薔薇色に染めて
昼星石夢
第1話薔薇色に染めて
目線の先に、俯く、可憐な白い花。先生は好きだと言うけれど、自信なさげに溜息をつくかのような、無気力な姿はマホを苛立たせる。
少し視線を上げれば、大輪の白い花を咲かせる、先生によく似たスノーシャワー。繊細でありながら力強い白薔薇は、下を向くスノードロップを叱咤しているように見える。まさに、今の先生とマホそのものだ。
モーツァルトのトルコ行進曲。何か月も前から練習してきたというのに、まさか、あの子と同じだなんて……。
シラソ#ラシーー
「そこはドだよーー、どうしたのお? マホちゃん、ぼーーっとしちゃだめよーー」
先生が、リズムに合わせて読譜しながら歌う。ああ、いけない。集中しないと。右手首を捻って素早くソラシ――駄目、うまく音が鳴らない。
マホはジャン、と鍵盤を叩いて、演奏を止める。
「カレンちゃんと、自由曲が同じなんです」
先生はマホの言葉に、目を丸くし、「カレンちゃん?」と高い声で言った。
「ああ、前に教えてくれた、ピアノが凄く上手い子ね? お母様がピアニストの」
「そう。ここに通ってる、私と同じ中学校の博之君とカレンちゃんが、音楽の授業終わりに話しているのが聞こえて」
「――そうだったの。それは残念ねえ」
先生は頬に指先を添えて、悩ましい仕草を見せた。
「まあ、やれるだけのことはやりましょう」
はぁ、という先生の溜息が耳をかすめる。今年こそ賞を取りたい、そう思っていたのに……。先生の言葉がマホの体の奥に重く沈む。
カレンちゃんが越してきたのは、冬休み明け。隣のクラスから流れてきた話で、すぐに話題になった。今年初めての音楽の授業で、「何か弾いて」と言われた彼女は、ショパンの幻想即興曲を暗譜で弾き切ったというのだ。マホには、手も足も出ないような上級者向けの曲。これまで、学年でピアノが弾けるといえば、マホと博之だったのに。
「マホも弾けるの?」
無邪気に友人から問われたマホは、うん、と頷いたものの、
「じゃあ弾いてみてよ」
と続けて乞われ、苦し紛れに、「暗譜はしてないの」と断った。
どうしてマホの学区に越してきたのか。転校して日も浅いのに、才能があるとちやほやされて、いい気になっている。男子なんて特にそうだ。外国人みたいに鼻が高くて、指が細くて、とか言っていた。家もお金持ちだと噂だ。私学に行っていればいいのに。ここまで目障りなうえに、同じコンクールに出ると博之から聞いたときは、はらわたが煮えくり返ってどうにかなりそうだった。
ふう、いけない、これから練習するのに、気持ちが荒ぶっていては――。
マホは音楽室の扉を引いた。五限は音楽なので、昼休みが終わるまで、練習するつもりだった。
「あ――」
ちょうど、奥のピアノに腰かけた、カレンちゃんと目が合った。向こうも同じように、あ、と口を開けている。何が、あ、だ。学校のピアノはあなただけのものじゃない。
マホは奥歯と、トルコ行進曲の楽譜を掴んだ手に力を入れて、カレンちゃんに近づいた。正面に立ちふさがったマホを、困惑した表情で見上げる顔。その顔を見ているうちに、「どいて」と言うより、もっと他に言いたいことが、聞き入れてもらいたいことがあることに思い至った。
「変えてくれない?」
「――へ?」
声まで憎たらしく透明なカレンちゃんが、渇いた疑問を呟く。
「自由曲。私もトルコ行進曲なの。変更してくれない? カレンちゃんなら、一か月あれば他の曲でも余裕でしょ?」
カレンちゃんは呆然と、だらしなく口を開けていた。これでも男子が見れば、蜜を秘めた花に見えるだろう。マホの口元が無意識に歪む。
「――いや」
「え?」
小さいが断固とした返答に、今度はマホが口を開けた。腹から胸の奥に、どす黒く渦巻く何かがせり上がってくる。
「私も好きなの。トルコ行進曲。私も弾きたいから」
カレンちゃんは早口で言って、すっと椅子から立ち上がり、音楽室を出ていった。
小さく、指も短い、ピアノを弾くには不向きな手。高速で移動させると、小指が欲しい音の鍵盤にとどかないこともある。
