第8話 終章
風が鳴くように吹いていた。
奉竜寺から西へ、古い神社の裏山を登ったところ、新しくやって来た人間達によって、新しく拓かれた集落は、地元の人達から、「あんな風がキツイとこ、誰も住まへん」と言われていたくらい、風が活発だった。風は、時折、麓の村より向こうの、駅前に近いガヤガヤという街の音や、賑やかに往来を歩く人々の声や、荷物を運ぶ人夫達の掛け声を運んでいた。
秋は、その他の季節より、遠くの物音がよく聞こえて来るような気がするけど。
「ここは本当に、風がきついですね」
モカラタとティトレーと縦に並んで一列になって、ゆるやかな坂道を上りながら、麓の村で聞いた通り、ここは、本当に、風が遠くからよく物音を運んで来るとユノワは思った。
「ああ、あまりに風がきついので、麓の神社の天井に、ある行者が、竜を閉じ込めたという伝承があったくらいだからな」
「こんなところに、本当に、竜がいるのか?」
竜を熱く信奉するユノワと違って、ティトレーは半信半疑だった。
「お前も、さっき見ただろう?ーー神社の天井に描かれ、鳴き竜として親しまれていた竜の姿がなくなっていたのを」
尚も不信そうに自分を見上げるティトレーに、竜は半ば呆れながら、
「封印を解かれたばかりの竜は弱い。楡名の時代ならともかく、今の人間達に封印を解く力はない。だから、我々は急がなければならない」
と言った。
新しく拓かれたといっても、まだ畑や人家は点在するほどで、松林が広がる中を三人は歩いて行った。
それは、おぞましい光景だった。
鳥の頭をした人型の者、ルーラが、たった今、息絶えたばかりの竜を貪るように喰っていた。
あれは、ユノワの神様ではなかったけれど、ユノワは口から胃酸が出そうになった。
「ユノワ」
「はい」
竜に優しく名を呼ばれ、彼女は何の疑問も持たずに、
「ティトレー、ごめんね」
とだけ言うと、幼なじみの額に右手をかざして、この間ティトレーが回収したばかりの竜の力を吸収した。
ティトレーは、何をされたかも分からず、呆然としていた。
六歳の自分には与えられなかった力を、ようやく、ユノワと同じ力を得られたと思ったのに……。
その力は、いとも簡単に、ティトレーの中から抜き取られてしまった。
虚脱したように立ち尽くすティトレーに構わず、ユノワは、竜を貪るルーラに向かって走って行った。
「……全く。必要な時には、いつでも私を呼べと言っただろう?」
やれやれという風に大袈裟に肩をすくめてみせて、いつの間にか、ティトレーの隣に姿を現していたフェリーンが、ユノワがルーラに攻撃を仕掛ける前に、人型から本来の猫のような巨大な獣の姿に戻り、一瞬で、ルーラを仕留めていた。
「……鳴き竜は?」
ユノワは竜の元へと駆け寄り、食い散らかされた体に寄り添っていた。
「鳴き竜は?」
すがるようなユノワの言葉に、
「さあ、私は、そちらは専門じゃないから」
フェリーンがつれない言葉を返した。
そして、まるで、「竜に聞け」とでも言うように、視線を竜へと向けた。
竜は、こちらを真っ直ぐ見つめたまま、無言で、首を横に振った。
ユノワは、慈しむように、鳴き竜に触れると、残されていた力を吸収した。
「さて。これで、この子は、お前以外の竜が持つ三元素、土、火、風、全ての力を手に入れたわけだが、お前は、この子をどうするんだ?」
フェリーンの動作はどこか芝居かがっており、彼女の正体を知らない者にも、この世の者ではない印象を抱かせた。
「……お前には、どうでもいいことだろう?」
静かな竜の声に、フェリーンが苦笑する。
「うちのティトレーが気にするんでね……」
竜は、まだこの世界に残っていた巨大な力を持つ竜達の元を訪れ、可能であれば、共に、別の世界へと移るつもりでいた。
他の竜達の滅びは、竜が予想していたよりも速く、竜を慕うユノワに力を吸収させることしか出来なかったわけだが……。
竜が楡名姫と契約を交わした頃とは違って、もう、この世界は、竜達の力を必要とせず、竜達にもまた、この世界に留まる理由はなかった。
人間達の繁栄で、世界は、すっかり大きく膨らんで、今にも熟れて崩れ落ちそうなくらい、バランスを保つのが難しくなっていた。
「……私は、ユノワを連れて、別の世界へ渡ろうと思う」
「その子は、人間だぞ?」
「他の竜達の力を得たことで、ユノワは、私と共に、別の世界へと渡る力を手に入れた」
「……お前の孤独に、その子を付き合わせる気か?」
「私達がいなくても、この世界は、いずれ滅びる」
「星としての寿命のことを言っているのか?それとも……」
「……楡名が死んで、私にはこの世界への関心はなくなった。ただ、彼女と結んだ契約のために、この世界に留まっていただけだ」
