獄卒さんが通る

駿河 明喜吉

獄卒さんが通る

 教壇の上を行ったり来たりしながら、近現代文学の講義を受け持つ浅川教授の泉鏡花愛は本日も大変熱が入っている。

 横長の机と青い合皮の貼り付けられた椅子がやや窮屈に詰め込まれた二号館二階の二〇一教室で行われる講義は、泉秋大学 文学部日本語学科一年生前期の必修科目だ。


 私は今年の春に入学したばかりの新入生で、雨期の気配が近付きつつある六月の上旬、泉鏡花・坂口安吾の熱狂的ファンを公言する浅川明子教授の講義中、他の学生たちに囲まれながら、たった一人、背中にゾワゾワした恐怖のような、テスト開始五分前を永遠に繰り返す呪いの時間に閉じ込められたような焦燥感に苛まれていた。


 初夏に近付きつつあるじめっとした暑さをクーラーの人工的な涼しさに追い払われた室内で、私はただ一人、薄手のロングTシャツの下に鳥肌を隠しながら過ごしていた。


 浅川氏の女性にしては少しハスキー目な声は耳に心地よく、普段ならしっかり頭の中に入ってくる話も、最近は半分も入ってこない。

 私は干上がった喉を無理やり上下させてから、ちらりとへ目を向けた。

 私の座った位置から丁度真正面、天井と黒板の間。今浅川氏が立ち止まった真上、そこに蟠る蠢く闇と、巨大な一つ目に――。


 パチ、パチ。教室全体を覆いつくさんばかりの大きな目が、浅川氏の姿に目を留めながら無邪気に瞬きを繰り返す。白目の部分に赤く走った毛細血管までくっきり見え、長い睫毛の並んだ粘膜部分が充血して滴るように真っ赤だ。小学生の時、保健ニュースのポスターに写された眼球の写真さえ、なんだか不気味に見えて仕方がなかったのを思い出す。


 ギョロ。


「!」


 私はハッと息を呑んで視線を手元の参考資料に落とした。全身の汗腺が一気に開く。冷たい汗が吹き出し、クーラーの利いた室内で私だけが顔を脂汗で光らせているのが気まずく、さり気なさを装いながら手の甲を頬に押し当てた。頁の隅に書き込みが散見される文庫本は泉鏡花作品の短編集。白い頁いっぱいに踊る文字の羅列に意識を集中させるも、内容は恐ろしいくらい頭をすり抜けてゆく。


 まずい。目が合った。あの一つ目は、しっかりとこちらを見ていた。


 ここ数日、自分の目に映る世界が、周囲の人間の見る世界と違うことを実感していた。どうやら私には、本来見えるはずのないモノが視えているらしい。


 いつからだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろう。心当たりを探ってみたが、納得のできる答えを提示することはできていない。


 あの目は数日前から常に私の傍にあった。講義室だけではない。講義後、一人飯にありつく際の食堂で一皿四百円のカレーをぱくついている時も、近所の書店でアルバイトに励んでいる時も、果ては一人暮らしをしているワンルームの片隅にも。心の休まることのない日々を強いられていた。


「オイ、百鬼なきり


 不意に名前を呼ばれ、私はハッと我に返った。前の席に座った馴染みの顔が、怪訝そうな顔でこちらを振り返っている。その手に一枚の紙を摘まんで。前から回ってきたプリントだった。


「あ、ああ……すまん」


 資料受け取ると、彼は一瞬、首を傾げながら片眉を跳ね上げたが、講義中であることを思い出したように黒板の方へ向き直る。


 彼に話しかけられたことで、雁字搦めにされていた全身の強張りが解けた。


 恐る恐るもう一度黒板の上に目をやると、そこにはもう蠢く闇もなければ瞬きをする大きな目も、はじめから存在しないもののように掻き消えていた。暗く沈んでいたように見えた教室内も、たちまち明るさを取り戻す。まるで悪い夢から覚めた時のよう、私は無意識のうちにため息をついていた。


