心が折れる仕事でも

羽間慧

心が折れる仕事でも

 命令せずとも、一回の指示で動いてほしかった。来月末には卒業する高校三年生ならば。


「それでは時間になりましたので、机の上は筆記用具だけの状態にしてください」


 テストにふさわしい環境を整えさせ、出席番号順に並べ替えさせる。だが、俺の指示は拘束力が弱いようで、誰も動こうとしない。


「聞こえていますか? 速やかに席移動をお願いします」

「聞こえとんじゃい! わざわざ移動しなくてもいいだろうが。面倒臭いのぉー! 古文なんて何の役に立たんのに。昔の人呼んで来いや」


 耐えろ。このやりとりは何回もしてきた。

 二十代の優しい先生は何でも許してくれそうだと、勝手なイメージを持っているだけだ。勢いに負けて折れるなよ。


「指定された席で受けない場合はゼロ点扱いとして単位を認めません」


 語気を強くし、速やかな移動を命令する。「横暴だ」「校長に言ってもいいのか」という声が上がったが、ひるまない。隣同士がくっついた席、書き込みがあるか分からない席で、公平な試験はできない。それに、生徒達には内緒だが、この学校の契約は三月末まで。校長の名を出されても怖くなかった。


 優しくはあっても、甘くはできない。毅然とした態度を取り続けたが、心の中は今すぐ逃げ出したい思いでいっぱいだった。二階の窓枠を飛び越えたい。


 定期試験があったときは、そういう状況は生まれなかった。出席番号順の座席が当たり前、自分の席につかせていればよかった。単元ごとに各教科がテストを実施するようになってから、基盤が崩れた。

 テスト実施日を把握できない生徒達。度重なる告知に耳を傾けず、テスト直前になってから「見てない」「聞いてないよ」と連呼する生徒達もいる。筆記用具さえも持ってきていない生徒も少なくない。


 共通テストはセンター試験よりも複雑化しているが、俺が受け持っている生徒は中学校の基礎も怪しい。優秀な生徒も在籍しているものの、中学校の先生から手をかけてもらえなかった生徒が多かった。もしかしたら家庭でも放任されているのかもしれない。

 新卒で今の職場に入ったときは「こんなに世話を焼く大人がいるのは高校までだ」「自立した人にならないと社会に出たときに恥ずかしい」と真っ向から怠惰を非難した。

 三年目の俺にそんな強さは残らなかった。心を無にして、理不尽な言葉を受け流す日々。今だって聞こえないふりをしなければ「テストするとかキモイ」という声に涙腺が緩んでしまう。

 塾のバイトで教えていた子どもは、お利口さんだった。先生に噛みつくなんて、天地がひっくり返ってもありえなかった。


 四月からの学校は、暴言を吐かれませんように。楽しく授業ができますように。

 気持ちを落ち着けて、テストを配った。


 泣いても笑っても、これが高校最後のテストだ。記号問題を多くしているから、何かしら書いてくれよ。

 俺だって卒業させてやりたいんだ。

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