でいぶれいく

香久山 ゆみ

でいぶれいく

 三人で時計台の前に立つ。

 ずいぶん高い建物だ。文字盤の上の三角屋根から見下ろせば、遊園地一帯を展望することができるだろう。

 しかし、先に聞いていた通り、時計台の周りをぐるりと一周回るが、入口は見当たらない。長く勤める職員でさえ扉などないという。

「探偵さん、こっちです」

 遊園地の若社長が我々を促す。ついて行くも、蔦の絡まった壁が眼前に迫るばかり。

 社長が懐から何やら取り出す。

「わ」

 職員が少年みたいな驚きの声を漏らす。

 無理もない、大きな羽根が社長の胸から出てきた。俺にもそう見えた。

「鍵ですよ」

 社長が苦笑する。羽と見えた部分はシルバーの持ち手で、よく見ればその根元が鍵状になっている。

 社長がしゃがんで周囲の蔦を手でけていく。遊園地のイルミネーションが輝くとはいえ、真冬の丑三つ時だ。暗い手元を、俺と職員のスマホライトで照らす。それでも俺の目には扉など見えないが、社長は「あった」と呟くと、暗闇に鍵を挿し込んでぐっと捻った。

 カチリ。

 どこかで音がした。

「開きましたね」

 社長のあとについて、また時計台の反対側へ回る。時計台の下部はレンガ造りになっているため、よく見ないと分からないが、薄らと大人が一人通れそうな正方形の亀裂が入っている。レンガの凹凸に指を掛けて、社長がぐっと壁を引くと、ギギギーと時計台の扉は開いた。

 俺と職員は、ぽっかり開いた時計台の入口をぽかんと見つめる。

「こりゃあ誰も気付かないわけだ」

 扉の四辺は直線ではなくレンガの凹凸に合わせて切られているし、さらに隙間にはしっかり砂埃が溜まっていて、ここに扉があると知ってもなお閉ざされれば再び見つける自信はない。

「ずいぶん埃が溜まっていますが、ここに入るのは久しいんですか?」

 社長に尋ねる。

「……いえ……。初めてです、私が社長になってからここに入るのは」

 一人でここへ来るのは怖かったんです。社長はぽつりと呟いた。

「この鍵は、特に隠されることもなく叔父――先代社長の遺したものの中に紛れていました。ただ、誰もこれが何の鍵だか分からなかった。親族の中で唯一ここに連れられてきたことがある私以外は」

 入口を一歩入るともう真っ暗闇だ。

 電気が通っていたはずだということで、壁を手探りしてスイッチを見付けたが、残念ながら電気は灯らなかった。それも致し方ない、先代社長が失踪してから二十年間誰もここへ来た者はないのだから。

 スマホのライトを頼りに、時計台内部の螺旋階段を上っていく。虫や蝙蝠なんかも出そうな雰囲気なので、むしろはっきり見えなくてよかったかもしれない。

 然程大きな建物ではないが、時計台の内部は何層かに分かれているようで、階段の途中にドアがある。

「げっ」

 下層階のドアを開け、真っ暗闇の中部屋に入ろうとすると、異臭が鼻を突いた。トイレだ。残念ながら、最後に使用した後、清掃されないまま放置されていたようで、目の毒だ。さっさとドアを閉め切ったが、まだ塔内には異臭が漂う。

 鼻をひしゃげながら先へ進む。

 次に見つけたドアを開ける。ライトで照らすと、それなりの広さの空間が現れる。埃っぽいものの、異臭などはないので、三人で部屋の中に進み入り室内をぐるりと照らし出す。

「……懐かしいな……」

 そう言葉を漏らしたのは、職員の小戸毛おどけだった。社長は小戸毛を振り返り、小さく息を呑んだ。

 部屋の中には、積み木や鉄道模型、絵本など、子どものおもちゃが散らばっている。

「探偵さんは気付いていたでしょう? 僕が二十年前にこの遊園地で誘拐された子どもだって」

 コンクリート壁のせいだろうか、静かな声が室内に反響する。

 二十年以上前にこの遊園地で起きた連続誘拐事件。十人の子ども達が立て続けにピエロに連れ去られたが、いずれも数日後には無事に帰ってきた。結局犯人は見つからず、未解決のまま時効となった。

