あたしたち、ご自愛ください
あまくに みか
あたしたち、ご自愛ください
ずしんと重たくなったのは、たぶんそこに心があるからだと、あおいは思った。
「それでね、急に富士山、見に行きたくなって」
泣いているのか、笑っているのか、どっちつかずの顔で
「明日にでも行こうかな、なんて思っていたんだけれど。やっぱり、あおいだけには報告しておかないとって思ってさ」
「は、早まるな!」
あおいは腰を浮かせて、目の前に座る穂乃果の手首を捕まえた。
「樹海に行くつもりだろ」
「え?」
「そんな男のために、死ぬな!」
たぶん心がある場所から、せり上げてくる何かがあった。重くて、すっぱくて、苦くて、外気に触れると怒りに変わる何か。
「富士山、見たいだけだよ?」
「富士山と樹海はセットだろ?」
「そんな、ハッピーセットみたいな言い方しないでよ」
穂乃果が笑う。その目じりから少しだけ涙が流れた。
「確かに。結婚して六年。それが全部消えた時はさ、体がつぶれちゃうんじゃないかってくらい、しんどかった。でも、私は死なないよ。そんな勇気もないよ。今更」
親友が、離婚した。
幸せそうな二人の結婚式。このまま、シワシワのおじいさん、おばあさんになるまで、仲良く過ごしていくのだろうと思って疑わなかった。
「私たち、もう三十五だよ。まわりはさ、もう一人、二人こどもがいるの当たり前じゃん? 京介だって、こども欲しいって思うの当たり前だよね。だからさ、この離婚はお互いのため、なわけ」
あおいは掴んでいた穂乃果の手を、そっと離した。
「それ、三十五歳で独身のあたしに言う?」
先ほどまで暗い顔をしていた穂乃果が、弾けるように顔をあげ、それからぷるぷると頬を赤く染めはじめた。
あおいはこらえきれずに、噴き出してしまう。
「うそうそ、冗談だよ。あたしは、好きで独りやってんの。むしろ独身であることを誇りに思ってるくらい。独身貴族だし」
「……ごめん」
「いや、謝られると傷ついちゃうなあ」
おどけた調子で言って、あおいは肩の力をふっと抜いた。
「それで、富士山だっけ。行くの?」
「うん。一応……」
「山梨? それとも静岡?」
「えっと……うーん」
「やっぱり樹海だ」
「ちがうし!」
穂乃果がマグカップを口元にあてる。その時はじめて、中身がすでに空だったことに気が付いたようだった。
「うちくる?」
あおいは言った。
「本当は、予定ないんでしょ?」
穂乃果がうなずく。
高校生からの長い付き合いだ。穂乃果が落ち込んでいる時の行動を、あおいはだいたい理解していた。
「じゃあ、行こ。泊まっていきなよ」
「引っ越したの、知らなかった」
「そうだっけ?」
マンションのエレベーターに乗りこんだ時、穂乃果が一度だけ鼻をすすった。
あおいは穂乃果の横顔を盗み見る。大きな瞳で、エレベーターが昇っていく様子をこどもみたいに穂乃果は見守っていた。
穂乃果が結婚してから、なんとなく連絡を取らなくなっていたような気がする。責任が増えて、仕事が忙しくなってくる年齢だったからかもしれないし、穂乃果といる環境が異なったことに、あおいは距離を感じていたのかもしれない。
「最近だよ。引っ越したの。窓がたくさんあって、空が見える家に住みたかったの」
最上階である六階についた。エレベーターのドアが開くと、傾きかけた空の色と気がはやい星が光っているのが見えた。
「一名入りまーす。ハイ、いらっしゃいませー」
そう言いながらあおいが玄関ドアを開けると、背後で穂乃果が笑った気配がした。
「ちょっと、窓開けっぱなし?」
風鈴の音と風が吹いている音が部屋のすみから聞こえてくる。
「六階だから、いいじゃん」
「そういうところ、あおいは昔と変わらないよね」
穂乃果が引き寄せられるように、窓際へ歩いていく。
「確かに、この景色は……」
穂乃果が黙った。
