Part2(end)
「九十九です。私の処方した薬が効きましたね」
女医さんの顔は、笑顔に変わった。
私の顔も笑顔に変わった。悪玉コレステロールの値が下がるかどうかは正直賭けだったが、私は見事に勝利したのだった。
「いや、薬は一週間でやめました。筋肉痛が出たもので」
「はっ? 薬を飲まなかったですって」女医さんの顔が険しいものに変わる。
私はうなずき、傍らのかごの中に置いてあったバッグをつかみ、中から脂質異常症の薬の紙袋を出して、女医さんに見せた。紙袋は、受け取った時と変わらずパンパンだった。
「……連絡してほしかったですね。それじゃあ、どうしてエルディーエルが下がったのかしら」
私はここ三ヶ月の、納豆・青魚・野菜類を中心とした食生活を話した。女医さんは話を聞きながら、ふんふんと呟きながら、それをパソコンに打ち込んでいった。私の話が終わると、女医さんはしばらくモニターを眺めていた。
「……困りますね。そういうことをする時は、わたしに相談してからにしてくれないと。患者さんが勝手に判断して、取り返しのつかないことになることだって、あるんですよ」
「すいません。いろいろと忙しかったもんで」
もちろん嘘だった。また別の薬を処方されるのが、わずらわしかっただけだ。
「まあ、いいわ。今回は特別ということで。理想的な食事だと思います」
「ありがとうございます」
「前回も言いましたが、河成さんの場合、百以上が投薬のタイミングだと考えています。今回は九十九なので、エルディーエルの値で薬の処方をすることはしませんが、まあギリギリですし、次回これが百以上になったら、薬を処方しますので、お忘れなく。今後も気を付けてください」
百以上と言われたことは憶えていた。前回は知識もなく聞き流したが、これについて私は疑問に思っていた。私が得た知識では、値が百六十から投薬を始めるのが一般的である。一度血管が壊れて生死の境をさまよった人とかは、百四十で始める場合もあるようだが、百で薬を飲んだ情報なんて、どこにも無かった。そもそも悪玉コレステロールの正常な値は、六十から百十九である。百はけっして低くはないが、それほど高いものでもない。正常な値なのに、薬を飲めというのは変な話である。納得がいかない。何のための値なのか。もし次回の検診で百以上だったら、この点については徹底的に議論するつもりでいた。
「ところで、エッチディーエルの値が十二増えてますが、運動とか、けっこうされました?」
エッチディーエルというのは、いわゆる善玉コレステロールのことだ。脂質異常を判断する値のひとつだ。これが減り過ぎても、問題になる。善玉コレステロールを増やすには、食生活の改善より、有酸素運動をする方が効果が高いとされている。ネットで、だいぶ勉強したので知っていた。
「ええ、まあ。スポーツクラブでボクシングとかダンスを」
そう言うと、女医さんも看護師さんも、声を出して笑った。
「ごめんなさい。ダンスは、ちょっと意外だったものですから」
失礼な。今は、けっこう上手に踊れるようになったんだぞ。ここで立ち上がって披露してもいいぐらいだ。思いっ切り踊れるほどのスペースはないが、実力の片鱗ぐらいは見せつけられるだろう。
「で、善玉コレステロールの値が高いと、どうなんでしたっけ? 問題あるんでしたっけ?」
「いえ。ノン―エッチディーエルの値が下限近くまで低くなってまして、私の所見としては今後注意した方がいいかなって」
ノン―エッチディーエル値とは、総コレステロール値から善玉コレステロール値を引いたものである。これも脂質異常を判断する値のひとつだ。上がり過ぎても下がり過ぎてもいけない。けれども、これはそれほど重要な値ではない。あくまで判断材料のひとつだ。脂質異常症の判定で重要なのは善玉悪玉コレステロール値と、悪名高い中性脂肪の値のはずだ。
「ひょっとして、善玉コレステロールの値を下げた方がいいとか、おっしゃってます?」
「そんなことは言いません。相対的に総コレステロール値を少し上げた方がいいかなと言っています」
お安い御用だった。女医さん自ら、油まみれの食事を推奨し始めたぞ。
「判りました。今後は脂肪をできるだけ多く摂るよう努力して、きっと総コレステロール値を上げてみせます」
「そうですか。がんばってください。ただ」
「ただ?」
「総コレステロール値が上がると、きっとエルディーエル値も上がりますよね。ですからやっぱり――薬は飲んだ方が、よろしいかと」
私は脱力して、それから大きく首を横に振った。
……今夜はクリスマス・イブだ。私は悪玉コレステロールの値が正常になったお祝いに、自分自身へ贈り物をしようと決めた。
頭の中では、黄金色に輝くカツ丼が湯気を上げて、私に食べられるのを待っていた。
(了)
トリプルリスク 青山獣炭 @iturakutei
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