オッカムの剃刀
三坂鳴
真実は単純
森の奥深くにある灰色の洋館は、夜になると薄闇の中に沈み込むように静まり返っている。
細い山道を抜けて車を降りた浅井レンは、静謐とは違う妙な圧迫感を肌に感じながら、重々しい門を押し開けた。
玄関には古びたランプがぼんやりと揺らめくような光を落としている。
「やあ、探偵の先生ですか。こんな僻地まで来ていただいて、すみませんね」
迎えに出たのは、この館の主である黒川直登だ。
黒川は五十代の痩身の男で、色の薄い唇が不安げに震えているように見える。
「実は、先週から家で飾っていた銀のペンダントが見当たらないんです。大した価値はないと思うんですが、家にまつわる特別な品でしてね。最初は誰かがうっかり動かしたのかと思ったら、皆がやたら不可解なことを言い出しまして、ますますわけが分からなくなってしまったんですよ」
そう言って黒川は、浅井を館の奥へと案内した。
応接間に入ると、三人の人物がすでに待っていた。
一人は白髪混じりの小柄な婦人で、黒川の遠縁にあたる田所雅子。
もう一人はこの館の執事長を長年務める吉永。
そしてやや鋭い目つきをした若い男は、地元の雑誌記者だという松尾だ。
黒川は彼らを浅井に紹介すると、居心地悪そうに咳ばらいをした。
「皆さん、こちらが探偵の浅井レンさん。警部の知り合いということで力を借りようと思ったんだ」
浅井は軽く会釈をし、テーブルに置かれた古い写真に目をやる。
そこには、小ぶりの銀色のペンダントが写っていた。
時代を感じさせる細工が施されていて、鎖も繊細な模様が刻まれているようだ。
「あのペンダントですか。行方不明になったのは」
浅井がそう尋ねると、黒川はうなずいた。
「ええ。先祖が海外で手に入れたらしく、よく分からない文様が刻んであるんです。わたしの祖母が生きていた頃から飾られていて、あれほど移動させたことはありません。なのに先週末、急に消えてしまって」
吉永が少しかしこまった調子で口を挟む。
「館にはある程度、防犯装置を設置しておりまして、外部から侵入された形跡はありません。人の出入りも把握しているはずなんですが……。ところが、松尾さんをはじめ皆それぞれにやたら奇妙な推測を口にされるので、話が混乱しているんですよ」
浅井はちらりと三人に目をやる。
すると、すかさず田所雅子が唇をひき結んだ。
「わたしは最初、単に片付けの時にでも紛れたんだろうと思っていたのよ。けれどこの家には昔から奇妙な噂があるでしょ。たとえば裏山に隠された地下室とか、先祖が黒魔術をしていたとか。そういう話を聞くたびに、あのペンダントが呪われているんじゃないかって気がしてきたのよ」
松尾が途端に身を乗り出し、声を抑えた調子で言う。
「ええ、実際に地元の歴史を調べてみたら、黒川家の先祖の一人は外国から“邪教の秘宝”を持ち帰ったなんて伝承があるんですよ。その秘宝っていうのが、ひょっとしてこのペンダントなんじゃないか。となると、呪いが解き放たれて人が消える事件でも起きるんじゃないかって、いま地元の噂好きがざわついてるんです」
すると吉永は慌てて首を振った。
「いやいや、それはあくまで怪談めいた与太話でしょう。ですが、わたしが気になるのは、最近やたらこの辺をうろつく不審な車があるとかで……。まさか侵入者がペンダントを狙ったんじゃないかと思ったら、盗まれた形跡もないし、そもそも窓や扉はきちんと施錠されてる。謎が深まるばかりです」
黒川は気まずそうにうつむき、ひとつ息をつく。
「恥ずかしい話だが、うちの遠い親族の中には、金に困っている人物もいるかもしれない。妙なルートであのペンダントを売り飛ばそうとしたとか……いや、はっきりしたことは何も言えないんだが。そんな可能性だってあるんじゃないかと思うと、わたしとしても疑心暗鬼でね」
皆がそれぞれ、あることないことを語り合ううちに、応接間は混沌とした空気に包まれ始める。
呪い、地下室、外国からの邪教、謎の不審車、親族の裏切り……。
「これじゃあ、わたしもわけがわからなくなるわ」
そう嘆きながら田所がため息をつくと、松尾はさらに声をひそめて笑う。
「ひょっとしたら、ここの庭には埋蔵金があって、ペンダントを鍵にしないと出てこない仕掛けなんてのもあり得るかも。それを狙った闇の組織が暗躍しているとか。いやあ、事件は大きいほどおもしろい」
浅井は唇をひそめながら、そのやり取りを黙って聞いていたが、やがて静かに声を落とす。
「皆さん、推測はともかく、まだ確固たる証拠がない以上、何が本当か決めつけるのは危険です。まずは館内をくまなく調べてみましょう」
夜も更け、浅井は黒川に勧められるまま客室に泊まることになった。
荷物を置いてから、館内を一通り歩き回る。
ひどく長い廊下を抜けると、踊り場に吉永が立ちすくんでいた。
「吉永さん、まだ起きておられるんですか」
浅井が声をかけると、吉永は視線を落としたままつぶやく。
「実は皆さんには言っていないのですが、先日、夜中に廊下を行き来する足音を聞いたんです。しかも何か呻き声のようなものまで聞こえた気がして……。わたしは怖くなって部屋に戻ってしまったんですが、あれがペンダントの件と関係しているのかと思うと、落ち着かなくて」
呻き声という新たな要素まで飛び出し、浅井は表情を引き締めた。
「場所はここから二階へ続くあたりでしょうか」
