先生(三)

 二階の障子を開ける前。陽を背に映る影が二つ。軈て障子が開いて、窶れて皺だらけの、五十くらいのおばさんが一人、私を睨む。あまりの醜さに思わず驚いて、ひゅっと声にもならない声を上げる。

「ああ、貴方が、今度の」

 なんですの。思わず失敬してしまうところだったけれど、理性をうんと働かせて、笑顔を繕って、丁寧にお辞儀をする。

「初めまして」

「……ほどほどにしなさい。彼奴あいつ、とんだ漁色家なんだから」

 捨て台詞みたいにそんなことを呟いて、そのおばさんは廊下を行き、軈て下へと消えて行く。漁色家? 私には到底理解に及ばず、何食わぬ顔をしてお部屋に入る。その人、毅然さっぱりとした面持に穏やかな微笑みを浮かべて、おかえり、と一言そう言う。まだ一晩過ごしただけ。それでも判る、いつもの貴女。ほっと、安堵する。

 桶からサクマを二缶取り出して、その裡の一つを元気よく渡す。まだ、ふわついた気分が抜けない。その人は急に出てきたサクマに転瞬驚いた様子だったけれど、その後に綻ぶ様子が見て取れた。やっぱり、笑顔が素敵。天使みたいで、でも悪魔だったとしても、きっと惚れてしまうのでしょうね。それくらいに、素敵。

「飴屋さんの?」

 そう訊くから、私がうん、と軽く頷くと、今度は少し、悲しそうに「そうか」と言を零す。何かあったの? と訊く次第、「飴屋の旦那さん、この間、老衰で亡くなられたんだ」と言う。私も少し悲しくなって、俯く。よくよく反芻して、あのお婆さんの笑顔を思い出せば、確かに寂しそうだった。寂しそうな理由が、いま判った。ふわつきが、すっと落ち着く。飴屋さん、確かにどこか草臥くたびれていた。きっとお婆さん、本当に寂しいのだ。そう思うとやりきれなくって、今すぐにでも飴屋さんに行ってやりたくなった。行って飴をたくさん、抱えきれないくらいに買って、それからお婆さんのお話をたらふく聞いて、お婆さんが笑顔になってから、ここに帰ってきて、溢れ返る量の飴に頭を抱えたくなった。歯痒い悲しみが、私をしんとさせる。お婆さんの旦那さんだって、見たこともないのに。

「大丈夫。ちゃんと、お婆さんは旦那さんの最期を看取っていらしたから」

 明白地あからさまに沈鬱とする私に気を遣ってくれたのか、その人は苦笑混じりにそう言う。私、あの飴屋さんをひいきにするわ。

 それから、ずっと気がかりになっている、先程の事を訊く。

「さっきの人は、どなたなの? えらく不躾な人だったけれど」

 野暮かしらとも思ったけれど、あんなエゲつないおばさん、頭の片隅の箪笥には仕舞い切れなくて、脳裡にぐわっと出てきては、悪魔が吹き込むみたいに「漁色家」と何度も何度も繰り返すから、どうにも気になってしまって。

「あの人が大家さん」

 あらびっくり。

「貴女のこと、漁色家なんて言っていたけれど」

「ううん。莫迦やろう、なんて言ってやりたいところだけど、悲しいかな」

 その人、お茶を濁す。

「ねえ、漁色家っていうの、嘘でなくって?」

「そんな言い方、よしてくれ。私はもう別離を誓ったんだ。ただ、ただ」

 やっぱり、お茶を濁す。次第に、そんな愚図々々にちょっぴりら焦らして、こちらからはっきり言ってしまう。

「他に別懇の人がいるなら、判然と言って。私、怒らないわ。貴女が本当に別離を決めているなら、私、貴女を信じるもの」

 勿論、本当は他に別懇の人があるなんて厭だけれど、彼女みたいな明眸皓歯、宛転蛾眉、曲眉豊頬のひとなら、きっと他にもあることくらいは判る。それに、そもそも私自身、仮にも良人があるのにこんなことをしているのだから、彼女の罪の一つや二つ、いや三つでも四つでも、私、許すわ。

「君は、ずいぶん優しいんだね」

「この優しさ、どこから来ていると思う?」

 ぎゅっと、その人の目を捉える。

「まったく、罪な女は、いったいどっちなんだろうね」

 その人は苦笑を零して、私の頭をそっと撫でる。今なら、猫みたいに喉を鳴らせるわ。

 結局、その人には——私を含めない——六人の愛人があって、その裡の四人が女、二人が男、更にその裡、一人の男は後夫だという。曰く、男女の境なぞ下らないと。この性懲りのなさには確かに驚いた。しかし、六人いても裡三人は別離が済んで、それからもう二人にも、腹を括るのだという。ええ、採算が合わないわ。あと一人、これが困ったことに、後夫がどうにも別れられぬそうで、なんと彼女と後夫の間に子供が二人もいるという。私を口説く時には居ないと言っていたのに。これにはとんだ、すけこまし。しかして、これを聞いた時、私はそれでも怒らなかった。嚇怒の念の一切も湧いてこなかった。本当に、心底から、羨ましかった。私だって、できることなら貴女の子供が欲しいのに。私だって、貴女を想っているのに。私には何もない。もしかしたら、彼女にとって、「私」はただの「七人目」に過ぎないのかもしれない。私は良人より、どんな人より、貴女を好きなのに。

 やりきれない口惜しさを自覚して数瞬、我に返る。

 私、どうしてこんなにも、貴女に魅かれているの?

 いざなう様におびき寄せられて、たったの一晩。須臾の間であるというのに、まんまと、その人に魅了されて。俯瞰で見れば漁色家ってことくらい、未熟な私でも判り切ったことなのに。それでも、その人を、愛してしまった。

「貴女は、私に何をくれる?」

 不意を衝いて、無自覚にそういう。その人、敏感に驚いて、それから考える間も置かずに、

「命も、くれよう」

 そういうことを平気でいうから、みな、貴女に堕ちるのです。

×

 下宿の村八分。確かに、その人はそう言った。曰く、——悪く言ってしまうと——遊び人だから、大家さんから敬遠されているそうで、どうしてお家に居られるの? と訊くと、「家賃を少しだけ」と、多めに払っているらしい。更にどうしてあそこに住むの? と訊くと、「あのバアル、私の友人の店でね。お酒が大好きなもんだから、あそこを行きつけにしてしまうと、どうにも離れなれなくて」なんて言う。あのマスタ、貴女の友人だったのね。すると嬉々としてうんと頷く。お酒が会話に入ると、楽しそう。愉快なひと。

 悠長な会話をしながら、街の中をぶらりと歩く。なに、大家さん、敬遠しているものだから、ご飯を作ってくれないそうで、私のこともあまり好きではないそうだから、無論私のご飯だってない。そして私も彼女もお金には困っていないから、当分は二人で外食でもしようかという結論に至った。

(未完)

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