まで、映画ファンであり、キューブリックファンだったのだ。
唐突なエマとの別れに、やるせない気持ちを覚えつつも、僕は一人で『シャイニング』を観終えた。
シアターを出てエントランスに向かうと、大橋さんが館内を片付けているところだった。
「ああ、おかえり。どうだった?」
「面白かったです。とても」
「そうかい。いい思い出になったんなら、嬉しいよ」
思い出。
何故かエマの顔が浮かんだ。
あの、と僕は大橋さんに訊ねてみた。
「赤毛の女の子、知ってますか。『シャイニング』が好きで、ちょっと謎めいていて、不思議な女の子なんですが」
「…………桃子ちゃんのことか?」
桃子。そうか、それがエマの本名か。
大橋さんが眉をひそめた。「なんで桃子ちゃんのことを知っとるんだ?」
「いや、あの……昨日とかに、この映画館で会ったものでして」
誤魔化した。大橋さんの語気がどこか強かったからだ。
「桃子ちゃんはな『シャイニング』が大好きで、おしゃべりで、不思議な子だったよ。……でも、五年前に水難事故で死んじまった」
そう聞いた瞬間、心臓が跳ねた。エマが昨晩、海に浸かりながら言っていた言葉。あれは本当だったのか。
「でも……僕は確かに、桃子さんに会ったんです」
「そうか」
大橋さんは目を細めた。
「じゃあ、桃子ちゃんが化けて出たのかもな。シネマ大橋が潰れるのが惜しくて」
「……そう、かもしれませんね……」
大橋さんは咳払いを一つした。「あんたと言い桃子ちゃんと言い、そんなに大事にしてくれる人がいるなんて、有難い話だよ」
「……いえ。それは、こちらこそ」
「ここは潰れるが、映画は不滅だ。これからもキューブリックやらミイラ映画やらを観て、生きていてくれ」
桃子さん――いや、エマの笑顔が頭の中にふうわりと浮かんだ。
形のよい唇に浮かべられた、不思議でチャーミングで、天真爛漫な微笑み。
僕は、メモをくしゃりと握りしめた。
確かに『Here's Ema!』と書かれているメモを。
僕は言った。
「ええ。また、観ます。色んな映画を、彼女の分まで」
さよなら、シネマ。 堀川花湖 @maruuuuuco
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