先生(三)
二階の障子を開ける前。陽を背に映る影が二つ。軈て障子が開いて、窶れて皺だらけの、五十くらいのおばさんが一人、私を睨む。あまりの醜さに思わず驚いて、ひゅっと声にもならない声を上げる。
「ああ、貴方が、今度の」
なんですの。思わず失敬してしまうところだったけれど、理性をうんと働かせて、笑顔を繕って、丁寧にお辞儀をする。
「初めまして」
「……ほどほどにしなさい。
捨て台詞みたいにそんなことを呟いて、そのおばさんは廊下を行き、軈て下へと消えて行く。漁色家? 私には到底理解に及ばず、何食わぬ顔をしてお部屋に入る。その人、
桶からサクマを二缶取り出して、その裡の一つを元気よく渡す。まだ、ふわついた気分が抜けない。その人は急に出てきたサクマに転瞬驚いた様子だったけれど、その後に綻ぶ様子が見て取れた。やっぱり、笑顔が素敵。天使みたいで、でも悪魔だったとしても、きっと惚れてしまうのでしょうね。それくらいに、素敵。
「飴屋さんの?」
そう訊くから、私がうん、と軽く頷くと、今度は少し、悲しそうに「そうか」と言を零す。何かあったの? と訊く次第、「飴屋の旦那さん、この間、老衰で亡くなられたんだ」と言う。私も少し悲しくなって、俯く。よくよく反芻して、あのお婆さんの笑顔を思い出せば、確かに寂しそうだった。寂しそうな理由が、いま判った。ふわつきが、すっと落ち着く。飴屋さん、確かにどこか
「大丈夫。ちゃんと、お婆さんは旦那さんの最期を看取っていらしたから」
それから、ずっと気がかりになっている、先程の事を訊く。
「さっきの人は、どなたなの? えらく不躾な人だったけれど」
野暮かしらとも思ったけれど、あんなエゲつないおばさん、頭の片隅の箪笥には仕舞い切れなくて、脳裡にぐわっと出てきては、悪魔が吹き込むみたいに「漁色家」と何度も何度も繰り返すから、どうにも気になってしまって。
「あの人が大家さん」
あらびっくり。
「貴女のこと、漁色家なんて言っていたけれど」
「ううん。莫迦やろう、なんて言ってやりたいところだけど、悲しいかな」
その人、お茶を濁す。
「ねえ、漁色家っていうの、嘘でなくって?」
「そんな言い方、よしてくれ。私はもう別離を誓ったんだ。ただ、ただ」
やっぱり、お茶を濁す。次第に、そんな愚図々々にちょっぴり
「他に別懇の人がいるなら、判然と言って。私、怒らないわ。貴女が本当に別離を決めているなら、私、貴女を信じるもの」
勿論、本当は他に別懇の人があるなんて厭だけれど、彼女みたいな明眸皓歯、宛転蛾眉、曲眉豊頬のひとなら、きっと他にもあることくらいは判る。それに、そもそも私自身、仮にも良人があるのにこんなことをしているのだから、彼女の罪の一つや二つ、いや三つでも四つでも、私、許すわ。
「君は、ずいぶん優しいんだね」
「この優しさ、どこから来ていると思う?」
ぎゅっと、その人の目を捉える。
「まったく、罪な女は、いったいどっちなんだろうね」
その人は苦笑を零して、私の頭をそっと撫でる。今なら、猫みたいに喉を鳴らせるわ。
結局、その人には——私を含めない——六人の愛人があって、その裡の四人が女、二人が男、更にその裡、一人の男は後夫だという。曰く、男女の境なぞ下らないと。この性懲りのなさには確かに驚いた。しかし、六人いても裡三人は別離が済んで、それからもう二人にも、腹を括るのだという。ええ、採算が合わないわ。あと一人、これが困ったことに、後夫がどうにも別れられぬそうで、なんと彼女と後夫の間に子供が二人もいるという。私を口説く時には居ないと言っていたのに。これにはとんだ、すけこまし。しかして、これを聞いた時、私はそれでも怒らなかった。嚇怒の念の一切も湧いてこなかった。本当に、心底から、羨ましかった。私だって、できることなら貴女の子供が欲しいのに。私だって、貴女を想っているのに。私には何もない。もしかしたら、彼女にとって、「私」はただの「七人目」に過ぎないのかもしれない。私は良人より、どんな人より、貴女を好きなのに。
やりきれない口惜しさを自覚して数瞬、我に返る。
私、どうしてこんなにも、貴女に魅かれているの?
「貴女は、私に何をくれる?」
不意を衝いて、無自覚にそういう。その人、敏感に驚いて、それから考える間も置かずに、
「命も、くれよう」
そういうことを平気でいうから、みな、貴女に堕ちるのです。
×
下宿の村八分。確かに、その人はそう言った。曰く、——悪く言ってしまうと——遊び人だから、大家さんから敬遠されているそうで、どうしてお家に居られるの? と訊くと、「家賃を少しだけ」と、多めに払っているらしい。更にどうしてあそこに住むの? と訊くと、「あのバアル、私の友人の店でね。お酒が大好きなもんだから、あそこを行きつけにしてしまうと、どうにも離れなれなくて」なんて言う。あのマスタ、貴女の友人だったのね。すると嬉々としてうんと頷く。お酒が会話に入ると、楽しそう。愉快なひと。
悠長な会話をしながら、街の中をぶらりと歩く。なに、大家さん、敬遠しているものだから、ご飯を作ってくれないそうで、私のこともあまり好きではないそうだから、無論私のご飯だってない。そして私も彼女もお金には困っていないから、当分は二人で外食でもしようかという結論に至った。
(未完)
グッバイ ǝı̣ɹʎʞ @dark_blue_nurse
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