6章 5話
ルジームの屋敷では、久しぶりの相手とも顔を合わせることになった。
と言ってもまだ半月ほどしか経っていないのだが。
キトは相変わらず何を考えているのかわからない黒い目で、そこにごく自然に馴染んでいた。
出くわせば、ハクトの方をちらと何か言いたげに見るのだが、結局何も言うことはない。
痺れを切らしたのはハクトの方だった。
「何か言いたいなら言えよ」
軽く睨みながらそう言ってみれば、キトは目を瞬かせる。
「なんの話だ?」
「いや……会うたびにちらちら見られてりゃ、オレも気になるって」
「……無意識だ」
参ったな、とキトは髪をいじる。
拍子抜けした気持ちで、ハクトは首を振った。
「何もないなら良いけど」
「いや、何もないわけじゃない」
「はぁ?」
意味ありげにそう言うと、キトは「着いてこい」と歩き出す。
無視してやろうかと一旦考えるのは、悪い癖である。
考えたところでどうせ着いていくのだから。
人は好奇心には逆らえない、まさにだ。
キトの行き先は武器庫だった。
近くの草原では兵士たちが訓練をしている。
「好きなのを選べ」
「なんで?」
「一度、君の実力を知っておくのも悪くない」
そう言うとキトは細身の剣を手に取る。
手の中でくるりと回し、これで良いかと呟いて草原の方へと足を向ける。
ハクトは少し迷ってから、今提げている自分の剣で良いかと思う。
ジスクの剣だが、与えられた以上は自分のものだろう。それにこれを使いこなせるようにならないと、意味がない。
自覚している以上に、ハクトはあの男にこだわっていた。
「短剣を選ぶかと思ったが」
キトが意外そうに言う。
「長剣をまともに振れるようになった方が良いらしくてね」
「まぁ損はしないだろうな」
ふと、魔術師と真剣で相対するのはこれが初めてだと気がつく。
ジラーグとのあれはあくまで模擬戦だった。
これだって訓練ではあるが、実力を知るためと言われている以上本気だろう。
じわり、と何か高揚のようなものを感じる。
面白いと思った。
自分もこの男の実力を、正体を知りたい。
「魔術も使ってくれて構わない。制限なしだ、殺す気でやれ。もちろんオレもそうするがな」
「上等」
「じゃ、今から始めだ」
そう言うや否や、キトは地面を蹴って剣を振り下ろしてくる。
剣で受けようとして、ふっと嫌な予感が過ぎって身体ごと躱す。
案の定、キトの剣の軌跡には水の飛沫があった。
何をする気なのかはわからないが、これに触れない方が良い。
後ろに飛んで安全距離を取る。
「届かないと思うか?」
キトがそう言った次の瞬間、振られた剣の軌道から水の刃が飛ぶ。
避け遅れた腕をそれが掠めれば、ただの水であるはずのそれは鋭くハクトの服を切り裂いた。
「そんなのもアリかよ」
「魔術で戦うってのはそういうことだ」
確かにハクトも雷の弾を飛ばしたりはするが、その性質を大きく変えることができるのは滅茶苦茶だ。
最初の一撃も剣で受けていたら、至近距離からあの刃を受けることになっていたと思うとぞっとする。
水の刃をなんとか躱しつつ、距離を詰めて、雷を纏わせた剣を振り下ろす。
キトは初撃を躱し、余裕を持った口ぶりで言う。
「雷の性質を知っているか?」
「はぁ?」
「水の上を走る」
「そんなことは……」
キトは次の攻撃を大きな水の膜で受けた。
剣の軌道は逸れ、雷はその表面を走って霧散する。
しまったと思うよりも先に、鋭い蹴りが腹部に飛んできた。
魔術で身体強化をしていたのだろう、通常考えられない威力で後ろに飛ばされ、胃液か血か何ともつかないものが口から溢れる。
ぐらつく視界とまともに動かない身体をなんとか動かして、追撃に備える。
「おっと、まだ立つか。じゃあ続行だ」
距離を詰めようとしたキトに、足元に隠していた短剣を投げつける。
それは予想外だったのだろう、キトの目線が避けるために逸れる。
その一瞬だけが狙いだった。
地面を蹴り、キトの足元にある飛ばされた水の刃の跡、水溜りになっているところに向かって雷を打ち込む。
キトの体勢が崩れる。
距離を詰めて、足元の水溜りを蹴り上げ、水滴で視界を塞ぐ。
あとは剣を振り抜くだけだった。
腹部を狙って左から斬りつける。
しかし剣は尖った音を立てて何かに阻まれた。
「良い判断だった」
キトが小さく笑う。
剣を止めていたのは、透明な……
「氷?」
「訝ってる場合か?」
顎を下から殴りつけられ、脳が揺れて一瞬何もわからなくなる。
耐えきれず膝をつけば、首元に剣がぴたりと当てられた。
「よし、勝負あったな」
「……頭が」
「脳は魔術じゃ保護できないし、治癒も遅れる。魔術師相手で狙うのは臓器だ」