 浅川氏がこちらをちらりと見たような気がしたが、こんな態度の悪い学生で申し訳ないと思う反面、俺の気も知らないで、などと八つ当たりめいたことを思ってしまう己の荒んだ精神状態に懊悩するばかりであった。



 今日の講義は午前中で終わりだ。明日の必修で提出するレポートの進捗が芳しくなく、なんとしても今日中に仕上げるためにバックパックに放り込んだ参考文献の存在を確認しながら、私は大学の図書館へ足を向けた。


 二号館を出ると、湿気を含んだぬるい風が顔にぶつかってきた。肌がべたつくような不快感に気が滅入る。先ほど見た恐ろしい光景を思い出すだけで頭痛がしてくるというのに、この時の私はささやかなストレスさえ深い憂鬱への引き金となっていた。


「百鬼」


 と、背後から名前を呼ばれた私は、反射的に立ち止まって振り返る。先ほど前の席に座っていた同学科生の高山が、二号館から出てくるところだった。


 私は今の自分が人と向き合える顔をしているかどうか不安だった。身の回りで不可解な出来事に悩まされているというのもあるが、正直に言うと私は彼のことがあまり好きではなかった。悪い奴ではないし、何かをされた、不愉快な発言等を連発するような人間でもない。明るくて社交的で友達も多く、自信に満ちた彼の存在は、私の正反対な性格や卑屈さの目立つ為人に眩い光を反射する。いわば私が一方的にルサンチマンを感じているだけなのだが、最近のストレスも相まって、彼に対してなかなか心を開けないでいるのも理解していた。


 それでも彼はこうして根気強く私との距離を詰めてくれるし、裏で誰かの悪口を言うような人間でないことに好感を持てたりもする。


「もう講義ないんだろ? この後予定ある?」


 背が高い。どちらかというと瘦せ型で、首も長くスタイルがいい。平均身長よりわずかに背を伸ばした程度の私が、首をやや上に向けたところに、その小さな頭部が乗っている。入学と同時に髪を染める学生が多い中、高山は健康そうな黒髪をスタイリング剤でセットした小洒落た風貌に、気持ちのいい性格も相まって多くの人間を魅了する。


「課題のレポート完成させる」


 私が端的に応えると、高山は自分の背後を指さす。そちらの方角には学食がある。


「昼飯は?」


「携帯食あるし、図書館の休憩室で適当に食べるよ」


 高山は眉根を寄せた。遠回しに昼食に誘われている気配を感じてはいたが、こうもあけすけに気のない返事をしたことで不快にさせてしまったのだろうか、と俄かに胸が痛んだ。しかし、高山は気を悪くした風もなく、あまつさえこんなことを口にする。


「お前、なんか痩せた? ちゃんと食事してる? 顔色もよくないよ」


 そんなことを言われるとは思ってなかったので、思わず面食らってしまった。確かに自分でも顔色が優れないことは理解していたし、一昨日足を運んだ銭湯で何気なく乗った体重計にも「お前、痩せたな」といった具合に以前より少なめの数字が並んでいた。


 例の一件を引き金に肉体にも支障を来した辺りでこれはいよいよまずいな、と思ったが、こんなことを誰かに相談して、霊能者なんて胡散臭い人間を紹介されても困るし、正直私は裕福な暮らしをしている方ではないので、そういった方々に高額なお金を払うのも気が進まない。


「俺がご馳走してやるから来いよ。昨日給料日だったし。カレーかハヤシライスかたこ焼き辺りなら好きなだけ食っていいよ」


 そういって大げさに胸を張るところも彼の人柄の良さがにじみ出ている。

 生来の押しの弱さに自覚的な私は、これ以上強く断ることもできず、彼について学食へ向かった。結局私はいつものカレーを注文し、高山は散々迷った挙句、私と同じカレーの大盛りに落ち着いた。


