ひなマッチョり

真野てん

第1話

 ひなまつりとは、女児の健やかなる成長と幸福を祈願する日本の年中行事である。


 五節句のひとつ上巳にあたる三月三日に行われるため「桃の節句」とも呼ばれるが、現在では新暦を使用している関係で、実際には桃の咲く季節でない。


 そのため伝統的に造花の桃や、あるいは桃をモチーフとした菓子などで代替していたが、物価高騰のあおりを受けて昨今ではそれすらも用意できない家庭もあるという。


 娘の笑顔が見たい――。

 金がなくとも父親として、娘に立派な桃を用意してやりたい。


 ある時、ひとりの男が閃いた。

 桃の代替、もも……だいたい……腿……。


 そう、大腿四頭筋である。

 男はおのれの肉体を鍛え上げることによって、娘のひなまつりに華を添えようと思い立ったのである。

 彼が肉体改造に着手したのは、12月の末。

 おりしもクリスマスに気の利いたプレゼントを渡してやれない無念から、この発想の転換に辿り着いたのだ。

 娘は空の靴下を抱きしめながら、それでも「サンタさん忙しかったんだね」と、うっすら涙のにじむ瞳でニッコリと笑い掛けてくれた。


 情けない――ああ、情けない。

 おのれの甲斐性のなさに絶望的になるも、男は諦めるわけにいかなかった。娘の笑顔は、彼女のやせ我慢の上に成り立つようなものであってはならない。

 男はその日から、妻と相談し、豆類を中心とした植物性タンパク質を摂取する食事に切り替えた。酒はもともと飲まなかった。そもそもそんな金はなかった。

 市販品のプロテインなど高くて買えるはずもない。

 いい筋肉を作るため、まずは生活を見直した。


 仕事がもともと肉体労働であることが幸いし、節制を心掛けたら、すぐに効果が現れた。

 山のように盛り上がった僧帽筋、シャツを内側から破かんばかりの大胸筋、そしてシックスパックにくっきりと分かれた腹直筋と――。

 新年を迎え、二月も後半に差し掛かる頃には、男は仲間内でも話題になっていた。本職のボディビルダーすらうらやむ肉体を誰もが絶賛する。


 しかし、ひとりその肉体に納得していない男がひとり――本人である。


「くそ! なぜだ! なぜ、脚の筋肉は上半身ほど鍛えられないんだ! こんなにも頑張っているのに――」


 男の肉体は確かに仕上がっていた。

 それは古代ギリシャの彫刻のように雄々しく、そしてメリハリのある筋肉に。しかし、一番肝心な大腿四頭筋は、ほかの部位に比べると確かに細い。

 プロのボディビルダーですら、脚のトレーニングは続けるのが難しいという。部位的に衰えやすいということもあるが、なによりもキツいからである。


 娘のために――という固い信念を持ったこの男ですら、悲鳴を上げるほどだ。

 三月三日まで、もうそんなに時間もない。

 万事休すかと思ったときだ。男は悪魔の声を耳にした――。


 暗い部屋にひとり。

 男は震える手に一本の注射器を持って、葛藤している。手にしているのは筋肉増強剤の一種である。もちろん競技用に認可のおりた正規品ではなく、彼の仕事道具を質に入れて買えるような粗悪品である。

 一定の効果は期待できるが、副作用によって身体を壊したなんて話はざらに聞く。

 

 娘の笑顔のために――。


 男は決心もつかないままに、震える針先をゆっくりと自分のふとももへ近づけていった。


「パパ、やめて!」


 暗闇から、突如として娘が飛びついてきた。

 彼女の身体は、自分以上に震えており、自らの父親を涙ながらに抱きしめている。


「おまえ……どうしてここに……」


「パパの様子がおかしかったから、ついてきたの。そしたら怖い顔して注射器持って……」


 娘は男から注射器を取り上げ、それを暗闇の向こう側へと投げた。

 ガシャンと小さな音がする。


「あれがなんのお薬かは知らないけど、良いものじゃないのはパパの顔で分かる。一体なにするつもりだったの? そんなことして、私やママが喜ぶと思ってるの?」


 男は震えた。

 娘の言葉にハッとさせられる。

 薬を使って得た大腿四頭筋で、娘の「桃の節句」を祝えるのか――。大きな過ちに気付かされた男は、最愛の娘を抱きしめる。


「そうだ。パパがいけなかった。気づかせてくれてありがとう」


 男はそれから一心不乱にトレーニングを続けた。

 仕事を終えると、気絶するまでデッドリフトを行い、食事をしてまたトレーニング。しかし娘や妻との時間だけはちゃんと取り、それ以外は脚を鍛えることに明け暮れた。

 彼の脚は、徐々に肥大してゆく。おのれの信念と娘へと愛を込めて。


 そしてついに三月三日がやってきた。


「パパ、すごい! すごいよ、パパ!」


 そこには、もはや完璧に仕上がったバッキバキの大腿四頭筋とハムストリングスがあった。

 この日のために妻が夜なべして縫ってくれた桃色のトランクスからのぞく、ぶっとい脚は、近所からの見物客も出るくらいだ。


 やがて周囲には出店が並び、あがりの一部が男の家に届けられたという。

 こうして始まった「ひなマッチョり」は、今年もどこかで盛大に行われているはずだ。

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ひなマッチョり 真野てん @heberex

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