レドシドファーー
「ミーー、うん? ファじゃなくてミーー」
先生がスラリとした指でミを示す。弾き直しながら、教室である先生の家の、庭先を思い出している。しおらしいスノードロップは変わらないが、白薔薇が二輪を残し、全て消えていた。あれだけの花を咲かせていたのに、たった一週間で枯れるとは思えないし、なにより、引きちぎったような跡があった。どの季節にも花を咲かせる、よく手入れをされた先生の庭で、それは強い違和感を与えた。そういえば、と、マホは体でリズムをとりながら、教室の空気を肌に感じる。暖房は利いているはずなのに、薄ら寒い。居住スペースとは、ピアノの横の引き戸一枚で隔てられているが、中は水を打ったように静かだ。先生は以前、家族がいたが、今は一人暮らしらしいと母が言っていたから、それは当たり前か。でも……。
「調子が出ないようだから、休憩にしましょう」
先生が手を合わせて静かに言った。「ごめんなさい」と慌てて見上げると、先生は、
「待ってて、紅茶を用意するから」
と、ピアノの奥の休憩スペースを眼で勧め、居住スペースへ消えていった。勧められた通りマホは、低いテーブルと床におかれたクッションの間に立って、様子を窺った。休憩スペースからは、さっきちらりと見えた、おそらくリビングであろう殺風景な部屋の中は見えなかった。数分後、先生がティーセットを持って現れた。トレーの上の溢れんばかりの白薔薇に、マホはひやりと背中を花びらで撫でられたような悪寒を覚えた。
「この薔薇は食用なのよ。はい、シロップ。もちろんスノーシャワーで作ったわ。こうやって紅茶に浮かせても趣があっていいでしょう」
先生がてきぱきとマホの前にカップを用意した。ほんのりと湯気に甘い香りが混ざっている。その奥に別の香りも隠れている気がした。
――と、マホの正面に、すとんと座っていた先生が、一輪の白薔薇を手に、そのまま口へ運んだ。
「先生、何を――」
「え?」
手を途中で止めた先生は、こちらを向くと、白薔薇を鼻に近づけ、すうう、と匂いを嗅ぐ。
「こういう、私は生まれつき清廉で、天に愛されている、っていう姿を見ると、飲み込んでしまいたくならない?」
手の位置を下げると、まるで他人の魂を呑みこむように、先生は白薔薇を口に含んだ。マホは、先生の薔薇色の唇に吸い込まれていく白い花弁を、あっけにとられてただ見つめていた。咀嚼して喉を上下させると、先生は清らかに見える顔で笑った。
「マホちゃんにはまだわからないかなあ。どう? 食べてみる?」
手渡されたその一輪が、視界でぼやけて、カレンちゃんの顔になった。
マホは、両手で包むと、花びらを二枚、唇に挟んだ。歯で噛むと、優しい甘さが鼻に抜けるのに、舌は苦く感じて、気持ち悪かった。
先生は、んふふふ、と低い声でその様子を見ていた。
昼休みの終わりに、練習を終えて席に着こうとしていると、音楽の先生が手袋を持ってきた。
「佐藤さん、これ、カレンのものなんだけど、朝ここで練習して忘れて行っちゃったみたいでね、先生、届けようと思ってたけど時間なくて。代わりに持ってってあげてくれる?」
マホは黙って、大人びたピンクのファー付き手袋を受け取った。音楽の先生がマホとは違い、カレンちゃんを親し気に呼ぶことも、ピアノの才能の差を表しているように聞こえる。マホは手袋をぐしゃっと丸め、顔色を変えずに授業を受けた。頭の中では、マホのクラスの教室にある、黒板の隅でチョークの粉を被った画鋲を思い出していた。
今日は一段と、鍵盤を叩く指に力が入った。無駄な力だ。
「指は素早く上げてーー」
先生の声を聞き流しながら、目にはピアノではなく、手袋の右の人差し指に入れた画鋲が映る。カレンちゃんは、つゆとも知らず、「ありがとう」と受け取った。
頭を振る。意識をピアノに戻すと、嗅覚がいつもと違う臭いを捉える。
……なんだろう、この臭い。嗅いではいけないような、酷い臭いが漂ってきている。どこから――? あれ? 先生から?