 お昼時なので、学食はまずまずの込み具合だった。隣接するカフェもあるので、そちらで昼食を摂る学生も多く、どちらかが人で溢れ返ることも滅多にない。弁当持参の学生なら場所に拘らず腰を落ち着けることもできるので、こういった自由度の高い行動が許される大学生活は、協調性の乏しい私にとって大変ありがたかった。


 白い盆に乗ったカレーを目の前にすると、自然と空腹を自覚する。私たちは特に会話をすることなく夢中でカレー皿を空にすることに努めていたが、両方の皿が空くころ、高山が不意に口を開く。


「五月病長引いてるの?」


「え?」


「お前一人暮らしだろ。環境の変化とか、大学に慣れてきて疲れが出る頃だと思うからさ」


 そう言う彼は隣町にある実家からの通学だ。


「うーん……」私は何と答えるべきか逡巡し、適当な返しも思い浮かばなかったので「そうかも」と首肯する。


 進学を機に地方から単身で越してきた身としては、そろそろ一人暮らしを満喫する体制に入りたいのだが、なかなかそうもいかないのもストレスだった。


 未だかつて幽霊を見たことがなければ、感じたことすらない。霊感なんて一切持っていない鈍感人間だったはずなのだ。


 私は周囲の和気あいあいとしたランチタイムの雰囲気にいくらか救われながら、何とはなしに窓の外へ目を向けた。学食は建物の二階に位置し、窓辺からは大学の正面門がよく見える。午後から講義がある学生たちが続々と敷地内に流れ込んでくるのが見える中で、私はまたも背筋が粟立つ思いをしなくてはならなかった。


「あいつ……」


 口の中で呟いた言葉を、高山は聞いていなかったらしい。「デザート買ってくるわ」と言って席を外してゆくのを気配で感じながら、私は正門の外に佇む一人の少年から目を離せないでいた。


 この距離からでもわかる肌の白さ。インドアを極めた私も肌の白さでは自信があるが、彼の場合はそういった次元ではない。ともすれば不健康と言われても仕方のない。被ったフードの下に生気の欠けた雰囲気があり、全身を黒い服で包み込んだ怪しげな風貌が目を引く。それなのに周囲の人間は彼に気付いた様子もなく、平然とした顔で素通りしてゆくのだ。まるで、少年の姿など見えていないかのように。


 私は彼の姿を昨日も見た。身の回りで怪異に遭遇してから早一週間。そのミステリアスな少年は、よく私の近くに現れるのだ。


 肩のすぐ上で切り揃えた黒髪。白い肌に映える真っ赤な唇は、椿の花弁を挟んだように鮮やかな色をしている。横幅の広い切れ長の双眸は、エキゾチックで大人っぽい。人間の持ちうる美しさを遥かに凌駕した、一種の魔物めいた美貌とでも言うのだろうか。白皙の美少年然とした身なりは人の視線を独占してやまないだろうに、道行く人々はやはり誰も彼の方を見ようとはしない。


 もしかしたら、彼もまた……。


 そこに高山が帰ってきた。二つのプリンとビニールの袋に入ったプラスチックのスプーンを持って。


「お前も食う?」


 わざわざ私の分まで買ってきてくれる気前の良さと気遣いに、思わず愛おしさのようなものがこみ上げてくる。いい奴なのだ、彼は。


「いいの?」


「うん。俺一人で食うのもあれだし」


「ありがとう」


 彼の言葉に甘えてプリンを受け取る。

 再び正門を見ると、もうそこにはあの少年はいなかった。



 午後の講義を受けに行った高山を見送り、私は一人で図書館へ向かった。三時間ほど籠ってなんとかレポートを完成させた頃には午後四時を回っていて、綺麗に晴れた空は夕暮れ時の色に染まっていた。