太陽が沈んでいく空。黄金色の時。
すみれ色の雲は一時停止し、その縁を金色に染めている。沈んでいく太陽と一緒に、世界が吸い込まれていくような光景。
「私……」
風が窓から流れこんできて、風鈴の落ち着いた音色が頭上で響いた。
あおいは、穂乃果の肩をやさしくたたいた。
「窓際にカウンターテーブル置いたんだ。ここから外を眺めながら晩酌するの最高だよ」
座って、と穂乃果に椅子をすすめる。あおいは椅子をもう一脚持って来て、隣に置く。
「励ましの言葉とか慰めの言葉とか、かけてあげなきゃって、思ってたんだ。でも、ごめん。あたし馬鹿だからさ、どんだけ考えても、あてはまる言葉が見つからない」
からんからん、風鈴がなる。空っぽの音。
「でも、あたしが唯一出来ることがある」
太陽が沈んでいく。部屋の中がうすむらさき色に染まって、照明の灯りが星のように輝きはじめた。
「おいしいミルクティーを作ること」
「そうなの?」
穂乃果が声をあげた。
「知らなかったでしょ」
「知らないよ。紅茶好きなのは知ってたけど」
あおいはキッチンへ向かう。
「料理はからっきしダメだけれど、ミルクティーだけは何故かうまく作れる」
あおいはミルクパンに水を入れる。
バチッと弾ける音と共にコンロに火がついた。
ロイヤルブルーやオレンジ色の紅茶缶が並ぶ棚から、あおいは洗練された白色の缶を手にとった。
「こちらはお気に入りのアッサム」
ちりちりと大きな泡がお湯から出てきたところで、あおいは茶葉を加えた。
黒い葉っぱがお湯の上にのった途端、飴色に色づいていく。
ぱたぱたぱた。
たかたかたか。
茶葉が開いていく音は、雨音に似ている。
「なんだか、落ち着くね」
穂乃果が言った。
あおいは、ただほほ笑んだだけで何も言わなかった。
蜂蜜を加えて、最後に牛乳を入れる。
ミルクが外側から内側にゆっくりと混ざり合っていく。水彩絵の具を垂らしたように、じんわりと染まっていく。
煮立つ直前で火を止め、茶こしを使って陶器のポットに流しこんだ。
「お客さん、席に座ってくださいね」
あおいが言うと、穂乃果はくすりと笑って窓際の席に戻っていった。
「どうぞ」
穂乃果の目の前で、ミルクティーを注ぐ。
「和食器にいれるの、おしゃれだね」
藍色のお椀にミルクティーの色がよく映えた。
「いい香り。なんでだろ、懐かしい匂い。実家に帰りたくなるような、そんな匂い」
両手でお椀を包みんで、しばらく香りを楽しんでいた穂乃果はやがて、そっとミルクティーを口にふくんだ。
「おいしい」
「でしょ」
「お店やれるよ」
「ミルクティーしかだせないけどね」
「あおいにこんな特技があるとはねぇ」
「買えば一瞬で終わるものをさ、バカみたいに時間かけて作るっていうのも、案外悪くないって気がついて。そんな時間が、大切なのかもね、うちらにはさ」
あおいは穂乃果の隣に座って、窓の外を眺めた。夏の終わりの風が吹いている。
さびしくって、せつなくて、何かが起きないかって期待してしまう、夜の風。
「手紙、書く?」
「え? なに、突然」
あおいは立ち上がって、黒い箱を取り出した。
「ブラックボックス?」
「ううん。ブラックホール」
穂乃果が呆れた視線をあおいに送る。
「何言ってんの?」
「まあまあ、聞いてよ」
あおいは黒い箱を両手でゆすってみせた。カサカサと箱の中で紙が動いている音がした。
黒い箱のてっぺんには、紙が一枚入るくらいの隙間がある。あおいは、その隙間を指差して言った。
「ここに手紙を入れるの。届かない手紙をね」
「どういうこと?」
「愚痴とかもやもやする時あるじゃない? そういう時、あたしは、ここに座って風にあたりながら、手紙を書くの。特定の人宛に書くこともあるし、宛先のない手紙の時もある。それを、ここに投函するの。誰にも届かない、誰も読まない手紙をね」
