不帰電車

森陰五十鈴

行き先は

 足を悪くした祖母に頼まれて、千景ちかげは風呂敷に包まれた箱を持って電車に乗った。最寄りから二駅。たった十分ほどの移動で、周囲は畑ばかりの閑散とした風景に変化する。

 寒さはようやくやわらぎ、春告げの鳥がはしゃぐ午後の道を行く。如何にも農家の住まいの家に風呂敷を届けると、千景はすぐに駅へと引き返した。

 花の咲いた桃の木。舗装された道路と畑との境目に植えられた菜の花。麗らかな空は淡い水色。華やかな春の色を拒むように、千景はモノクロを纏う。薄手の黒のワンピース。上には春物の白いジャケット。黒い肩掛けのポシェットを斜め掛けに。


 春の景色をさほど堪能することなく、千景は田園風景にぽつりと置かれた時代遅れの白漆喰の駅舎に入り込む。帰るための切符を買って、小さな四角い紙を機械に通して改札を抜け、階段を登り、連絡橋を渡り、ホームへと続く階段を下りる。古い壁に四角く切り取られた景色が開けたところで、千景は足を止めた。

 ひび割れたコンクリートの足元。白いペンキの剥げたトタンの屋根。左右をレールに挟まれた長方形の浮島は、冷たい夜の闇に沈んでいた。天井に照明はなく、しかし妙に明るい。南側の線路の向こうの景色を見た千景は、そのわけを理解した。空に満月があった。まるで地上を押し潰さんばかりに迫った大きな岩の天体が、かろうじて空に留まっている。

 その輪郭を撫でるように、線路の向こうで葦が揺れた。反対側も葦原だった。つい数分前に目にしていた麗らかな春の風景は何処にもない。

 千景は瞼を伏せ、一つ深呼吸した。目を開いても異界の景色に変わりはなかった。ゆっくりと振り向くと、今降りてきたはずの階段は消失していた。異界の狭間に囚われたことを悟り、観念した。

 抜け出すための条件を、探さなければならない。


 千景はホームの真ん中を歩く。売店や自動販売機どころかベンチさえないホームは、何処までも真っ直ぐ延びていた。さわさわと葦の揺れる音だけが辺りを包む。墜ちかけの月が作る影だけが、千景のともをしていた。

 少しうんざりしてきたところで、ようやく変化が訪れる。電車が顔を出した。昭和レトロを思わせる、金属の板に鋲の打たれた車体。丸いライトは白熱電球。古く温かみのある電車が、ホームの左右を挟む。色だけが違っていて、北側は茶色、南側はクリーム色だった。

 どちらも車内は無人だった。客どころか、運転手や車掌もいない。電球の照明だけが、乗客を待ち構えていた。

 扉は開かれていた。


 千景は電車に乗ることなく、前に進んだ。どちらも一両編成。その真ん中に位置するあたりに人が立っていた。二十くらいの女だ。柔らかな茶色のセミロングヘアー。華奢な身体には、薄い水色のブラウスと、くるぶしまでの群青のロングスカート。彼女は幸薄そうな顔を右へ左へと動かして、二両の電車を見比べている。

 千景は、女から幾ばくか距離を取って、足を止めた。

 女が千景に気付く。


「あの、この電車、何処に向かうんですか?」


 女はその場から動かず、かそけき声を張り上げた。胸に拳を当てた様が、彼女の不安を表していた。

 千景は視線を上側に向けた。ここだけは妙に現代的な、LEDの電光掲示板がぶら下がっている。発車時刻の箇所は全灯していて読めないが、行き先はオレンジの文字で表示されていた。一方は『高天原』。もう一方は『黄泉』。