 今日はバイトはない。まっすぐ家に帰ってパソコンを開こう。来月末に迫った新人賞に応募するための小説に取り掛かるのだ。


 私は大学に通いながら、作家になる夢を追いかける道を選んだ。在学中に良い結果が出せればそれが一番だが、たかだか十八年生きただけのひよっこ大学生がいきなり華々しくデビューできるとも思えないので、まわりと同じように社会人を経験しつつもコツコツと原稿の執筆に明け暮れる人生も悪くないはずだ。


小学生の頃から読書に親しんだ私は、当時から漠然とではあったが、自分も将来は作家になるに違いないと信じて疑わなかった。勉強もスポーツも何一つ誇れなかった私が、唯一誇りに思って続けていることが、小説の執筆だった。その夢を知ってる者は誰一人いないけれど、孤独を好む私には都合がいい。


 大学から自宅までは歩いて十五分ほどだ。

 特に用事もないので住んでいるアパートへ足を向ける。

 夕飯は昨日買ったパスタでも茹でるか。


 住宅街の一角。私の住むアパートはその中にある。目の前の交差点を右に曲がればすぐにその建物は見えてくる。はずなのに。


「あれ……」


 目の前には幅の広い一本道が、どこまでもどこまでも続いていた。両サイドにガードレール、並んだ塀の内側には新しい一軒家や古びたアパートが綺麗に整列している。けれど、その並びにあるはずの自分のアパートはどこを探しても見当たらなかった。


 空には熟れた蜜柑のような夕焼けが浮かんでいる。

 やけに大きな夕日だ。恐ろしいくらいに存在感を主張した灼熱の円盤は、空を呑み込まんばかりに燃えている。


 ゾクッと首の後ろに怖気が這い寄る。

 嫌な予感が背中に迫っていた。振り返ってはいけない、そんな気がした。

 背後から不気味な音が聞こえてきた。


 ススス、ススス。


 衣擦れにも似たその音は、さほど耳慣れない音ではないはずなのに、なぜか私の脳内の警鐘を激しく打ち鳴らした。


 見えない恐怖に耐え兼ね、物凄い勢いで振り返るも、そこには何もない。爪先から長く伸びる自身の影がアスファルトに貼りついているばかりで、不気味な音の正体も、あの大きな目玉もなかった。


 気のせい、気のせい。そう言い聞かせながら正面を向いた時、そこには誰もいなかったはずなのに、突如湧いて出たように一人の少女が立っていた。


 夕日に背を向けて立っているせいか、逆光で顔が見えない。背は私と同じくらいで、女性にしては高身長だ。髪はショートボブ。今時珍しい紺色のセーラー服を着ている。


 己が陥った状況に関する情報量は極めて少なかったが、脳内の警鐘はこの子に対して鳴っていたのだと瞬時に理解する。


 私は今来た道を引き返した。走らず、辛うじて速足と呼べる速度で彼女の前から姿を消した。


 首筋が灼けるように熱い。強い日差しのせいだろうか。じりじりと産毛が逆立つ。


 ねえ。


 不意に声をかけられた。それはおそらく、私に向かってかけられた呼び声。周囲には私以外に人の姿はなく、「ねえ」という近い距離の人間に対して使われる声に反応できる者は、私以外にいなかった。


 ねえ。こっち、見て。


 私は視線を上げることができなかった。今度は前方から聴こえた。どうやって先回りしたのかなど、そんなことを考える余裕すらなくなっていた。

 今までの怪異は存在こそすれ、私に接触してくることはなかった。だから耐えられた。


 私は自分の爪先だけを一心不乱に見つめ、そのまま歩き続けた。右半身で少女とすれ違う瞬間、口から心臓が飛び出すかと思った。


 ねえ。視えてる?