 小戸毛は、その被害者の一人だという。

 俺は頷いた。この遊園地を訪れてから、何度となく迷子になった幼い彼がピエロに手を引かれて行く幻影を視た。しかし、俺には視えるだけで、どうすることもできなかった。

 隣で社長は一言も発することなく、じっと小戸毛の顔を見つめている。

「まだ幼稚園に上がる前のことだったから、ずっと忘れていたんです。この遊園地のことも、ピエロのことも。けれど、高校を卒業してたまたまここに就職して、思い出したんです」

 両親と遊園地に来ました。普段どこかに連れて行ってくれるような余裕のある家庭じゃなかったから、それは大はしゃぎでした。

 全部の乗り物にのるんだってはりきってました。はは、身長制限で乗れないものも多かったけど。一日歩き回って、最後に鏡の迷宮ミラーラビリンスに入りました。小さいから、完全に迷子になっちゃって。同じ所をぐるぐる回って、全然出口に辿り着かなくて泣きべそをかいていたところ、よそのお兄さんに手を引いてもらってようやく脱出しました。

 迷路を抜けた時には、外はもう黄昏に染まっていました。

 出口で待っているはずの両親はいませんでした。黄昏って、「かれ」が語源なんですよね。薄暗くて人の顔もよく判別できない。僕は必死になって両親を探し回りました。けれど、どの人も違う。その内どんどん両親の顔ってどんなんだっけって。不安と恐怖で目眩がしました。

 そんな時に、ピエロが声を掛けてくれたんです。

 迷子かい、って。ピエロと手を繋いで園内一周したけれど、両親は見つかりませんでした。ピエロは僕よりもずっと悲しそうな顔をしました。僕は、へいきでした。ああ、捨てられたんだって思いました。

 うち貧乏で、なのに両親はいつもどこかへ出掛けてお酒の匂いをさせて帰ってきました。幼い僕を一人で留守番させて、数日帰ってこないこともありました。けど家にいるとあれこれ命令されたり、かと思えば邪険にされたりするから、どっちがましだったのか分かりません。そんな環境にも関わらず、なにを遊園地だと浮かれていたのか。その時わずかに残っていた親を慕う気持ちがすとんと消えました。

 代わりに、僕はピエロの手を握って離しませんでした。真っ白な顔に、赤い鼻。こんな特徴的な顔なら何があったって見失うことはないと思いました。

 そんな僕を、ピエロは時計台に連れてきてくれました。

 ――ええ、ピエロは先代社長だったと思います。顔は自信ないですが、あの特徴的な声は間違いないでしょう。もちろん当時はそんなこと気付きもしませんでしたが。

 ピエロは、こんな風に何人もの子どもを保護しているようでした。

 遊園地に捨てられる子どもって多いんでしょうか。それとも、この遊園地が引き寄せるのでしょうか。分かりませんが、ピエロは、不幸な家庭の子どもを保護して一時的にここに匿っているようでした。

 失ってはじめて、その大切さが分かるんだよ。

 ピエロは言いました。

 魔が差して子どもを遊園地に置き去りにしていく親がいるけれど、数日行方不明のあと再会すると、みんな涙を流して我が子を抱きしめるんだよ。

 そう話すピエロはまるで夢見ているみたいにうっとりした表情を浮かべていました。僕とは対照的に。

 数日で家に帰すと言っていたはずの時計台での生活は、一週間経ちました。

 僕はそれでも構いませんでした。窓もない部屋ですが、それでも家よりずいぶん居心地が良かったから。お腹いっぱいごはんが食べられるし、おもちゃはたくさんあるし、トイレ掃除しろって命令されることもない。

 けど、ピエロは少しイライラしているようでした。きっと想定と違ったんだと思います。

 親が反省や後悔したところで子どもを返す。そういう計画だったでしょうに、うちの親はそうじゃなかったんでしょう。捜索願いさえ出していないんじゃないかな。だから警察も僕のことは把握していないのではないかと思います。

