まさつき

一緒に答えを、探そうじゃないか

 人を人たらしめる最小の単位とは、いったい何だろう。


 誰でも、一度は持つ疑問だ。少なくとも、私はそう考えている。ずっとずっと昔から、それこそ子供のころから、私はこの問いに取り憑かれ、長い時をかけて考え続けている。


 例えば、こんな実験を、君も一度はやってみたことがあるのじゃないか。もちろん、本当にではない。思考実験、というものだ。長く揺られる通勤列車のつり革に掴まりながら、暇に任せて一度くらい、こんなことを考えたことがあるだろう?


 指を、一本失う。とても痛い。工場勤務か何かで不都合があって、指を無くしてしまうという話は、よくある不祥事の一つだ。

 君は慌てる。周りも慌てる。でもまだ、君は君のままだ。たとえ時間が間に合わなくて、君の指を縫合することができなくて、ヘマをやったヤクザ者のように指が短くなったとしても、君は君のままでいられる。


 腕はどうだろう。

 肩の付け根に医療用のメスを差し込まれ、皮膚が靭帯が関節包が裂かれて、腕が床に落ちるところを想像したまえ。この際、痛みのことはどうでもよろしい。

 別にこんな、猟奇的なシーンでなくても構わない。例えば君が、雪山で遭難して凍傷に罹り、腕が壊死して切るしかない状況でもよい。あるいは君が兵士で、戦場で腕を吹き飛ばされるとか、怪我が元で破傷風や敗血症になり、しかし薬もないものだから切るしかなかった……でも、構わない。


 さて、君の姿は? 君の認識は? ただ、片腕を無くした自分とだけで、これといって揺らぎはないだろう。もちろん、腕を無くした喪失感や悲しみはあるかもしれない。しかしその感情は、そのように感じる思いは、人である証でもあるのだ。


 せっかくだ。もうひとつも切り落としてみようか。なあに、頭のなかでの出来事だ。どうとういことはないさ。

 ……さて、どうかな。同じではないかね? 両腕を失っても、やはり君は君だ。

 では、足は? 両足を失くしたら? もうわかるね。そう、たとえ手足を失くしても、やはり君は君なのだ。


 ダルマになった君がいる、とする。

 誰が見ても、そこにいるのは四肢を無くした、君だ。


 ではさて、人が人を見分ける時、何を頼りにするだろうか。もう、腕や足ではないと分かっているね。君が君自身を知るときも、腕や足が頼りではないように。


 なら?……そう、顔だ。顔こそが、人が人を人たらしめるものだと、考えてしまう……本当に? 本当に君は、そう、思うのかね。


 次のことを、試してみよう。

 耳を、削ぐのだ。目を閉じたまえ。安心しなさい、もちろん心の中でだ。

 どうかな? 君はやはり、君のままだろう。そうして鼻を削ぎ、目をくりぬいて、舌や歯を抜いても、やはり君は君のままだ。

 聞こえず、嗅げず、見えず、味わえなくなっても、やはり君は君のままなのだ。


 目をくりぬく前に、一度鏡を見て、自分を確かめてみたまえ。変わり果てた顔があるとしても、やはり君は恐ろしい姿となった自分がいるとだけ、考えるだろう。いったいこれは誰なんだと、失くした舌で叫ぼうとしても、やはり君は、君のままだ。


 少々話が残酷だろうか。ならば、逆でもいい。

 君が何かに絶望して、もうこの世の誰からも姿を隠してしまいたいと思ったとき。整形手術で、顔をすっかり作り変え、鏡の中にはまるで知らない別人がいるとしよう。でも、心の中では、やはり君は君のままだ。テレビを観たまえ。ネットでも構わない。老いに抗うためとはいえ、昔とすっかり顔を変えた男や女たちがどれほどいることか。それでも、彼らは等しく、自分は自分であると、思っているのだ。


 たとえ、他人が君を君とわからぬほどに顔形が変ったとしても、君が君と信じる君の認識は君のままなのだ。わかるね。


 身体について、もう少し考察してみよう。

 病に侵され、臓器を抜き取る手術があることは、君も知っているはず。最近は、お金に困って、ふたつあるからと腎臓をひとつ売ってしまう者もいるそうだね。そうやって大切な臓器をひとつ失っても、あるいは大病をしてふたつみつと取り除いたとしても、やはり人は変らず、そのままだ。


 中には、性器を取り除き、あるいは作り変えて、肉体的な性を違える人だっている。そういった人たちはむしろ、本当の自分に近づけたと歓びを得るものだ。


 肺や心臓はどうかな? やはり、変らない。人工心肺装置に繋がれている時、心肺機能に関わる臓器を失ったとしても、君の脳が働いている限り、やはり君は君のままでいられる。


 分かった! そうだ、人を人たらしめるのは、脳だ!