「うわあああああああ!」


 我慢の限界だった。吹きかかる冷たい吐息と耳元で聞こえた声に、悲鳴を上げながら逃げ出す。


 幾度となく角を曲がった。しかし、次々と現れる住宅街の景色は、徐々に自分の知っている街並みとは様相を変えてゆく。まるで鏡の世界に迷い込んだ心地だった。

 少しでも遠くへ。彼岸の者が辿り着くことのできない領域まで。


「あっ」


 誰かとぶつかった。私は勢い余って転んでしまったが、相手は佇立したままこちらに手を差し出そうともしない。


 いきなりのことにすぐさま立ち上がれないでいた私は、地面に這いつくばったまま、その人物を見上げた。


「あっ、お前!」


 例の少年だった。近くで見ても眩いほど綺麗な顔立ちをした彼は、フードを目深に被り、骨感の少ない細面で私のことを見下ろすと、ぞっとするほどの無表情で口を開いた。


「助けてあげるよ」


「は、あ……?」


「追われてるんでしょ。怪異に」


「なんで知って……まさか、お前の仕業?」


 私が息巻いて立ち上がると、少年は赤い唇にうっすらと笑みを刷いた。


「ぼくが追っていたのはあんたじゃない」


 ああぁぁぁあぁぁぁぁぁああああ


 水底から響くようなうめき声が近付いてくる。私は無様にも、動揺することなく佇立したままの少年の背後に隠れてしまう。


「何か来るぞ!」


「あんたに取り憑いていたモノだよ。最近、変なものが見えてたでしょ」


 少年は「僕の後ろにいて。離れないでね」と念を押すと、パーカーのフードを脱いだ。艶やかな黒髪が露になり、両の額から恐竜の爪のような物が見えたと思ったが、それは角だった。


 鬼の角。象牙色で前へ向かって緩くカーブの描いたフォルムはまさしくそれだった。


「お前、一体何者だよ」


「話は後。あんたに取り憑いたあの怪異を回収しなきゃいけないんだ。そら、来たぞ」


 少年が前方を指さす。果てしなく長い一本道の遥か先から、黒い塊が迫ってくるのが見えた。あれは、天井の片隅で蠢いていた闇の塊だ。光の傍らに存在する影のように真っ黒なそれは、手足のようなものをはやして、這いずるような動きで迫ってきている。


「ひいっ、キモイ!」


 私は腰を抜かしそうになりながら少年の背中に縋りついた。


「来るよ!」


 ボールペンで乱暴に書き殴ったような黒い塊が、少年に向かって飛び掛かった。


「退け!」


 今までとは打って変わった力強い一喝に、怪異は殴られたように吹き飛ぶ。

 怪異は地面に激突しながらもすぐさま体勢を立て直し、再びこちらへ向かい来る。その瞬間、闇の塊は先程の少女の姿に変化し、喉を反らして激しく咆哮した。その際に見えた顔は、グロテスクなまでの大きな目が一つ、その下に鼻はなく、耳まで裂けた唇の中にぎゅうぎゅうに詰め込まれた黄色い乱杭歯がこれまた酷く醜い。