「結局、十日程で時計台を出ることになったんですけど、幼くて自分の家も分からない僕は、保護されてそのまま施設で暮らすことになりました。施設ではままならないことも多かったですが、それでもうちよりずいぶんましでした。本当は進学したかったんですけど、十八で施設を出なきゃいけなくて、それでたまたまこの遊園地に就職して記憶が蘇ったんだから、不思議なものですね」

 螺旋階段をさらに上りながら、小戸毛の話を聞く。声は笑っているものの、その表情は闇に隠れて見えない。

 最上段まで上り詰める。

「ちょうど時計の文字盤の真裏に当たる部屋です」

 社長がそう言って、ドアノブを握る。

「……」

 ドアノブを握ったまま、動かない。

「どうしました?」

「いえ……」

 社長が一つ大きな息を吸ってから、ぐっとドアを開く。

 先程までの下層の部屋と違って、どこからか小さな明かりが一条射し込んでいる。

「文字盤の間が一箇所小さな窓になっているんです。ここから叔父は園内の様子を眺めていました」

 先代社長に連れられてここまで上がってきたことがあるという現社長が、細い月明かりに目を細めて言う。

 小さくも窓があるお陰か、異臭はしない。ここへ来るまでに慣れてしまったのかもしれない。けれど、部屋の暗がりから不穏な気配を感じずにはいられない。二人も同じだろう。

 気付かない振りをして月明かりへ向けていた視線を、諦めてそちらへ移す。

「……っ」

 なんとなく覚悟はしていた。

 しかし、実際にライトに照らされた骸骨ガイコツを見て、俺達は揃って息を呑んだ。

 月の光の届かない一隅に、ピエロの扮装をした骸骨が壁に凭れるようにして座っている。

「……叔父だと、思います……」

 社長が絞り出すように言った。

「叔父は寂しい人でした」

 社長が静かに語り出す。まるで故人を弔うように。

 叔父は、親族内では厄介者扱いされていて誰とも馴染みませんでした。何せ、曽祖父より受継いだ財産を遊園地のために大方使ってしまいましたから。

 でも、私はまだ子どもでしたから、「遊園地の叔父さん」といって無邪気に懐いていました。叔父も満更ではなさそうでした。

 度々私を遊園地に連れてきては、自由に乗り物にのせてくれました。

 園内のあれこれを仕切って、お客さんを案内したり、迷子を保護したりする姿に、「ヒーローみたいだね」と言った時、鼻の頭を掻いて照れくさそうに笑った叔父の表情は今も覚えています。叔父は、不器用だけれど、いい人でした。

 けれど、いつの頃からかおかしくなっていきました。

 やはり孤独だったのでしょうか。独身で親しくする人もいない叔父は、ここから遊園地に来る親子連れを眺めて、その心は癒されたのでしょうか、それとも。

 ある日、叔父から遊園地に誘われました。小学校高学年になってからはこちらから叔父に懐いていくこともないですし、叔父の方からも以前ほど気安く誘われることもなかったので、久し振りのことでした。とはいえ、もらったタダ券で友人達とはつい十日程前にも遊びに来たりはしていたのですが。

 なんとなく叔父に違和感を抱いていた頃でもありましたが、あまりに必死に頼むものだから、了承してついて来ました。

 そうして、時計台の内部に案内されたのです。

 そりゃあ、建物に入った瞬間はわくわく興奮しましたよ。こんな秘密基地を持っている叔父を尊敬しました。

 が、そんな浮ついた気持ちも、次のドアを開けた瞬間に消え去りました。

 おもちゃ箱みたいな小さな部屋の中には、知らない男の子がいました。

「この子の世話を手伝ってほしい」

 叔父は真面目な顔で、いくぶん照れくさそうにしながら言いました。

 ぞわぞわぞわと、足元から血の気が引いていきました。

 男の子はとてもよく叔父に懐いていました。ひどい扱いを受けているわけでないことは分かりました。しかし、それで納得するほど私はもう幼くはなかった。友達と遊園地へ行く際に両親から止められたことや、最近発生していた誘拐事件のことなどが想起されました。