 彼女には、読めないのだろうか。


「何処に行きたいんですか?」


 あえて行き先を読み上げることはせず、千景は夜風のような声に問いを乗せた。女は薄い眉を中央に寄せ、瞼を伏せて頭を振った。


「……分かりません」


 だが、行かなければならない、と女は言った。

 千景は女を観察した。挙動ひとつから彼女の心許なさが伝わってくる。独りでいることを好みそうになく、一人で決めることを良しとせず。


「あなたはどちらに乗るのですか?」


 だからこうして、たまたま出逢っただけの千景に選択を委ねようとする。


「私はどちらにも乗らないわ」

「そうなんですか?」


 女の見開いた目に失望が浮かぶ。その後、軽い不満のようなものが見えた。当てにならない、とでも思っているのだろうか。

 千景は口を閉ざした。そのまま、女の動向を注視する。彼女は月光のもとにも色の悪い唇を引き結び、険しい顔で左右の電車に視線を飛ばす。次第に、苛立ちを抑えきれなくなってか、その唇が曲がっていった。


「やらなきゃいけないことが、あるんです」


 女の声に張りが出た。少しの苛立ちが混じっていた。千景は密かに身構える。此処に引っ張り込まれた時点で、厄介ごとのなろうことは予想していた。


「巫女に選ばれたんです。だから、御神木で首を括って。啓示を持ち帰らなければいけないのに!」


 なるべく相手を刺激しないよう、動じないつもりだったが、さすがに顔を顰めた。何処かの新興宗教のことだと推察する。が、信者を命の危機にさらすとは。

 彼女が今どういう状況かは自ずと知れた。それでもなお、彼女は信じるのか。


「あなたが教えてくれるんじゃないんですか」


 挑むように睨んでくる女に、千景は首を振る。


「私は、ただの通りすがり」


 彼女に授けられる〝啓示〟など、持ってはいない。


「そんな……っ!」


 絶望に染まる女の顔を、千景はただ見つめていた。哀れには思うが、同情はしない。手も差し伸べない。差し伸べてはいけない。

 彼女は愕然とした顔を俯かせた。白い手が頭を抱えると、細い身体がぐらりと揺れる。


「早く……早く、帰らなきゃ……。兄さんが待っているから……こんなところで、もたもたしている場合じゃ」


 女は声を引き攣らせると、勢いよく顔を上げ、瞬く間に千景に迫った。


「ねえ、ねえ! 知っているんでしょ!? 電車が何処に行くか! 教えてよ! どちらに乗れば良いの!?」


 半狂乱になって高校生に縋り付く歳上の女を、千景は冷徹に見下ろした。


「……あなたは、何処へ行きたいの?」

「私は……兄さんのところへ帰るの!」


 彼女の目は血走っており、その必死さには狂気さえ滲んでいた。黒い瞳は濁り、悪意さえ感じる。

 だが、改札げんせへ至る階段は、ここにはない。

 千景自身も出る手段を知らない。


「まもなくー、電車がー、発車いたしまーす」


 唐突に割り込んだ男の声に、女の肩が跳ねた。不思議な抑揚と高さを持つ、よく通る声。視線を飛ばせば、無人だった茶色の電車から車掌らしき男が出てくる。紺色の制服は、現世でも見慣れた型のもの。


「お乗りの方はー、お急ぎくださーい」


 車掌は真っ直ぐにこちらを向いていた。妙に背の高い若い男。少し長めの髪の毛先が方々に跳ねているのが少し可笑しい。が、目深に被っているわけでもないのに目元に影が落ちていて、顔が判然としないのが不気味だった。

