【KAC20255】筋肉も天使も天下無双

ハル

 

(いーち、にーい、さーん、しーい、ご……)


 その夜も、俺は家で筋トレに励んでいた。


 体がたるんだらジムのインストラクターとして失格だし、俺にとってはもう、筋トレは歯磨きや風呂と同じような習慣になっている。何よりも、体を動かすのは純粋に楽しい。もっとも、いまの俺にはもうひとつ筋トレの原動力があるのだが――。


 ダンベルクリーンを十回三セット、プッシュアップを十五回三セット、バイシクルクランチを二十回三セット終えたとき、


 ピコーン。


 メッセンジャーアプリの通知音が鳴った。筆不精な俺だったのに、いまではこの音が鳴るたびスマホに飛びついてしまう。


 通知には、「港さん」の名前と、シロワニというサメの写真のアイコンと、「スタンプを送信しました」の文字。


 タップしてメッセンジャーアプリを開くと、


〈光星さん、お疲れ様です〉

〈すみません、実はちょっとお願いがあって……これからお電話してもかまいませんか?〉


 というメッセージと、サメがおじぎしているイラストの上に「謝ーク」という文字がついたスタンプが現れた。

 港さんが俺に電話してはいけない時間なんてあるはずがない。「もちろん!」と返信しようとして、こちらから電話したほうが早いと思い、音声通話ボタンをタップする。


「あっ、光星さん……お電話ありがとうございます」


 ワンコールで港さんが出た。その声を聞くだけで、俺は鼻歌を口ずさみながらスキップしたくなってしまう。――二十代も後半の筋肉ムキムキの男が鼻歌交じりにスキップしても、気持ち悪いだけだろうが。


「いえいえそんな……それで、お願いって何ですか? ……じゃなくて、えーと、何だ?」


 港さんの希望でタメ語でしゃべるようにしているが、油断するとつい敬語になってしまう。


「はい。実は、今度七海ちゃんのおうちがお引っ越しすることになって……あっ、といっても同じ区の中でなんですけど……」


 七海さんは、港さんの幼なじみで親友で地下アイドルだ。何を隠そう――って、別に何か隠したいことがあるわけではないが、いまは動画投稿サイトで歌い手をしている港さんも、以前は七海さんと同じアイドルグループに所属していたのである。


 そして、この港さんこそ、俺のもうひとつの筋トレの原動力なのだ。絶対に、港さんにたるんだ体を見せるわけにはいかない。それくらいなら脂肪を切り取ったほうがマシだ。


「この機会に、洋服ダンスを粗大ごみに出したいそうなんです。でも重すぎて、七海ちゃんはもちろんご家族の誰も運べなくて……」


 なるほど、読めたぞ。


「つまり、俺に運んでほしいんですね……じゃなくて、運んでほしいんだな?」


「はい……」


 港さんはすまなそうに答えたが、俺は港さんに頼ってもらえたことが嬉しくてしかたない。港さんにお願いされたら天下無双、タンスどころか家だって運んでみせる。


 念のためタンスのサイズを聞き、今月の休日を教える。港さんが七海さんとやりとりしてくれ、翌週の土曜日の朝に七海さんの家に行くことになった。


      ***


 当日、俺は七海さんの家の最寄り駅で港さんと待ち合わせし、家に案内してもらった。

 チャイムを鳴らすと、


「港、光星さん、おはよう!」

「斎藤さん、初めまして。こんな朝早くから本当にすみません」

「初めまして……あらまぁ、聞きしにまさる立派な筋肉をお持ちですねぇ」


 七海さんとご両親が出迎えてくれた。――お母さん、さらっと個性的なあいさつをしてきたな。


「ほら、あんたもごあいさつして」


 七海さんが、いちばん後ろで顔をのぞかせている華奢な男の子の背中を叩いた。七海さんの弟さんで、この春中学校に上がるという七星ななせくんだろう。


「お、おはようございます……」


 七星くんは勇気を振りしぼったという感じであいさつしてくれた。


「おはよう」


 とびっきりフレンドリーな笑みを浮かべたつもりだったのに、七星くんはびくっとして七海さんの陰に隠れてしまった。――せん。


 ご両親の寝室に案内してもらって、俺は驚いた。例のタンスが見るからに高級そうだったからだ。深みのある赤茶色でつやがあり、鈍い金色の把手とつてには複雑な模様が彫られていて、「アンティークでござい!」と全身で主張している。