 私が返事を渋っていると、叔父は最上階のこの部屋へ案内して園内を一望させてくれました。

「未来ある子ども達には笑顔でいてもらいたいんだ」

 そう言って笑う叔父の表情は、どこか遠い夢を見ているような虚ろな印象を受けました。

 それで――。

 私は、叔父が気を抜いた隙を突いて、おもちゃのロープで叔父の腕をその柱に縛り付けて、男の子を連れて時計台を脱出しました。男の子は突然のことでわんわん泣いていましたが、その手を引いて近くの交番へ迷子として届けました。

 それを聞いた小戸毛が驚いたように社長を見上げる。しかし、社長はその視線に気付かないままがくりと項垂れる。

「私が叔父を殺してしまった……」

 自分が叔父をここに繋いで幽閉したため、叔父は独り死んでいったのだと嘆く。そんな社長の背中を、小戸毛が慰めるように撫でる。

 俺は暗がりを見つめる。

「いや」

 俺の声に、二人が顔を向ける。

 ピエロの骸骨に歩み寄り、その手元を確認する。

「このロープの結び目、本人が自分で結んだものですよ」

「え?」

「小学生が結んだおもちゃのロープくらい、なんとか自分で外せるでしょう」

 ボーイスカウトなどロープの扱いに長けていたというなら話が別ですが、と言うと、社長は首を横に振った。

「それでは叔父が自分で自分をここに縛り付けて、そのまま朽ち果てたのだと?」

「……そうでしょうね」

 社長は気が抜けたようにへたりとしゃがみ込む。

 代わりに小戸毛が言葉を継ぐ。

「僕も幼心でこそピエロをヒーローだと思ったけれど、今にして思えばやはり彼の行動は異常です。先代社長もご自身でそれに気付かれたのでしょう。それで、もう二度と間違いを犯さないように……」

 尻すぼみになった言葉の代わりに、小戸毛は言い直した。

「先代社長はいい人でした。……」

 それでもやはり歯切れの悪い感じになってしまった。色々思う所もあるのだろう。

 代わりに俺が引き取ってやる。

「大丈夫ですよ。先代社長は手元から離れていった二人を恨んでなどいません。二人の成長を喜びこそすれ。お二人には視えないでしょうが、ピエロの格好で懸命に励まそうとしていますよ。笑って笑って! と言って」

 言いながら手足をびょんびょんと振ってみせると、二人からようやく笑顔がこぼれた。


 時計台を下りる。

 外に出て扉を閉めると、もう入口は分からない。

「取壊す前に、ケリを付けなければと思っていたんです」

 社長は憑き物が落ちたようなすっきりした表情で言った。

「叔父の遺体を内々に運び出して弔ってはいけないでしょうか」

「いいんじゃないですか。どうせもう時効ですし」

 そう答えてやると、社長は苦笑しつつもほっとした表情で頷いた。

 年度内に遊園地を閉園して、リニューアルに向けて動き出すということだから、これからずいぶん忙しくなるだろう。しかし、忙しい方があれこれ考えずに済んでいっそいいかもしれない。

「小戸毛。お前、大学へ行け。学費はうちで出すから」

「えっ! そんな、いいです。仕事あるし」

「リニューアルのためだよ。文化総合施設にするって言ったろ。昆虫館も作る予定だから、専門の研究と、学芸員の資格取ってこい。業務命令だ」

 社長と職員、まるで兄弟みたいな二人はしっかりと未来に進んでいくようだ。

 微笑ましいやり取りは長くなりそうなので、辞して遊園地をあとにする。

 一応、遊園地の七不思議解決。……ということにしておこう。

 どうせもう時効なのだ。誘拐事件も、

 俺は刑事時代に閲覧した「未解決事件No.8――遊園地連続誘拐事件」についての調査ファイルを思い出す。

 異様・異常・不可解な未解決事件に対して一桁台の番号が振られる。警察署内では「一桁台に関わるとろくなことが起こらない」と囁かれるほどだ。

 はたして、十人(実際には十一人)の被害者を出したとはいえ、全員無事に戻ってきた誘拐事件に対して一桁台の番号が割り当てられるだろうか。――否。脳内で調査ファイルのページを捲っていく。ファイルの末尾に付属のように添付されていた数頁。