 きいいいいぃ……おぉおぉぉごぉぉ……


 錆びた金属を力いっぱい擦りつけるような悍ましい金切声が、私の脳髄を揺さぶる。


「もう、やめてくれ……」


 心の底から漏れた本心は情けないほど声を裏返し、少年を盾にすることしかできない自分が情けなくなる。


「待てよ、落ち着け。そして黙れ。ここはぼくの独壇場だ」


 白皙の美少年の口からこぼれ落ちる言葉にしては、やけに乱暴だ。

 そして、声変わりを果たしたばかりの比較的澄んだ声音が徐々に低く、大人びたそれに変わってゆくのを背後にいた私は感じていた。


 空気が変わる。


 まとわりつくような湿気が蒸発する。変わって周囲を満たすのは、むせ返るほどの死の匂い。此岸の世界を塗り替えるように彼岸花の匂いを含んだ風が吹く。


 ミシミシと何かが軋む音がして、音の出所を求めて辺りを見渡してみたが、その異変は目の前で起こっていた。


 私の背丈より遥かに小さく、オーバーサイズの衣服の上からでもわかる華奢な少年の肩幅が、軋む音をたてながら一回り二回りと大きくなってゆくのだ。

 夜な夜な骨が伸びる音を立てながら成長痛に苦しむ子どもがいるというのを聞いたことがあるが、私は大して背が伸びなかったのでそんな羨ましい経験をしたことはない。


 そうこうしている間にも、彼の背丈は私の頭を超え、着ていた服が小さく見えるほどの急成長を遂げると、短くなった袖に包まれた筋肉質の腕が、燃えるような赤色に変色している。まるで、御伽噺に出てくる鬼だ。


「あんた、厄介なものに好かれちまったね」


 姿も違えば声すらも徹底的に別人へと変化した彼は、肩越しにこちらを振り返った。


 鮮烈な夕日の輝きすら吸い込んでしまいそうな黒髪が風に靡く。赤い頬に燃え盛る炎のような紋様を浮かび上がらせ、真っ直ぐに切り揃えた前髪の隙間から見えた切れ長の一重瞼は、中に収まった光彩に夕日のそれよりも濃く鮮やかに燃え上がる色を宿しながら、己よりも遥かに小さくなった私を流し目で見下ろし、大人の骨格になった顎を引いて笑った。


「人の良さそうなお兄さん。見ててご覧。このぼくが全て解決して差し上げるよ」


 いかつさの増量された外見のわりに言葉遣いは少年のままだ。

 彼は私に向かって「安心しなさい」とでも言うように微笑みかけると、再び前を向いて、迫りくる怪異に対峙した。


「衆生に仇なす悪霊はぼくが責任もって彼岸へと連れてゆく」


 自信に満ちた口上は、怪異の奇声すらも飛び越えて全世界へ響くようだった。


「来るぞ!」


「応」


 少年は頷き、右手で空を薙ぎ払った。その途端、私たちの二メートル先まで迫っていた女の動きがピタリと止まる。髪を振り乱し、血と垢のこびりついた爪で私諸共少年の首を掻き切ろうと翻った掌が空中で停止する。


 が、あ、あ、あ、ああ……


 裂けた口の中に並ぶ乱杭歯に血が滲んでいるのがよく見えた。吐いた息に古い血液の匂いを感じ、吐き気を誘発する。私は口と鼻を覆いながら、脚が震えるのを必死でこらえた。


「どうしたの。行きたくないの? でも、君にとって此岸はとても辛いところだよ。本当の姿に戻って、次の段階に進んだ方が幸せだ」


 き、き、お、ご……


「そんなにこの人が気に入ったの?」


 私は彼女に気に入られてしまった経緯について思考を巡ら得てみたが、心当たりなど一切なかった。それより早くこの状況を何とかしてくれと急かしたくなってくる。そんな私の心情を察してか、彼は再びこちらに視線を投げると、「大丈夫」と顎を引いて、続ける。


「まだ間に合う。罰を受け入れるのは怖いかもしれないけど、ぼくも口添えできるし、悪いようにはしない」


 き、お……ご……


 先程から彼女の口から零れる「きおご」という単語は何なのだろう。私は彼の諭す言葉の丁寧さに奇妙な冷静さを取り戻し、そんなことを考えていた。


「ぼくも一緒に行くから大丈夫。人の心を忘れないでいた君なら、情状酌量の余地はあると判断されるはずだ」


 き、お、ご……


はだめだ。まだこちらにいるべき人間だ」


 きいいいおおおおおごおおおお


 その時、私は背中に氷の塊を流し込まれたような怖気を感じた。

 怪異の言う「きおご」と、少年の口に上った「彼」という単語が結びつき、少女が幾度となく口にした不可解な言葉の意味を一瞬で理解する。


 私の名前は百鬼。きょうご。きおご。


 彼女はずっと私のことを呼んでいたのだ。私を、あの世へと連れて行こうとしていたのだ。謎を一つ紐解くと、思考が次々と展開される。私の抱いていた疑問すべてに、恐ろしい答えが提示される。