「今言われても覚えてられない」
じわじわと痛んできた腹部を抑えて蹲る。
ようやくやりすぎたと思ったのだろう、キトが困ったように屈み込む。
「おい、大丈夫か?」
その横面を、ハクトは躊躇うことなく全力で殴った。
今度は良い音が鳴り、しっかりと肉と骨の感触が拳に伝わる。
キトがこめかみを押さえて溜息を吐く。
「……お前」
「一発くらいはやり返さないと気が済まない」
「良い根性してるよ」
「でもアンタの勝ちだ」
ハクトは力を抜いて、地面に仰向けに倒れ込んだ。
少し呼吸が楽になる。
そんなハクトを見下ろしなが、キトは首を振った。
「戦い方が荒すぎる」
「悪いか?」
「実戦向けだな。悪くはない」
あの埃を被った街では、お行儀の良い戦い方など誰も教えてはくれなかった。
「少なくともレオラの貴族連中と戦うのには役立つ。判断が早く、その場の条件を上手く使いこなせているのも良い」
惨敗ではあったが、キトの評価は悪くないようであった。
まるで対等には見られていないなと、悔しい気持ちが込み上げる。
ここまで完全に敗北したのは、いつぶりかわからない。
もしかしたら初めてかもしれない。
ジスクとの戦闘でもこれよりはマシだった。
「最後のあれ、何? 氷?」
一番の問題を問いかける。
水の防御ならば剣を弾くほどの威力はないと思っての攻撃だった。
それなのに、あれはなんだったのか。
「ああ。氷だよ。氷は水からできるだろ」
「……そういうのもアリなの?」
「そもそもお前、魔術をなんだと思ってるんだ」
キトが呆れたように眉を顰める。
「魔術ってのは彼岸の精霊の力を引き摺り出すものだ。氷に宿っているのも水の精霊なのだから、当然魔術として使える」
聞いたこともない話だ。
「俺が接続できるのは水の精霊だけだが、お前が接続できる雷の精霊も考えようによってはもっと幅が広がるだろうよ」
「誰もそんなこと教えてくれなかったんだけど」
「……まぁ、これは非公開の情報だったかもしれない」
キトが目線を逸らす。
ハクトは身を起こして、その顔をじっと見た。
「非公開の情報って?」
「……この国では魔術は神術ってことになってるから、精霊じゃななく神から力を借りているという建前であって……まぁつまり、学びたいと思っても、禁書庫やら何やらに手をつけなきゃ知れない情報だったな」
「なんでアンタはそんなこと知ってるんだ」
これは重要な質問だった。
キトの黒い目がハクトを映す。
ハクトはその目を見て、言葉よりも先にその答えを知った気がした。
「オレには特権があるから」
「……魔術師である特権ではないね」
「そりゃそうだ。オレは神官にならなかっただけで、あいつらと何も変わらない存在だ」
「アンタの目、その目に覚えがある」
ハクトは俯いて、キトのことを指差した。
「黒の女神の血筋はアンタに流れてるんだな」
キトを示す、その指先が震える。
ユシレはクリュソには王家が秘密裏に存在していると言っていた。
ユシレがそうでない以上、王家の血を引く男が、この国にはいるはずだ。
キトが薄く笑う。
「ユシレはそんなこともお前に話したか。一応国家機密なんだがな」
どんな気持ちでこの男を見れば良いのか、わからないままハクトは目を上げた。
「お前とユシレが親しいことはオレも知ってるよ」
キトはなんでもないことのように言う。
自分の中にこんなに湿った感情があるとは思いもしなかった。
ハクトは恨むような気持ちで口を開く。
「……なんでアンタは、あいつの側にいないんだ」
いずれは好きでもない男と国のために結ばれると、彼女はそう言っていた。
確かな諦めと、絶望を持った声音で。
今ハクトの胸の内にあるのは、嫉妬とも、怒りとも違った。そんなわかりやすい感情ではなかった。
キトは簡単な答えを口にした。
「別の人を愛しているから」
「……わかりやすい話だね」
「自分の運命が決まっていても、人はその通りには生きられない」
ユシレを哀れんで、何故彼女の側に生涯いられる立場でありながらそうしないのだと、詰るのは簡単なことだ。
だがそんなのはユシレの事情を先に知ったから思うことに過ぎない。
キトの生き方を非難できないことを、ハクトは悟っていた。
女王という席に縛られ続ける人生があるのだから、お前も生まれに縛られろなどというのは全くもって間違っている。
それでも、その運命の残酷さをハクトは呪わずにいられなかった。
この男もまた、母を母と呼ぶこともできず、愛する人と添い遂げることもできず、好きでもない女と国のために結ばれるのだ。
全くもって酷い話である。
「考えがまとまらない」
ハクトは素直に弱音を吐いた。
