はなさないで(短編)
真坂/shinsaka
はなさないで
消毒液の匂いが鼻を刺した。白い天井。近くで響く電子音。
どうやら病院らしい。
頭が重く、視界が霞む。意識がぼんやりとしか定まらない。
自分がなぜここにいるのか、最近の出来事が思い出せない。
焦りが胸を締め付け、身体を起こそうとすると、全身が鈍い痛みに襲われた。
「あら、目が覚めましたね。動かないでください、まだ安静が必要です」
傍らにいた看護師が柔らかく微笑んだ。
彼女の話によれば、俺は3月9日に事故に遭い、それ以来昏睡状態だったらしい。
今日は3月12日。3日間眠っていたことになる。
「事故……?」
「ええ、県道128号線沿いで倒れているところを発見されたんです。
雨に濡れて、意識を失っていて……幸い大きな外傷はなかったんですが、頭を強く打ったようです」
看護師の言葉を遮るように、医師が診察に現れた。
「頭部の打撲が記憶に影響を与えているようですね。一時的な逆行性健忘症でしょう。事故前の数日間の記憶が抜け落ちている状態です。少しずつ戻る可能性はありますが、無理に思い出そうとしないでください」
言われても、何も浮かばない。何か大切なことを忘れている感覚だけが残る。
ふと、腕を見ると、奇妙な跡があった。
赤黒い指の形がくっきりと浮かび、まるで誰かに強く掴まれたようだ。
「これ……何ですか?」
俺は腕を指差した。医師が眉を寄せ、軽く触診しながら答えた。
「掴まれたような痣ですね。事故の状況からは説明がつきにくいですが……何かで強く圧迫されたのかもしれません。発見時には既にあったと報告されています」
その声に微かな迷いを感じた。看護師が付け加える。
「発見されたときずぶ濡れで、何か名前を呼んでいましたが……みさき、でしたか」
「……みさき?」
誰だ? 頭に響くその名前が、なぜか懐かしくもあり、怖くもある。
看護師が去った後、ベッド脇の私物を見た。財布、鍵、小さな手帳。
手帳を開くと、「美咲と廃墟へ。3月9日」と書かれている。
3日前の俺は何をしていたんだ?
その夜、眠りに落ちると夢を見た。
暗闇の中、誰かが俺の手を強く握る。
「離さないで……」
掠れた声が耳元で囁く。顔は見えないが、その声に胸が締め付けられる。
目覚めると、心臓が激しく鳴っていた。
枕元の手帳を手に取り、再び「美咲」の文字を見つめた。
しばらくして医師から退院の許可が下りた。
「名前や住所は覚えているようですね。無理せず様子を見てください」
確かに、自分の名前やアパートの場所は不思議と頭に残っている。だが、美咲という存在だけが空白だ。
自宅に戻ると、埃をかぶった机の上にカメラとノートパソコンがあった。
部屋の隅には、見覚えのない女性物のコートが掛かっている。
カメラのメモリーカードをパソコンに差し込むと、知らない廃墟の写真が映し出された。
錆びた鉄骨、崩れた壁。そして、若い女性が笑顔で写る写真。俺と一緒に笑っている。
彼女が美咲なのか? 胸がざわつく。
手がかりを求めて、手帳のメモを頼りに事故現場へ向かった。県道128号線沿いの古い工場跡。郊外の寂れた廃墟だ。
到着すると、冷たい風が頬を撫で、頭が締め付けられるように痛んだ。
廃墟の入り口には立ち入り禁止のテープが破れたまま残っている。
——歩踏み入れると、断片的な記憶が蘇った。
————SNSで話題の廃墟スポット。「絶対に行きたい」と美咲が俺にねだる。
————「私の願いを聞いてよ」と笑う彼女。左手の薬指に光る指輪。
————廃工場。壁には崩れかけた安全標語の看板がかかっている。
————懐中電灯を手に忍び込む。突然、光が消える。
————「電池切れじゃないのに……仕方ない、スマホのライトで」と美咲が言う。
————暗闇の中、彼女の手が震え、「怖いよ……やっぱり帰ろ?離さないで」と俺の手を握る。
————突然、崩れる音。床が抜け、彼女が暗い穴に落ちていく。
————「離さないで!」と叫ぶ彼女に手を伸ばすが届かず、俺も転落。
————冷たい水に叩きつけられ、意識が薄れる中、彼女の声が響く。「ずっと一緒だって約束したよね……?」
————這うように水から這い上がり、廃墟の外へ。雨に打たれ、道路に倒れ込む。そこで記憶が途切れた。
「思い出した?」
背後に冷たい気配。首筋に息がかかる。振り返れない。
「今度は、離さないでね……」
夢で聞いた掠れた声。間違いない、美咲だ。
「ずっと一緒にいようね」
冷たい指が腕を締め付ける。骨の奥まで食い込むような感覚。
恐怖と懐かしさが混じる。次の瞬間、強い力で腕が引かれ、俺は床の崩れた穴へと引きずり込まれた。
落ちる瞬間、彼女の顔が見えた。笑顔だった。
3月16日、警察は廃墟の地下室で二つの遺体を発見した。
ある男性と女性が行方不明との通報を受け、再捜索した結果、最初の調査で見逃されていた水浸しの深い地下室が見つかった。
そこには、男と女が寄り添うように横たわっていた。
女の指は男の手を固く握り、左手の薬指には薄汚れた婚約指輪が光っていた。
窓の隙間から差し込む光が、ゆらめく水面に反射し、二人の顔を淡く照らした。
まるで、永遠の約束を果たしたかのように。
はなさないで(短編) 真坂/shinsaka @shinsaka
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