「これ……本当に捨てちゃっていいんですか?」


 ちょっと怖気づいて訊くと、


「いいんですよ、不良品だから。リサイクル品で安かったんですけど……ううん、安かったからですかねぇ」


 七海さんのお母さんが答えてくれた。それでももったいないような気がするが、俺が引き取るわけにもいかないし、強く止めるのも失礼だろう。


 引き出しを全部抜き、玄関までの床にダンボールを敷いてもらった。滑り止めつきの軍手をはめ、右手をタンスの背面上方に、左手を下の角に置いて力をこめる。

 タンスが持ち上がると、


「おおお~~~!!!」


 全員が歓声を上げた。――うん、悪い気はしない。


 壁やドアを傷つけないように細心の注意を払いながら、ダンボールの上を通って外に出た。今度は転落しないように注意しながら、一歩一歩階段を踏みしめて下りていく。みんなもあとからついてきてくれた。


 マンションの前の粗大ごみ置き場に着いたときには、さすがに息が上がって全身に汗がにじんでいた。


「おおおおお~~~!!!」


 再び歓声が上がり、港さんと七海さんは拍手までしてくれた。おずおずとではあったが、七星くんもそこに加わってくれたのが嬉しい。


 引き出しを運ぶのは難しくなかったが、気は抜かないようにした。木登りするときだって、低いところまで下りてきたときがいちばん危ないのだと、昔の偉い人も言っている。えーと……ケンゼンボウシだったか?

 その後、七海さんのご両親は改めてお礼を言ってくれてから、


「どうぞお茶でも召し上がっていってください」


 と、誘ってくれた。やんわり断ったが、二人ともぜひにと言って譲らない。

 結局お言葉に甘えることにして、紅茶と焼き菓子をいただいた。紅茶は果物のような爽やかでみずみずしい香りがするし、焼き菓子――マドレーヌもフィナンシェも甘すぎなくてバターの風味が濃厚だ。俺が買っているスーパーのプライベートブランドの商品とは月とすっぽんである。


「ところで、あのタンス、不良品っておっしゃってましたけど、どんな不良があったんですか?」


 優美なティーカップをぎこちなく傾けながら、俺は七海さんのお母さんに、気になっていたことを訊いてみた。


「ああ、それがね……」


 七海さんのお母さんは、斜め上に目をやって頬に手を当てる。


「夜中に中で音がするんですよ、カタカタって。でも、引き出しを開けてみてもネズミとかがいるわけじゃないんです」


「へ?」


 間の抜けた声が出た。


「もちろん何か科学的な理由があるんでしょうけど、このまえ洋服の断捨離もしたし、もうあんな立派なタンスは要らないと思って……」


 家鳴りとかならともかく、何もいないのにタンスの中でカタカタ音がするなんて現象が、科学で説明できるのか?


「えーと……あのタンス、リサイクル品だっておっしゃってましたよね?」

「ええ。買ったときは、変な文字が書いてあるお札も裏に貼ってありましたっけ」

「もちろん、すぐ剥がして捨てましたけどねぇ」


 七海さんのお父さんが横から補足した。港さんと俺、七海さんと七星くんはそれぞれ顔を見合わせる。港さんの顔も七海さんの顔も引きつっていて、七星くんの顔なんて真っ青だ。


「俺、ちょっとごみ置き場に行ってきます!」


 言うなり、俺はリビングを飛び出した。


「光星さん!」


 港さんの声がして、港さん、七海さん、七星くんが追ってくる足音がした。二段飛ばしで階段を駆け下りたが、一階に着いた俺を待っていたのは落胆だった。――もうごみ置き場は空っぽだったのである。粗大ごみなんて昼まで回収されないことも珍しくないのに、どうしてこんなときだけ仕事が速いんだ。


「ごめんなさい!」


 七海さんが、パンッと両手を合わせて俺に頭を下げた。


「あたし、ただ不良品だってことしか知らなかったの……。お母さんもお父さんも筋金入りの現実主義者で、怪奇現象とか全然信じない人だから……」

「ど、どうしよう……。タンスに取り憑いてた幽霊が、捨てられたのを恨んで光星さんのところに出てきたりしたら……」


 涙目になっておろおろする港さんを、


「だ、大丈夫だって港! 光星さんなら、幽霊も物理的にぶっ飛ばせるって! ほら、ジョーブな肉体でジョーブツ!」


 七海さんは空元気らしい勢いで励ました。港さんのサメスタンプのおかげでダジャレには慣れっこになっていたので、寒気を感じたりはしなかったが、幽霊をぶっ飛ばす自信も成仏させる自信もない。それでも、