 私はこの怪異に取り殺されようとしていたのだ。


 きいいいいおおおおおおごおおおお


「ダメ」


 似たような押し問答を何ターンか繰り返した時、今まで根気強く説得を試みていた少年が、深いため息を吐いた。


「何度も忠告したよ。それでも君はこの人を道連れにしたいんだね」


 諭すような口振りから一変、氷めいた声でいう。私でさえ失言を咎められた子供のような気分で居心地の悪さを感じた。

 少女は喉の奥底で獣のような呻り声を出しながら、少年へ向かって手を伸ばした。瘦せ細り、渇いた血がこびりついた指が少年の首を掴もうとして、失敗する。


「もう、いい。ひとりで落ちて」


 私は足元に違和感を抱いて視線を落とした。


「う、わ」


 スニーカーの底を黒い水が洗っている。光の反射しない黒い水面が、爪先から幅の広い一本道を一面の川面に変える。


「衆生に仇なす者に同情は無用。然るべき罰を受けるといいよ」


 あ、ああ、あ、あああああああ!


 すべての光を呑み込む暗黒の川面は、粘着質な触手を幾筋も伸ばし、少女の全身を絡めとると、どこまでも深く続く底なしの地獄へと引きずり込む。


 き、き、お、ご、き、お……


 少女は真っ赤な口を開けて、最後の最後まで私の名前を叫び続けた。暗黒の水面に頭まで沈み込むと、呪いの声は小さな水泡に代わり、辺りには終末を彷彿とさせる静寂が訪れた。空をドーム型に覆う視えない膜の中で外界から遮断された言い知れない孤独感に全身が支配される。


 我に返ると、足元には灰色のコンクリートが横たわり、橙色の空には数羽の鴉が寝床へ向かって帰ってゆく姿が見えた。隣の公園には子どもたちの走り回る姿もある。

 帰ってきた。私の住む、此岸の世界に。

 全身を濡らす汗が夕暮れの風に冷やされる。思考が冴え渡り、傍の塀に寄り掛かるようにしながら、隣に目を向けた。


「あれ?」


 そこにあの少年の姿はなかった。私だけがたった一人、逢魔が時の真ん中に取り残されていた。



 予想だにしなかった再会は、驚くほどすぐにやって来た。


「隣に越してきました、島谷です。よろしく」 


 大学もバイトも休みの一日どフリーの昼下がり、朝から人の出入りの気配を感じると思ったら引っ越しだったのか。それはいい。それはいいのだが……。


「お前、昨日の」


 あの少年だった。人間の姿。私より小さな少年の姿で、両手に乾麺の箱を載せて。

 私が驚いて声も出ないでいると、島谷と名乗った彼は上機嫌に話し続ける。


「あの後ちゃんと帰れたみたいでよかったよ。昨日の夜は大丈夫だったでしょ? 久しぶりに熟睡できたんじゃない?」


「昨日のあれ、一体、なに……?」


 少年の熱量に圧倒されながらようやくそう呟くと、目の前の小鬼は嬉々として開口する。


「あんたも最近ここに越して来たんだね。元はその部屋に憑いていた単なる浮遊霊だったようだけど、あんたのことが気に入ったようで、恋愛感情を暴走させて悪霊化しちゃったみたい。危うく向こうの世界に連れていかれちゃうところだったよ。間一髪だ」


 私は声もなく頷くことしかできなかった。この子の言っていることが真実だろうが虚構だろうが、己の目で見たことが全て事実だ。

 それよりも、私が気になっているのは……。


「君は何者?」


 島谷は暫し悩んだように口を噤んだと思うと、頬一杯に裂いた唇の隙間からシシシッと渇いた笑声を漏らし、言った。


「獄卒」


           獄卒さんが通る・完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

獄卒さんが通る 駿河 明喜吉 @kk-akisame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