昼下がりの窓

メランコリック

昼下がりの窓

 柔らかな古傷を擁する様な陽の差す、昼下がりの窓を覗く。刹那だったのだが、不思議に窓ガラスはその透明さを維持したままに通りを映さぬ様に見えた。霜や汚れによる濁りとは違い、性質を保ったまま反対の性質を示したのである。矛盾とは美しいものだ。などと、光や窓の性質だの科学だの芸術だのも知らぬ馬鹿者はつまらぬ物思いに耽る。

 さして思うところもなく窓を覗き続けていると、やはり気怠げな西日のせいか通りはゆらゆらと欠伸しているように揺らいでいた。剥げかかった歩道に突っかかっていく車も、おおよそ何の目的もないであろう歩行を続ける人々も、全身で欠伸をしている様に揺らいでいた。私は、「おや」と思い、通りに出てみようかしらと体の鈍い回路に働きかけようとしたのだが、やはりよしておいた。こうして西日の差す窓越しに独り眺めているから感傷的になっているだけであることを自覚していたからである。どだい、歩道の人々の中に飛び出していき、「やぁ、昼と夕の間は美しい!陽の魔術だ!憂愁を含んだ自然科学の芸術だ!」などと鼻息荒くしているのは阿呆そのものである。第一、何が欠伸をするように揺らぐだ。欠伸なら私も先程から数え切れぬほどこなしている。

 虚しいものである。通りは目と鼻の先で、何も玄関から行儀よく出ていかなくても、窓を開け放ってやればそれはもうほとんど歩道の中なのだ。にも関わらず飛び込んでゆくのがなんだか心許ないのである。雑多に物が放られているゴミ箱の様なこの部屋よりも、整然として脇には可愛らしい花さえ生えているような歩道の方が余程足の踏み場がないように思うのだ。

 もう半分自棄の様な気分であるために例の欠伸を連発しながらやはり窓を眺めていると、何の発想もない凡夫らしく青臭い記憶を思い出してしまい、いよいよ死にたくなってきた。希死念慮というらしいが阿呆の私が使うと、謙虚さも誠実さも感じられない言葉である。ともかく、5年前だったか10年前だったかいわゆる高校生であった時分に、やはり今と同じく黄昏れていたのを思い出してしまい鳥肌が立った。西日に古傷が擁するなぞと格好をつけたせいである。馬鹿野郎。

 まぁ、思い出したものは思い出したものであるのでやむを得ない。多感な時期には皆少なからず、勢いのある爽やかさというか、嫌な脂臭さというか、漂わせているものなのだが、私も負けず劣らずという具合に不愉快な奴だったのである。思春期であることにかこつけてまともに出席もせず、それで保健室の椅子やら自転車置場やらに腰掛けて物思いに耽っていたのである。そのくせ出席日数やらは勘定していたのだから、不潔である。ろくでなしの屑である。

 しかし、何とも不思議なものだ。あの時分は自身の身柄の保証すらなかったのだが、不自由の中に自由の意思があった。世間知らずというのかもしれないが。今はどうだろう。実が伴っているかはともかく、一応大人という名目で自身の身柄は自身の手の中に存在する筈である。しかし、自身の命すら絶つことも出来ず、自由の中の不自由のみやたらと気になり、こうして窓から狭い世間を眺めては嘆息するのが限度というところだ。

 全くもって利にならずとりとめもないことを考え続けている内に、西日も感傷も消え失せて底冷えのする暗い虚無が頬を撫でていた。

 私は腑に落ちなさを抱きつつも論を打ち切り、カーテンを閉じていた。


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