「あ、ああ……。それに、カタカタって音を出すだけの幽霊なら、出てきても大したことはしないと思うぞ」


 これ以上港さんを不安にさせたり、七海さんに罪悪感を感じさせたりするわけにはいかないので、なるべくポジティブな発言をしておいた。


      ***


 翌朝、スマホのアラームを止めて起き上がろうとした瞬間、腰に電気を流されたような激痛が走った。初めての痛みだったが、友達からも仕事仲間からもさんざん話に聞いているから何かはわかる。


 こ、これが噂の魔女の一撃……ぎっくり腰……。


 朝飯もとらずに布団の中で呻いていたが、家を出なければいけない時間になっても痛みはやわらがず、立ち上がることもできない。職場に休みの連絡を入れて呻き続けていると、


〈昨日の夜は何もありませんでしたか?〉


 港さんからメッセージが届いた。続いて、首をかしげたサメの上に「だいじょーず?」という文字がついたスタンプが送られてくる。


〈夜は何もなかったんだけど、実はぎっくり腰になっちゃって……〉


〈えええっ! お見舞いに行きましょうか?〉


〈気持ちはすごく嬉しいけど、せっかくの日曜をそんなことで潰させるわけにはいかないよ〉


〈光星さんのお見舞いはそんなことなんかじゃないです。すぐ家を出ます!〉


 一時間も経たないうちに、チャイムが鳴って鍵とドアの開く音がした。港さんに合鍵を渡しておいてよかったとつくづく思う。


「お邪魔します……!」


 リビング兼寝室に入ってきた港さんは、サコッシュを肩に掛け、大きくふくらんだエコバッグを手に提げていた。差し入れをいろいろ持ってきてくれたのだろう。サコッシュにもエコバッグにも、空から降ってくるたくさんのサメのイラストと、「サメときどきサメ」という文字がプリントされている。


「やっぱり、ゆ、幽霊のしわざでしょうか……」

「まぁ、だとしても、ぎっくり腰くらいですんだなら御の字だけど……」

「でも、ぎっくり腰ってものすごく痛いんじゃ……」


 自分がぎっくり腰になったかのように、目をうるませ顔を歪める港さん。こんな顔をされたら、強がるなというほうが無理だ。


「平気平気。そりゃ、痛くないっていったら嘘になるけど、俺はもっと痛い思いもしたことあるし……骨折とか」

「はわっ、さすが光星さん……! 私はまだまだ経験不足ですね……」

「いや、一生経験しないならそれに越したことはないと思う」

「でも、どんな経験も芸の子種になるって言いますよ?」

「それを言うなら肥やし! ……うおっ!」


 叫んだ拍子に激痛が走り、俺はシーツを握りしめて悶えた。


「ご、ごめんなさい! そうだ、買ってきたこれ……」


 港さんはエコバッグから湿布を取り出し、


「その……よかったら貼りますけど……」


 胸の前でいじくり回しながら言う。


「えっ! じゃ、じゃあ……お願いつかまつります」


 動揺のあまり、また敬語になってしまった。それも武士みたいな敬語に。


 港さんは、掛け布団と毛布と、俺のルームウェアの上着をそっとめくった。裸の背中を見られるなんて初めてで、どきどきしすぎて腰の痛みも忘れそうだ。港さんの、外気で冷えた細い指からも緊張が伝わってくる。


「これでよし……なはずです。あとは……」


 港さんは上着と布団と毛布を戻してくれ、サコッシュからスマホを取り出した。生真面目に表情を引きしめ、たどたどしく何か唱えはじめる。


「えーと……それは?」


 邪魔をしては悪いと思いながらも、訊かずにはいられなかった。


「あっ、はい、般若心経です! 除霊に効果があるらしいので……。それともコウミョウシンゴンのほうがいいんでしょうか……」


 おまじないとかじゃなくて、般若心経!? っていうか、コウミョウシンゴンって何!?


 おかしいやら可愛いやらで、今度こそ俺は完全に痛みを忘れていた。

 もしもこのぎっくり腰が幽霊のしわざだったとしても、港さんの魅力の前には恨みを忘れてくれるにちがいない。


 港さん――俺の恋人こそ天下無双である。



〈了〉

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