美しい人にあこがれ続け

加須 千花

疎雨はこの恋を手放す事はしない。

 大暦だいれき十二年(777年)。


 とう長安ちょうあん


 二十歳の家奴かど(使用人)、 疎雨ソウは、仕える主、ハク 様に恋をしている。


 三十歳の彼女は、あたたかな微笑みで、家奴かどにも家婢かひ(召使い女)にもわけ隔てなく優しい。

 清純な美しさ。

 蒼玉ラズワードのような青い瞳。

 雪のような白い肌。

 豊かな黒い髪。

 彼女の歩いてる場所からは、光がさしているように、 疎雨ソウには思える。

 彼女はいつも日だまりのなかにいるのだ。


  疎雨ソウは、馬をひく馬丁ばていの仕事をしている。


 疎雨ソウ、今日はちょっと遠出をするわよ。」

「はい、若奥様。」


  疎雨ソウハク 様を、若奥様と呼ぶ。

 彼女は人妻だった。

 彼女は、お茶の豪商の家に生まれて、珠玉しゅぎょく(宝石)の豪商へ嫁いだ。いつも高級な化粧品の良い匂いをさせ、すべらかな襦裙じゅくんを着ている。

  疎雨ソウは、財産も身分もない、家奴かど

 釣り合いはとれず、何も持っていない。


「いつもありがとう。」


 若奥様は、気さくに、笑顔で声をかけてくださる。


「…………。」


  疎雨ソウは口下手で、心では嬉しく思っているのに、何も言えず、左手で馬をひき、もごもごしながら、ぺこりと頭をさげる。


 


 もし、 疎雨ソウが、恋しています、と言ったら、どうなるだろう?


(どうなるかなあ。)


 一笑に伏されて、相手にされないか。


「聞かなかった事にするわ。」


 と言われるか。


家奴かどにあるまじき事を言ったわね。もう、ここでは働かせられないわ。」


 と、追い出されるか。


(恋してる、と伝えても、何もならないな。

 そりゃそうだ。差し上げられるものも、何も持っていないんだから。)


 それでも───。


 恋してる。


 若奥様を、愛してる。


 この心だけは真実で、 疎雨ソウが今まで生きてきたなかで、唯一手にした、希望の光だ。

 手放したくない。


 報われなくて良い。


 馬の口をひきながら、馬の背に揺られる若奥様を振り返り、そっと盗み見る。

 若奥様は、前を見ていて、 疎雨ソウを見ていない。


(若奥様は、お美しいです。お慕いしています。)


 心に秘めた想いを、胸中でつぶやく。


  疎雨ソウは若奥様にあこがれながら、この先もずっと、何もせず、何も言わず、家奴として若奥様に仕えてゆくのだろう。


  疎雨ソウは、自分にはそんな将来が訪れ、このまま朽ちて死んでゆくのだと、予感がしていた。


 それでも、本望だ。







 

 


 

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