「だから、ブラックホール」
「正解」
あおいは便箋を一枚、ボールペンと一緒に穂乃果の前に置いた。
「あたしも書こうかな」
「あおいは誰に書くの?」
「秘密」
あおいはスラスラとボールペンを走らせる。
穂乃果のペン先は止まったままだ。
「何も書けないや。書くことがない」
穂乃果がため息をついた。自分自身を嘲笑するような感じで。
「書くことがないってことも、記録じゃない?」
あおいは黒い箱──ブラックホールを差し出す。迷っているような穂乃果だったが、丁寧に手紙を下り畳むと、ブラックホールに手紙を投函した。
するり、と手紙が落ちていく。
「不思議。離婚してから、心の中がぐちゃぐちゃで、ずっと自分を責め続けていたのに、今は心の中に何も言葉がない」
「なんで、責め続けてたの?」
「私たちね、こどもが出来なくて離婚したの。不妊治療をしていたわけじゃなくて、私が、こども欲しくなかったの」
穂乃果はうつむく。
「こどもが嫌いってわけじゃないよ。いつかはこども欲しい、かも。でも、産みたくない。なんでだろ。わからないけれど。ずっと産みたくなかった」
人差し指をこの字に曲げて、穂乃果はしきりに上唇をなでている。泣きたい時の、穂乃果の仕草だった。
「こんな風に思う私って、おかしいよね。どこか、女として欠けてるのかな。人として、何か、大事なものを、落としてきたのかな」
「じゃあ、あたしはたくさん落としまくってきた人間だ。そもそも、人間じゃないのかな? だって、結婚したくないもん。独身の女って、肩身せまいよ~。老後どうやって生きていくの? とか、こども産むには適齢期が、とかリアルで炎上中」
でもさ、とあおいは窓の外を眺める。
「あたしの人生だ。誰が何と言ってこようと、うるせえで蹴散らそうと思うようになったよ」
「あおいは強いね。私もそういう風に生きたいな」
「じゃあ、一緒に住もっか?」
「いいね」
「シェア本棚とか作ったりしてさ」
「いいね、いいね」
「猫も飼おう」
「それ、最高」
ひとしきり笑い合って、穂乃果がすっと真面目な表情に戻った。
「もう暗くて見えなくなっちゃったけどさ、さっきここから富士山見えたよね」
「朝だともっとはっきり見えるよ、富士山」
「もし、もしもだよ。富士山が噴火してさ、跡形もなくなくなっちゃったら。日本人のほとんどが、ショックで呆然としちゃうよね。ずっとそこにあった、価値観みたいな存在がいなくなっちゃうんだもん。ぽっかり、体に穴を開けたまま生きていくの」
あおいはミルクティーに視線を落として、それから、もうすっかり夜になった窓の外を見つめた。
暗くて何も見えないけれど、そこにいるという安心感。穂乃果は確認したかったのかもしれない。確認して、自分はまだ大丈夫だと、安心したかったのかもしれない。
「わかるよ」
つぶやいて、あおいは書いていた手紙を折り畳みはじめた。
「手紙、何書いたの?」
「ん?」
手紙がブラックホールに吸い込まれていく。
「あたしたち、ご自愛くださいって」
「ご自愛かぁ」
「穂乃果は自分が好き?」
「わかんない。でも、今の自分は……かわいそう、かな」
「あたしは嫌い」
ブラックホール。全部飲み込んで、黒く深いところまで連れていって欲しい。
救いのない世界から、この戯言を掬い上げて抱きしめて。
「嫌いって気づいたら、あたし生きるのが楽になった」
ビルの航空障害灯が赤く光っている。夜の中に不気味に立つ怪物みたい。
以前のあおいなら、怪物にこの世界をめちゃくちゃに破壊することを願っただろう。
けれど、今はもうどうでもいい。
「結局のところさ、気がついちゃったの」
あおいは手紙を落とした黒い箱、ブラックホールを揺らす。ブラックホールの中にいる言葉たちが、あわあわと声を上げた。
