共依存病棟
諏訪野 滋
共依存病棟
どんな集団でも、スケープゴートというものは必ず必要になるらしい。組織の中で自分の身の安全を確保するためにつるし上げられる、いけにえ。そして
「ちょっと、
パワハラと紙一重の看護師長の怒声が飛んだ。すいません、と小さくうつむきながら、ナース服姿の恭佳はキーボードを叩き続ける。入職二年目というのは、指導役のベテラン看護師からはずれて独り立ちを強制される、恭佳でなくてもなかなかにつらい立場ではあることは間違いなかった。
そこへ追い打ちをかけるように、中堅どころのお局看護師が耳障りなだみ声を重ねてくる。
「あなた、担当部屋の検温も点滴もまだでしょ? まったくいつまで……」
あ、と慌てて顔を上げた恭佳の、汗に光る喉元が眩しい。私は周囲に聞こえるようにわざと大仰にため息をつくと、デスクから立ち上がって片手を挙げた。
「あの、私が代わりに部屋周りやっておきますので。高宮さん、構いませんか?」
突然の助け舟に、恭佳は驚いてこちらを見る。その私の提案に、古参の先輩看護師はあからさまに渋面を作った。お局は年齢こそ重ねてはいるが大して仕事ができるわけでもない、自分より要領が悪い者がいることに安心感を得ているだけの凡庸な女だ。私がいじめに加わらないのが、そんな彼女には不服なのだろう。
「でも、
年下であってもリーダーの私に、お局はいつも敬語を使う。滑稽だな、と心の中で思いながら、私は無表情に言った。
「自分の受け持ちはもう終わっていますから。あまり遅くなって、患者さんに迷惑をかけるといけませんので」
私はあえて不機嫌そうに時計を見ると、体温計と聴診器をつかんだ。先輩に仕事を変わってもらう事に罪悪感を感じたのだろう、顔を青くした恭佳が腰を浮かしかける。
「す、すいません。汐見先輩」
「気にしなくていいから。あなたは、目の前の仕事に集中して」
ぴしゃりと冷たく遮ると、前を向いたまま通り過ぎる。横顔に注がれる恭佳の視線に、私はぞくりと身体を震わせた。
午後六時のナースステーション。閑散としたその片隅で、恭佳はいまだにディスプレイと向き合っていた。夜勤の看護師は食事の配膳と介助で出払っていて、私たち二人のほかには誰もいない。
椅子をぎしり、ときしませてとなりに座った私に、恭佳は顔を赤らめながら少し身を引く。
「ほら、ここ。手術した日付、間違ってるよ」
彼女の手の上からマウスをつかむと、ボックスをクリックして数値を修正してやる。恭佳は身体を固くしながら、電子カルテを睨みつけたままだ。
「これで良し、と。どう、大体終わった?」
「……はい。本当に申し訳ありませんでした、先輩」
「いいのよ。誰もいないから言うけれど、ここの病棟の人たちったらひどいよね。高宮さんにきつい仕事を押し付けてばかりで」
恭佳はさらに恐縮してうつむいた。彼女の耳たぶがいちごのように染まるのを、私は間近でじっくりと観察する。
「そんなこと、ありません。私が仕事遅いだけで」
「違うわよ。私リーダーだから知ってるけれど、師長さんとかお局とか、こそこそと話し合ってあなたにわざと大変な患者さんを割り当ててるんだから。あ、これ、私が話したって内緒ね」
私は小さく笑いながら、彼女にウィンクを送る。不当に扱われていることを教えられたにも関わらず、恭佳は安堵したように私に笑顔を返した。落とされた照明に淡く輝く彼女の瞳が、波のように揺れる。
「そうだったんですか。……でも、汐見先輩みたいな方がいてくれるから。実は私、もうこの職場無理かも、なんて」
彼女の滑らかな髪を私は撫でた。恭佳は拒絶することもなく、私の手の動きに身を任せている。
「私はあなたにいて欲しいな、せっかく頑張ってくれる後輩が来てくれたんだし。もし何かあったら、私に相談してくれればいいから」
私は彼女の耳元に唇を寄せた。
「私だけは、あなたの味方だよ」
立ち上がって彼女の肩を軽く叩くと、私は笑いながら手を振った。
「それじゃ、仕事終わったんなら早く帰りなよ。タイムカード押すの、忘れずに」
「あの、汐見先輩!」
「何?」
「これから、まだお時間ありますか? い、一緒に、食事でも……」
わたしは困ったような顔を作ると、腕時計をちらりと見る。
「あまり遅い時間にならなければ、構わないけれど。高宮さんもそうでしょう?」
恭佳は復讐するように料理を頼み、慣れてもいないだろうにワインを立て続けにあおり、マンションの私の部屋で怨念を吐きながら泣いた。忘れさせてください、とせがんできたので、私は言われたとおりにした。
「先輩。先輩だけが、私の全てを分かってくれます」
魚のように身体を反らしながらうわごとのように続ける恭佳に、まだまだだから、と答えながら、私は彼女の身体を思いのままに押し開いた。
ある日の朝、更衣室に入った私は部屋の隅に人だかりを見つけた。女たちの輪の中心には、やはり恭佳がいた。
「私、
「病院に迷惑なのよ、こんなうわさを立てられちゃあ!」
殺伐とした雰囲気に眉をひそめた私は、罵声の中に割って入った。恭佳は両手で顔を覆ったまま、ぐずぐずと嗚咽を漏らし続けている。