ラシド#ーーラシド#シラソーー
「ソは#ーー、ほらマホちゃん、カレンちゃんに笑われていいの?」
マホは息をつめて、疑念を全て追い払った。鍵盤だけに向き合う。ただ、カレンちゃんが屈辱と羨望の表情をマホに見せる、それだけを思い描いて。
お弁当を食べ終わり、音楽室に入ると、カレンちゃんが課題曲のドビュッシー、アラベスク第一番を弾いていた。マホはドキリと立ち止まる。物音に気づいたのか、カレンちゃんも顔を上げた。お互いに目が合う。
画鋲のこと、気づかれている? 気づかないわけがない。でも、私は音楽の先生に言われて、手袋を届けただけ。私が入れたという証拠はない……。でも……。
マホの胸中では目まぐるしく疑問が渦巻いていた。カレンちゃんの真っ直ぐな視線からは、答えは得られなかった。
「連弾しよう?」
不意打ちの言葉に、マホは意味を理解するまでたっぷり十秒は必要だった。マホを演奏に誘っているのだと、カレンちゃんの少し緩んだ視線で気づいた。
「私と……?」
「他に誰がいるの」
「何を、弾くの……?」
くいくい、と手招きされ、マホの足は意に反して、カレンちゃんに引き寄せられた。カレンちゃんがピアノの譜面台に置いた楽譜を見て、マホが辛うじて悲鳴を上げるのを我慢できたのは、ひょっとして、という予感があったからだ。
カレンちゃんが素早くマホの座る位置が、ペダルから適切か確認したのがわかった。気を遣っているのか、何なのか――。
心配しなくても同じような背格好よ。見ればわかるでしょ。
マホはなんとなく居心地が悪かった。これはマホへの意趣返しなのだろうか。目の前のまっさらなトルコ行進曲の譜面が、メモ書きだらけの自分の譜面を思い起こさせた。
「私が高いほうでいい?」
カレンちゃんが微笑んだ。視線をピアノに移すと、幼い子供のような顔になった。
普通ピアノ奏者が、自分の指を傷つけようとした相手に笑えるだろうか。自分なら絶対に無理だとマホは横目で「うん」と返事をしながら思った。
この子は鈍感なのか、これは演技なのか――。
カレンちゃんの鍵盤に添えられた指を見ながら勘繰る。ふと、右手の人差し指に目がいく。見たところ、絆創膏が巻かれていたり、赤くなったりはしていないようだった。そのことにほっとする自分に、マホはうんざりと肩を落とす。
カレンちゃんが演奏を始めた。小さな音から、続いて弾きだしたマホの演奏を尊重するかのような、柔らかい弾き方だった。もっと、威圧するように激しくくるだろうと身構えていたマホは拍子抜けしながらも、間違わないように慎重に指を運んだ。右隣で、カレンちゃんの浅い息遣いが、軽やかな指の動きが見える。即興でアレンジしながら、マホの音を殺さないように、しかし主張するところは、マホがハッとする表現で演奏するカレンちゃんの音色と、いつしかマホの音は調和していた。何度も繰り返し、その度に新しい曲ができるようだった。マホはピアノを弾き始めて初めてアレンジをした。カレンちゃんのような、その曲に合った繊細な変え方は出来ないが、面白おかしく、猫ふんじゃったを加えたりすると、カレンちゃんが屈託なく笑ったので、マホもつられて笑った。笑ってから、我に返ってカレンちゃんを見やる。
なぜ――?