楡名姫が亡くなって、数千年。
竜には、いつでも、おかしな風習を生み出し、頑なにそれにこだわろうとする人間達との契約を破棄することが出来た。彼がそれをしなかったのは、共に過ごした時間は短かったものの、それほど、彼女の存在が大きかったからかも知れない。
「そこに、楡名そっくりのユノワが現れた。それだけだ」
口にこそ出さなかったが、竜にはすでに分かっていた。他の竜達のように、自分が滅びずに済んだのは、ユノワの信仰にも似た、自分に対する思いがあったからこそだと。
「ティトレーは、どうする?」
竜は、呆れたように、ふっと笑うと、
「あいつは、お前の庇護下にあった者だろう?」
と言った。
「私には関係ない」
「……ユノワが望めば連れていくのか?」
「さあ」
竜はもう疲れていた。
「空間を渡るには、力がいる。情けないことだが、私にはもう、初めてのユノワと、自力で別の世界へと渡る力を持たない者を連れていくだけの余力はないんだ」
自嘲気味に笑う竜に、フェリーンは、尚も食い下がった。
「私がサポートすると言っても?」
竜は、訝しげに首をかしげると、
「何故、お前は、そこまで、ティトレーに肩入れするんだ?」
と聞いた。
今度は、フェリーンが苦笑する番だった。
「私にも、もう、あまり時間は残されてないんでね……。いずれ、私達は滅び、人間達がこの世の全てを支配する時代がくる」
「…そんな世界に、ティトレーを残しておきたくないとでも?」
「……おかしいと笑うかい?あの子も、人間なのに」
「いや」
竜とフェリーンの間に、静かな時間が流れた。
「つまり、お前は、ティトレーが孤独にならないために、この世界にユノワを置いて行くか、ティトレーも共に連れて行けというのだな?」
「ああ」
「……お前が連れて行けばいいだけだろう?」
竜は呆れたように笑った。
「ティトレーが、ユノワを好きなもんでね」
竜達の会話は、彼らだけに分かる特殊な言葉で交わされており、ユノワとティトレーには聞こえていないとはいえ、ずいぶん過保護なもんだと竜は肩をすくめた。
「自分でも、どうかしてると思っている」
そう言って、フェリーンは真っ直ぐ竜を見つめたが、竜の答えは変わらなかった。
竜は軽く首を振ると、
「また機会があれば、別の世界で会おう」
と言い、ユノワを呼んだ。
「ユノワ、」
「はい」
「私は、これから、別の世界へ渡ろうと思うが、共に来るか?」
「はい」
「ティトレーは連れて行けない」
「はい」
「それでも、お前は、私と来るか?」
「はい。あなたとお会いする前も、今も、私の気持ちは変わりません」
真っ直ぐにユノワは竜を見上げると、薔薇の蕾がほころぶように笑った。
竜は優しく微笑むと、フェリーンの方へと向き直り、
「これが答えだ」
と笑った。
フェリーンが呆れたように微笑み返し、ティトレーがあんぐりと口を開ける中、竜は最後の力を振り絞って、別の世界へと渡るための門を開いた。
「じゃあ」
「ああ」
フェリーンと短く言葉を交わし、いつの間にか、寄り添うように、自分の傍へと来ていたユノワを軽く引き寄せると、
「待っ、待って!」
ようやく、追いすがるように言葉を発したティトレーを無視し、門を通って行った。
「ティトレー」
哀れむように、フェリーンに名前を呼ばれても、ティトレーはしばらく動くことが出来なかった。
最後に、竜の肩越しに自分を見たユノワの顔を思い出していた。
「フェリーン、」
「ん?」
「俺も、ユノワと同じ世界へ連れて行ってくれ」
ユノワが消えた方を見つめたまま、茫然自失として言った。
「いいのか?一度、別の世界へと渡ったら、お前は私の眷属となり、この世界へは、もう二度と戻ってくることは出来なくなるんだぞ?」
「村も、父も、とっくに捨てた身だ。ユノワと再会し、共に旅をするまで、こじれた感情を持て余し、自分の殻に閉じこもっていた。そんな自分に、もう二度と戻りたくないんだ」
「……分かった」
ほっとしたティトレーに釘を刺すように、フェリーンは言った。
「ただし、私と一緒に空間を渡ったからといって、必ずしも、ユノワと再会できるとは限らない。それは了解しておいて欲しい」
「それでも」
ティトレーの左目から、涙が一筋流れ落ちた。
「分かった」
もうそれ以上、フェリーンは何も言わず、静かにティトレーの肩を抱くと、さっき、竜がしたように、静かに空間を開き、別の世界へと渡る門をくぐった。
こうして、かつて、神と崇められていた者達が消えた世界で、人間達は栄華を極め、種の袋小路へと落ちて行った。
竜が統べる地 狩野すみか @antenna80-80
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