 この事件が一桁台となったのは、他に理由がある。

 誘拐事件の後、子ども達の家族が惨殺される事件が相次いだ。しかし、すべての誘拐事件に対してではない。十件中四件。結局、誘拐事件と惨殺事件の関連性不明のまま一桁台となったのだ。

「先代社長はいい人でした。……」

 歯切れの悪かった小戸毛の様子を思い出す。

 先代社長はいい人でした。「」。

 彼は、知っていたのではないか。先代社長が起こしたのが誘拐事件だけではなかったかもしれないと。

 子どもを虐待する親が一時的に子どもを失って反省したとしても、しばらくして再び元の扱いに戻ることも、想像に難くない。そんな親に対して、ピエロは制裁を加えたのではないか。

 であれば、小戸毛の両親もまた制裁の対象となったのではないかと考えられる。自身のルーツを調べるうちに、彼はその事実に行き当たったのではないか。

 彼にとって、ピエロはヒーロー。だけど、悪魔かもしれない。

 前社長を信じたい。しかし。

 それで真相を明かすべく俺を閉園後の遊園地へ招き入れたのだろうか。取り壊しが始まる前に、じっくり調査できるようにと。

 いや、それらはただの憶測だ。結局俺は時計台で

 先代社長の骸のそばには、幽霊どころか何の想念さえ残っていなかった。

 しかし、俺の脳裏には一つの結論が薄らと浮かぶ。普通の人や、むしろ良き人が、ある日突然不可解な事件を引き起こす。そうして、未解決のまま、本人は悲しい結末を迎える。――未解決事件No.1――。

 最も関わりたくない一桁台との繋がりを感じずにはいられないが、結局何のヒントも得られなかった。ただ、再び事が動き出す前に片を付けたいという思いを強くしただけだ。

 ……もう一つ嘘をついた。

 ピエロを縛っていたロープは自分で結んだものだと言い切ったが、実際にはロープは劣化して触れれば崩れる程になっており、結び目をはっきり確認することはできなかった。

 ただ、二人の様子を見て、俺が結論を下した。二人とも先代社長の良い面を継承していると感じたから。

 時計台には鍵がないと入れないが、その鍵は時計台の外にあった。

 一桁台ならば、そんな不可思議が残ることもご愛嬌だ。羽根の形の鍵だったし、小さな窓から飛んでいくこともあろうさ。

 先代社長は孤独のうちに亡くなった。しかし、彼の作った遊園地で、かつて幼い子どもだった二人は家族のように絆を深めて未来を切り開き現実を生きていくのだ。

 家族か。

 俺はこれから独りの家に帰る。山の上の遊園地から下りてきて、地元に帰り着くと、もう空は白み始めているが、うちの中は底を付いて冷えびえとしているだろう。

 自宅兼事務所の前にバイクを停め、外階段を上がって、ドアを開けた瞬間、暖かい空気が流れてくる。

「みゃおん」

 足元に黒猫が擦り寄る。おかえり、と見えないしっぽを足に絡めて。

「ツクモ」

 呼ぶと、「みゃお」と返事する。

 そうだった。今は、こいつがうちにいるのだった。独りじゃない。

 小さな相棒の姿に、かつての相棒が思い出される。

 いや、相棒というのは失礼か。刑事時代の上司だった人だ。ともに未解決事件一桁台を追っていたが、捜査中に和久さんは帰らぬ人となった。それで俺は刑事を辞めた。

 未解決事件一桁台を整理したのは和久さんだ。彼は一体何をどこまで知っていたのだろうか。

 そんな考えが頭を過ぎったが、ツクモのあたたかい体を胸に抱いてソファに横になると、そのまますとんと夢も見ずに眠りに落ちた。

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