「ええ、深夜二時頃でしたね。館は鍵が閉まっているはずなのに、誰が歩いていたのか。もし外部から怪しい人物が忍び込んでいたらと思うと、ゾッとしてしまって……」
吉永はそれきり黙って踊り場の闇を見つめる。
浅井は礼を言って部屋へ戻ったが、頭の中では呪い話や不審車、謎の組織など次々と浮かんでくる余計な情報が渦を巻いている。
浅井の頭に「オッカムの剃刀」という単語がよぎった。
「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」という指針。
やはり余計な仮定を排除するほうが近道かもしれない。
あまりに多くの噂に惑わされては、真実を見失うだろう。
翌朝、浅井は応接間に皆を集め、改めて話を聞く。
ところが黒川は「すみません、実はもっと妙な話を耳にしまして。昔、この館で人が行方不明になっただの、血塗られた儀式があっただの……」とおどおどし、田所は「やっぱりペンダントが呪いの核なのよ。箱を開けた途端に災いが始まるって聞いたことあるもの」と怯える。
松尾は楽しげに「そうか、これはまさか宇宙人が絡んでいる可能性も? 黒川家の先祖が秘宝を持ち帰ったって言うから、ひょっとしてその秘宝は地球外の鉱物だったりして。するとペンダントが突如として空に消えたなんて奇談だってあるかもしれませんね」と、さらに騒ぎ立てる。
吉永は吉永で「ここの地下には隠し部屋があり、そこへ通じる扉があって……ああ、申し訳ありません。わたしもどこまでが本当か分からないんですが」と、落ち着かないまま頭を下げる。
皆の話はますます混乱を深めていきそうだったが、浅井は静かにテーブルを叩いて注意を引いた。
「失礼ですが、ひとまずそれらの噂は置いておきましょう。実際に、ペンダントが飾られていたガラスケースや周囲を詳しく見せていただけますか」
そう言ってガラスケースをチェックすると、確かに鍵穴は無事で、外から破られた跡もない。
ところが浅井は裏面を覗いた際、埃のつき方がやや不自然な部分に気づいた。
カーペットが微妙にずれているようだ。
さらに館の床下や奥の物置部屋を回るうちに、古い建物特有の歪みや隙間があちこちにあることが分かった。
特に物置部屋の片隅には、重そうな段ボール箱が積まれているが、その隙間だけ埃が少なくなっていた。
浅井が手を差し込むと、小さな銀のペンダントが床に落ちているのを見つける。
鎖がくるりと巻きついていて、まさに写真の品と同じ装飾が輝いていた。
思わず息を呑むが、すぐに浅井はその場で周囲を調べる。
床には細かな亀裂があり、その向こうに小さな空洞が続いている。
もしガラスケースの裏板か何かに隙間があり、ペンダントが滑り落ちたなら、床の傾斜を伝ってこの物置まで転がり込む可能性がある。
呪いや不審車や地下室や宇宙人……すべての大仰な仮定よりも、はるかに現実的だ。
浅井はペンダントを持って応接間に戻った。
黒川や田所、吉永、松尾を集め、静かに見せながら口を開く。
「皆さん、ペンダントは物置部屋の箱の隙間に落ちていました。ガラスケースの裏面の留め具がゆるみかけていて、そこから自然に落ちたんでしょう。床にも微妙な傾斜があり、そのまま転がって床下を抜け、物置のあの位置へ流れ着いたわけです」
そう言うと、一同は思わず息を飲み合った。
黒川は拍子抜けしたように笑い、田所は顔を赤らめる。
松尾は「はは、じゃあ呪いも闇の組織も関係なかったのかあ」と苦笑し、吉永はほっと胸をなで下ろしていた。
「深夜の足音や呻き声も、きっと誰かが暗闇で落ちたペンダントを探していて、それで動揺していたんじゃないか。あるいは物が落ちる音を足音と勘違いしたか」
浅井がそう推測を口にすると、黒川は慌てて頭を下げる。
「いやあ、お恥ずかしい。みんなであんなに大騒ぎしたのに、蓋を開けてみれば単純な理由だったんですね」
浅井はそれに微笑みを返しながら、ペンダントをガラスケースに戻していく。
「“オッカムの剃刀”という考え方があります。余計な仮定をむやみに積み上げず、最もシンプルな説明を優先すべきだということですね。今回のように、いろいろな噂や先入観が絡むと、かえって真実が見えなくなることがあります」
そう言ってケースの留め具をしっかり締め直し、館の人々へ向き直った。
その後、黒川は吉永とともに、防犯装置や館の床下、物置部屋などを点検し、問題のありそうな箇所を修繕した。
夜中に響いた足音や呻き声も、誰かが暗がりで慌てた結果か、あるいは家具のきしむ音が重なっただけかもしれない。
何はともあれ、ペンダント紛失という大騒動はあっさりと収束した。
館を出るころには、朝の光が木々の間から射し込んでいた。
浅井は車に乗り込む前に、振り返って灰色の洋館を見上げる。
昨晩は重苦しく感じたその外観が、今はどこか穏やかに見えた。
あれだけの騒ぎを巻き起こした原因が、ただの留め具の緩みと床下の傾斜だったとは。
浅井はそう思いながら、エンジンをかける。
あることないこと囁かれた無数の噂に惑わされず、シンプルな真実を見出すのは、やはり「オッカムの剃刀」の教えがあればこそかもしれない。
オッカムの剃刀 三坂鳴 @strapyoung
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