勢いを増すカレンちゃんの左の小指が、マホの右手に触れる。
わかっているんでしょ――? 私のしたこと――。
ジャン! と二人で弾き終わるのと、昼休みの終わりを告げるチャイムの音が同時だった。その直後、パチパチパチ、と音楽室中から拍手がした。マホのクラスの皆が、二人に送ったものだった。痺れた頭で、マホは笑顔の相方をぼんやりと見つめていた。
「凄いけど、カレンは次体育じゃないの? 遅れても知らないよお」
音楽の先生がいつの間にか背後に立っている。カレンちゃんは「そうだった!」と教室を出ていった。マホは、最後に弾いたトルコ行進曲は、初めて一つのミスもなく弾けていたことに気づいた。
力を抜いて、指は立てて、素早くトレル。私の強みは音がよく響くこと。間違えても怖気づかないこと。最後まで自信を持って――。
コンクール当日、会場のいつもより重いピアノの鍵盤と対峙して、マホは自分に言い聞かせながら課題曲と、自由曲を、何とか弾き切った。どうしても緊張して、二か所ミスをした。でも、気持ちは晴れている。
舞台袖で待機しているカレンちゃんとすれ違った。
「頑張って」
マホは意識してさり気なく、一言だけ声を掛けた。「ありがとう」と、カレンちゃんは僅かに眉を上げて答えた。
昨年は自分の出番が終わったら、結果発表まで会場外に出ていたが、今年は客席に戻った。博之を見つけて、隣に腰を下ろす。
「よ、ドンマイ」
「うるさい」
開口一番、ヒソヒソ声でミスを指摘され、マホは顔を
「先生知らない?」
博之はマホに聞きながら、小さく首を巡らす。
「見てないけど」
「他の教室の子も見てないって。変だよな。毎年来てくれるじゃん?」
そう言われれば、とマホも気にかかったが、カレンちゃんの出番になり、ステージに目を向ける。
薔薇色のドレスを卒なく着こなしたカレンちゃんは、お辞儀の後、椅子に掛けるやいなや、もう世界には彼女とピアノしか存在しないように、指を滑らせた。体の重心をしっかり固定して、跳ねるようなスタッカート、歯切れのよいタッチ。
ああ、やっぱり敵わないのかな――。
マホは感嘆と諦念の混じった息をつく。
でも、まだ諦めたくない。カレンちゃんには及ばないとしても――。
マホは、自分の気持ちがそう言ったことに驚いた。
結局、結果発表まで、後の子の演奏を全て聴いていた。そして、やっぱり自分はピアノが好きなんだ、そう思った。
結果発表が近くなると、会場に人が戻ってきた。マホの隣の空席にも、同じ教室に通う生徒が友人とやってきた。
自分は呼ばれない。だってミスもあったし……。
ソワソワしながら司会のアナウンスを聞いていると、隣で、「これ、教室――先生の家じゃない……?」と小声で話しているのが聞こえた。
よくスマホなんか見てられるね。電源を切って、ってさっき言われたのに――。
マホはイライラしながら横目で画面を盗み見た。
薄暗い会場に、スマホの
「入賞、佐藤真保さん」
へ――? あれ、今、誰か呼んだ――?
現実に引き戻されると、博之がマホの腕を小突いた。
私が、入賞――。
フワフワした感覚で、ステージに登る。賞状を受け取り、客席に顔を向ける。初めて表彰された――。ピアノを弾くときより手が震えている。せっかくの表彰状が手汗で濡れてしまわないかと心配になった。
そんな事を考えていると、いつの間にか表彰式は終盤を迎えていた。
「金賞、清水花蓮」
でしょうね。
マホは以前、先生に教えてもらった、ダマスクローズという薔薇を思い出した。深紅の照り映える、美しい姿。トロフィーを受け取るカレンちゃんは、あの薔薇のようだ。
カレンちゃんが振り向く。
マホは依然として薄れない嫉妬を八割、新たに生まれた心からの祝福を二割込めて、微笑み頷いた。
薔薇色に染めて 昼星石夢 @novelist00
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