ひなまつり
洞貝 渉
ひなまつり
それがふと目についたのは、疲れていたからなのかもしれない。
役立たず、愚図、今まで生きて来て一体何をしていたんだ。お前みたいな使えない奴が一番嫌いだ。……罵声の中でなんとか聞き取れたのはこれくらいで、あとは何を言っているのかわからなかった。いや、そもそもあれはほとんどが言葉などではなく、ただ雄たけびを上げていただけだったようにも思う。
古物商の軒先にあった商品の一つ、小ぶりなひな人形のセットがなぜだか妙に気になり、足が動かなくなってしまった。
いくら安価だといっても中古の品になど興味はなかったし、まして場所ばかりくう実用性ゼロの人形なんて、これっぽちも欲しくはないはずなのに。
そのひな人形のひな壇は二段あり、上段にはお内裏様とお雛様、下段には官女が二人いる。本来は三人そろって三人官女と呼ばれるものだ。しかしそのひな人形は官女のうち一体が紛失しているため大幅に値引きされていた。
欲しい、わけではなかった。
なのに、見た瞬間から懐かしさというか、ずっと前からこれを知っているような気がしてくる。それがだんだん、これが私の物になる以外の可能性などないという謎の確信めいたものが湧き、しまいには、はやく持ち帰りたいという焦燥感まで覚える始末。
人形の一体、官女を手に取ってみる。
軽く、肌馴染みがよく、無機質な中にも柔和さがにじみ出ていて、いくらでも眺めていられそうだった。
こんな素敵なものが部屋にあったら、惨めな気持ちも和らぎ、多少は華やいだ気分にでもなれるのだろうか。
私の手の中で人形がにっこりと微笑んだ、ような気がした。
何の気なしにもう一体の官女も手に取る。
両の手に収まる官女たちと、それを……官女を手にする私を見守る男女のひな人形。みんな柔らかで温かなものを漂わせながら、私に親愛の眼差しを向けている。
どうせ両の手で支えもつのなら、三方をお持ちなさいな。
手の中から官女が言った。
さんぽう?
私が首をかしげると、私の手の中にないひなの女が鈴を転がしたような声を上げる。
盃を置くための台で、とても重要で大切なもののことです。
じゅうようでたいせつなもの?
私がさらに首をかしげると、私の手の中にない雛の男がバイオリンを奏でたような声を出す。
あなた以上の適役は、そうそういないでしょうね。
わたしが、てきやく?
さあさ、持ってごらんなさいな。
気づけば私の両隣を私と同じサイズの官女二人が挟んでいる。
さあさ、さあさあ。
私は二人に勧められるまま、つるりとした光沢のあるそれを両の手でしかと持ち支えてみる。
男女のひなが満足げに私を見つめた。
やはり、あなた以上にその重要で大切なものを支え持つのにふさわしい、適任適役はいないようです。ああ、これでようやくみなが揃いましたね。今日はなんてめでたい日なんだ。
私はひな壇の下段真ん中に腰をおろす。
なぜかわからないが、そうすることがしっくりと馴染む気がするのだ。
少なくとも、罵られる日々を送り続けるよりも、こうしてみんなに認められ、役割を与えられ、こうしていることを求められる今の方が私には合っている気がする。
私は穏やかな心地でにこりと微笑む。
そして、古物商の店主が私たちの値札を取り換えるのを、健やかな気分で見守る。
ひなまつり 洞貝 渉 @horagai
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