「どんなに国民が声をあげたって、政治家は生活を楽にしてくれないでしょ? ハッシュタグをつけて、女たちが何かを訴えたところで、人の心は変わらないでしょ? それでも、あたしたちは期待しちゃう。世界を変えるほど、大きな力は持っていないくせにね」
でも、とあおいは立ち上がる。
「変えられるのは、結局のとこ、自分の世界だけ。自分の世界だけなんだよ」
「自分の世界だけか……しんどいね」
「うん。しんどい。ガチでだるい」
言いながら、あおいは空になったお椀を回収する。
「ねぇ、ミルクティー作ってみる?」
「お鍋で?」
「そう」
穂乃果の手をとって、あおいはキッチンへ誘う。
「さっきは王道アッサムだったから、今度はこれ」
あおいは紅色の茶筒を取り出した。
「鉄観音茶」
「それって、烏龍茶の?」
「大雑把にいうと、まあそんな感じ」
「初めて飲むかも」
バチっと音がする。コンロに火がついて、お湯が沸く音が聞こえてくる。
じじじ、という低い音が夜の部屋に広がっていく。
「宇宙ってさ、こんな音がするのかな」
穂乃果が言った。
「案外、そうかもね」
じじじじ。
ぷつぷつ。
ぽこぽこ。
お湯が沸いて、泡がのぼってくる。
命がうまれて、きえていくみたい。
鉄観音茶を加える。紅茶とちがって、丸みのある茶葉。
ゆっくりお湯の中でほどけて、ふくらみ、広がっていく。
「そっか。自由なんだ、私」
「ん?」
「さっき、自分の世界しか変えられないってあおい言ってたでしょ」
「うん」
「悲観的に聞こえたけど、そうじゃないんだって」
お鍋の中は、鉄観音茶の茶葉でいっぱいになっている。
「結婚しなきゃ、とか。こどもうまなきゃ、とか。幸せにならなきゃ、とか。誰かが作り上げた、わかりやすい幸せの世界。そこから弾かれて、ようやく何もないところにきたのかも」
あおいは、牛乳を穂乃果に渡す。
「好きなだけ入れな」
穂乃果がうなずく。
紅茶よりも薄い赤茶色。そこにミルクが入って、白くなっていく。
あたたかいクリーム色になったところで、穂乃果は手を止めた。
「できた」
二人は再び窓辺に座る。
夜空には薄青の雲がいくつか浮いていて、小さな点にしか見えない星が一つあった。
「都会だと星全然見えないね」
「そんなことないよ。ずーっと眺めていると、見えてくる」
「ほんと?」
穂乃果が夜を見つめる。
一つの星。
雲が流れて、もう一つの星を見つける。
銀色の粒みたいな星。
その先に、もう一つ。
もう一つ。もう一つ。
二人の目の前に、無数の星が飛びこんできた。
「見えた!」
「ね、あるでしょ」
「あった。……あったよ」
穂乃果は両手で顔を覆う。あおいは穂乃果の背中にそっと手をあてた。
「うん。大丈夫だよ」
星も。月も。雲も。
富士山も。
あおいも、穂乃果も。
「いていいんだよ、ここに」
世界はすばやくまわっている。
大人になれば、尚更。
止まることを許さない、あたしたち。
自分に厳しく。他人に厳しく。
枠の中に収まろうと、必死な毎日。
そんな枠くだらないよね、と言い合いながらも自らの足では出ていこうとしない。
ブラックホールに言葉を吐き出す毎日。
誰にも見せない。
誰にも届かない、言葉たち。
自分が嫌い。
自分を愛するって、なんだかナルシストっぽい。
けれど、嫌いだって気がつけた瞬間から、きっとあたしたち変わっていける。
だって、初めて自分に。
ようやく、目の前の自分に向き合えたのだから。
穂乃果の泣き声が、風と共に部屋の中をぐるぐるとまわっている。
あおいは、穂乃果の肩を抱き寄せる。
顔は正面を向いたまま。窓の外に向いたまま。
向かい風の中で、目を開けて。
だから、あたしたち、
ご自愛ください。
あたしたち、ご自愛ください あまくに みか @amamika
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