 その不気味さに、慄いたのだろうか。


「ねえ、あなたもついてきて!」


 いよいよ時間がないと悟った女は、それでも踏ん切りはつかないようで、なおも千景に迫ってきた。

 そんな彼女の撫で肩に、白い手袋を嵌めた手が置かれる。


「駄目ですよ。このお客さんは、別の切符を持ってますから」


 車掌が好意的な笑みを浮かべるのを、女は引き攣った顔で見上げた。


「私は、切符なんて――」


 カチ、と車掌の手元で小さな音が鳴る。手袋を嵌めた右手には検札鋏。

 小さな長方形の端に切れ目が入った切符が、呆然とする女の手の中に落とされた。


「そちらのお客さんの電車はー、この次に参りまーす。あちらでお菓子でも食べながらー、お待ちくださーい」


 車掌が指し示すほうを振り向くと、いつの間にかそこには白いベンチが出現していた。丸みのある、プラスチック製の座面。現世の駅でよく見られるものだ。

 救い手の指示に従い、千景は踵を返す。


「ま、待って」


 白いジャケットの袖が引かれて、千景は顔だけ振り返った。さきほど見せた狂気は潜み、不安だけが幸薄そうな顔に浮かんでいた。

 その顔を眺めている間に、車掌が女をやんわりと千景から引き離す。腕を掴まれた彼女は、呆然とされるがままに車内へと引っ張り込まれた。

『黄泉』行きの電車へと。

 助けて、と女の口が動く。


「残念だけれど」


 千景は頭を振った。


「残酷で醜悪だと思う。あなたはきっと踊らされただけ。でも――もう、どうしようもない」


 発車ベルが鳴り響く。今どき目覚まし時計でしか聞けないような、金属のベルを激しくハンマーが打ち鳴らすけたたましい音。顔色を変えて車外に出ようとする女の目の前で、音を立てて扉が閉まる。


「冥福を祈るわ」


 車輪が軋み、茶色の電車が動きはじめる。女が往生際悪く扉を叩いていた。空気笛が弔意を示したところで、千景は前を向き、ベンチへと寄った。三つ並んだ椅子の端へと座る。

〝菓子でも食べながら〟と黄泉行き電車の車掌は行った。千景は黒いポシェットを開く。財布とスマートフォンと。最小限の荷物に紛れて、ビニールに包まれた桃の形の焼き菓子があった。おやつに、とお遣いを頼んだ祖母が持たせてくれたものだ。


「……何処までお見通しなのかしら」


 黄泉へと行ったイザナギは、イザナミが放った刺客を桃の実を投げて追い払ったという。桃には邪を祓う力がある。

 桃の餡を包んだ焼き菓子を食みながら、千景はホームの屋根を見上げた。トタン板にぶら下がった駅名標。巨大な月が跳ね返した明かりに、『葦原中国あしはらのなかつくに』の文字が浮かび上がる。

 ホームを囲う葦原が風に擦れた音を立てる。音だけは現世と同様に春めいていて、千景は心地よさに瞼を閉じて、菓子の最後の一欠片を飲み込んだ。


 再び目を開くと、そこに月に押し潰されかけた葦原はなく、代わりに陽だまりに包まれた長閑な桃色と黄色の田園風景が広がっていた。

 ただ一人千景が居る古びたホームに、電車到着のアナウンスが流れる。ようやく家に帰ることができるらしい。

 千景は立ち上がり、足元の案内に従って電車が到着するのを待つ。


「……あちらに乗っていたら、彼女はどうなっていたのかしら」


 千景はクリーム色の電車を思い出す。あちらは『高天原』行きだった。彼の女には、神の元へ向かう可能性も一応は用意されていたのだ。

 あるいは、〝啓示〟を持ち帰っていたら。

 切望していた兄と再会した彼女は、その後どのような道を辿ったのだろうか。

 考えかけて、千景は想像を振り払った。


 桃畑の向こうに迫る山を睨む。中腹の辺りに、緑の斜面を侵す白い箱のような建物がある。見るたびに地元民が眉を顰めるその建物の用途は、まだ子どもである千景の耳にも入っている。


「ろくでもない」


 電車がホームに入る。ブレーキ時の金属音に、緊急車両のサイレンの音が紛れ込んだ。

 車両で視界が妨げられる寸前。桃畑の向こうで、救急車が山を登っていくのが見えた。

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不帰電車 森陰五十鈴 @morisuzu

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