「皆さんどうしたんです、一体」
「ああ汐見さん、聞いてくださいな。高宮さんが、循環器の笹岡先生とホテルに入るところを、患者さんに見られていたんですって」
「笹岡先生…それって不倫ということですか? でもそんなこと、一体だれが」
「ほら、病院の外来に投書箱が置いてあるじゃないですか。貴重なご意見を、ってやつ。その中に匿名で通報があったらしいんですよ」
私は恭佳の方に振り向くと、彼女の両肩をつかんで問いただした。
「……本当なの、高宮さん?」
「そんなわけないじゃないですか! それは、先輩が一番ご存じのはずです」
「なに汐見さんに甘えてるのよ、この恥知らず!」
詰めよってくる同僚をなだめると、私は小さくため息をついた。
「そのこと、笹岡先生ご本人には病院から調査が?」
「それはたぶんないと思います、病院も医師相手には事を荒立てたくはないでしょうから。こういう時に看護師は立場が弱くてしゃくに障りますが、それにしても」
なおも問い詰めようとする彼女達を、私は両手で押しとどめた。
「この場はとりあえず、私に任せてもらえませんか? 師長さんと相談したうえで、もし事実であれば、高宮さんに病院と先生のご家族への謝罪を要求しますから。とにかく、しばらくの間は」
悲し気に私を見上げる恭佳に冷たい一瞥をくれた私は、白衣を身に着けると病棟に向かった。
その夜、恭佳は部屋に入るなり私を責めた。
「先輩、私を信じてくれないんですか」
私は椅子に座ると、膝の上に恭佳を
「……本当のことを言って、恭佳。あなた、仕事で自分を守ってもらうために私を利用しているんじゃあ…」
言葉を続けようとした私の唇を、恭佳はいきなりふさいだ。両手を背中に回してしがみつくと、迷子が手探りで母親を探すように、私の舌のありかをめちゃくちゃに探ってくる。やがてぷはあ、と息継ぎをすると、口の端から糸を引いた彼女は涙目で私にもたれかかってきた。
「私が好きなのは先輩、あなただけです。だから疑わないでください、私を見捨てないでください。何でも、しますから……」
「いいのよ、無理しなくても」
「無理とかじゃありません! 私にはもう先輩しかいないんです。だから、私も先輩に求められてるって、実感させてください。今すぐに」
私はためらうそぶりを見せながら、恭佳のブラウスのボタンを一つずつ外していく。
「じゃあ、いつもより深くしても、いい?」
「痛くても、構わないです」
私は幸せです。あこがれの先輩が、必要だって言ってくれるから。
しっかりと見ているように命令しながら、私も答える。
私も幸せよ。初めて会った時から、あなたに求められることにあこがれていたんだから。
「失礼します、汐見です」
デスクの後ろで書き物をしていた師長が、眼鏡の位置を直しながら顔を上げた。
「最近の高宮さんの行動について、ご報告にあがりました」
「ご苦労さま、汐見さん。それでどう、リーダーのあなたから見て」
静かな怒りの表現が伝わるようにと、私は上手に演技をしてみせた。
「彼女、あまり反省しているようには思えません。仕事についても手抜きが目立ちますし、協調性にも欠けています。あれでは、周りの同僚が怒るのも無理はないかと」
師長は額に手を当てると、大きなため息をつく。
「それじゃあ、例の笹岡先生との件は」
「ずるいやり口です。私たちが医師を追求することができないことを、わかってやっているとしか思えません。虎の威を借る狐という奴ですね、口惜しいことですが」
立ち上がった師長は、苦虫をかみつぶしたような表情で窓の外を眺めた。
「……かといって、強制的に解雇するわけにもいかないし。あの子、周りから孤立している原因が自分のせいだってわかっているのかしら」
私は媚びるように、彼女が気に入るであろう提案を行った。
「とりあえず罰として、もう少し仕事を増やしてあげるのはどうですか? 不倫の事なんて考えられなくなるくらいに、忙しくしてあげるんです。そのくらいやらないと、高宮さんは自分の落ち度について気が付かないと思いますよ」
そして。
私が恭佳をかばえばかばうほどに、彼女は他の看護師たちの憎しみを買い、私に頼らざるを得なくなる。
私なしでは、いられなくなる。
私が浮かべた薄ら笑いを、後輩いびりを楽しむ暗い喜びだと誤解したのだろう。決して性格が良いわけではない師長は、苦笑を返しながらうなずいた。
部屋の扉を閉めながら、私は頭を巡らす。投書箱の効果は絶大だった。次はどうしようか、患者から預かった財布を恭佳が盗んだことにしたらどうだろうか……
「先輩、お疲れ様です!」
真っ白な姿の恭佳が、手を振りながら嬉しそうに駆けてくる。
そう。あなたの居場所は、ここにしかない。
そして、あなたが好きになるのは私ひとりでいい。
手を差し伸べずに笑いながら立っている私の身体を、彼女は痛いほど抱きしめた。
共依存病棟 諏訪野 滋 @suwano_s
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