 そうか……閃いたか。では、脳を半分、取ってみようか。


 君はその時点で、自分を自分と認識できないかもしれない。そうすると、もはや君は君ではなくなるのかもしれない。やはり、脳なのかな?

 だが世の中には、生まれついて脳が半分無い、という人もいるのだ。そのような人は、自分を自分と認識できないものなのだろうか? 視覚神経に問題を抱えていて、見るという機能においては認識が難しいこともあるかもしれない。

 しかし心の中では、やはり自分は自分たりえると、そうは思わないのだろうか。


 もちろん、なにもこんな残酷なことを考えなくても、あるいは本当に実行しなくても、実際に試すことは容易い。酒の力を借りてみたまえ。

 しこたま酒を飲んで酩酊し、前後不覚になってみるのだ。そのとき、君は君であると、言えるのだろうか? あれは自分がやったことじゃない、酒がしでかしたことなどと、言い訳の一つや二つ、したことはないかね?


 あるいは、殺人を犯したとして。君が精神に何か不具合を抱えていた時、決まって行われるのが、精神鑑定だ。責任能力があるのかないのか……それは、君が本当に君足り得る存在なのか、認識は地に足のついた確かなものなのかを、問われていると私は思うのだ。


 それにだ。例えば君が、世界記録を持つ陸上のアスリートだとしよう。

 もう、分かってしまったかな? そうだ、君は事故で足を失う。もう、走れない。そのとき君は、事故の前と自分が同じ自分だと、感じられるだろうか?


 あるいは、絵を描いているものが目や指先を失う、料理人が舌を失うでもよい。


 もはや変わってしまった君は、本当に君なのだろうか?

 足を切られても自分であると思える自分もいれば、足を失くして自分を自分ではないと思ってしまう自分もいるのだ。だが、外側から人が人を見たとき、その人はやはり、どうあっても、同じ人のままだ。


 さてでは、他人が見た他人というのは、どこまでどうすれば、それが同じ人であると、言えるのだろう? あるいは、真に君が君たりえると認識できる根拠は、どこにあるのだろう?


 骨だ。骨こそが、重要なのだ。私の結論は、骨にある。


 そして真にひとつ、〝頭蓋〟があることこそが真理ではないかと、結論するのだ。

 人を人たらしめているのは、肉でも、血でも、魂でもない。

 君の頭を包むその骨、頭蓋骨そのものなのではないだろうかと。


 やせ細り、もはや身体を動かす筋肉を失くしたとしても、寝たきりであっても、人は人たりえる。

 しかし、骨がなければ? 君の体は、どれほど発達した岩のような筋肉を備えていたとしても、ただの肉の塊にすぎない。君は、人としての形を成さないのだ。


 たとえばぶくぶくと太ったとしても。骨は、変らない。

 内臓に脂肪を蓄え健康に害を及ぼしたとしても、骨そのものは変らない。もちろん、髄の健康状態といった些末な問題はある。だが、それは人を人たらしめる、君を君たらしめる認識には、なんら障害となるものではない。


 骨が、重要なのだ。

 骨こそが、人を人たらしめる土台、まさに骨格であるといえる。

 そしてその真髄が、頭蓋なのだ。


 だって、そうだろう? 腕を失くしても、足を失くしても、骨盤や肋骨を失ったとしても、君の考える脳を支える頭蓋がある限り、君は君でいられるのだから。


 だが、まだ私にも、ほんの少し、迷いはあるのだ。

 脳なのか、果たして、頭蓋なのだろうかと。


 だからこそ、だ。始めようではないか。

 君は私に聞いた。

 いったい自分は、何者であるのだろうかと。

 その疑問に、これから一緒に答えてゆこう。


 まずはその、きれいな人差し指から、始めようじゃないか。

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