この男の前で取り繕うことはもう無駄だろうと思った。
「ま、オレもユシレもこの国に俺たちとして生まれついた時点で、運命の奴隷だったってわけだ。別に難しい話じゃない」
キトの言葉には何の感情もなかった。
ただ事実を述べるように、真っ平だ。
「……アンタ、逃げないのか?」
お前ほどの力があるのならば、どこへでもいけるだろうと、そう問いかける。
キトはしばらく黙って、それから首を横に振った。
「逃げるって考えはなかったな」
「レオラにでも、セロにでも、どこにでも行けば良い。そうすればくだらない運命からも自由に……」
「自由になりたいなんて思うのはだいぶ昔にやめた」
キトが腰を下ろす。
「オレの話を少しするなら、オレも昔から全部知ってたわけじゃあない。多分、君くらいの歳の頃だ、事実を知ったのは」
「…………」
「先代の女王が病になってな。ユシレが次代の候補になるのとほぼ同時に、まだ神官だったオレに真実が話された。余計な抵抗をしない代償に、神職から解放してもらった、元々性に合ってなかったしな」
キトの目に懐かしむような色が浮かぶ。
黒い石のようなその目を、初めて人間的だと思った。
それほど近くにいたからか、そう感じられた。
「ユシレが逃げないのに、オレだけ逃げるわけにはいかないだろう」
その言葉に乗っていたものを、何と呼ぶのか、ハクトは迷わなかった。
義務や諦めではない、全くの他人、憎むべき運命に定められた憎い相手への、愛だった。
キトが微笑む。
「ユシレを助けてやってくれよ」
「……アンタに言われなくても」
二人とも自由にしてやりたかった。
だが、誰のことも自由にはできない。
リディのことを自由にできなかったように、彼らのことも救えない。
自分には何もできなかった。
もう一度草原に倒れ込み、ハクトは溜息を噛み締める。
胸に広がるのは、虚しさばかりであった。
────────────────────────
午後、ふらりと訪れた図書室に、小さな姿があった。
ニーヤと言っただろうか。
高い位置の本を取ろうと、精一杯手を伸ばしている。
ハクトは何も言わず、その本を取ってやった、
少女が振り返って、ぐっと唇を噛み締める。
「……ハクト」
「取りたかったのはこれ?」
差し出せば、黙ってその本を受け取る。
また走り去って消えるかと思ったが、意外にも彼女はもう一度顔を上げて、ハクトのことを見た。
「びょうきのときは、しんかんさまをよぶのよ」
「……は?」
「白いかお。びょうき」
自分の顔色のことを言っているのだろうかと、ハクトは顔に手をやる。
こんな小さな子供に心配されるほど、酷い顔をしているとは思わなかった。
「……ご心配どうも」
「お母さまも、そんなかおだったから」
確か、母親は四年前に死んだと言っていただろうか。
「君、今いくつ?」
「ななさい」
両の手を使って、七と示してくる。
ということは、母親が死んだときは三歳だったということだ。
別に、幼い頃に親を失うのはロベッタでは珍しい悲劇ではなかった。出産の時に死ぬ母親も多くいた。
ハクトの親も、どうせそんなところだろう。
だが少しでも記憶に残っているということが、知らないこと以上に残酷であることを、ハクトは知っていた。
ルジームは母の愛を知らない子と言ったが、十分に知っているじゃないかと思う。
「オレのこと嫌いなんだっけ」
そう聞いてみれば、少女は少し申し訳なさそうに眉を下げ、しかし次にはぐっと本を掴む手に力を込めてハクトを睨みつけた。
「きらいよ」
「そっか」
「……おこらないの?」
「お兄さんたちが大切なんでしょ。怒らないよ」
子供と接するのは調子が狂う。
言う必要がないことを言ってしまったり、言うべきことを言えなかったり。
今回も少女が戸惑うように目を揺らしていたから、言う必要のないことを言ってしまった。
「好きな人を、大事にね」
自分ができもしないことを、言ってしまうのは何故だろうか。
誰のことも大事になんてできたことはないと言うのに。
カロアンとはあんなザマだったし、リディのことも大事にはしきれなかった。あんなふうに失った。
ユシレのことも、いずれ失うだろう。
いずれ傷つけると、傷つくとわかっていて近寄るのは、大事にすることではない。
それでもこの小さな子供には、自分の好きなものくらい大切に守って欲しかった。
自分が、キトが、誰もがそうはできない世界だから。
こんな希望を託されても迷惑だろうに。
ニーヤは目をぱちりと瞬いて、小さく頷いた。
「ありがとう」
下を向いて、小さく呟いて、駆けて去っていく。
黒い服の裾を翻して、少女は暗い廊下を走っていく。
その後ろ姿に何かを見そうになって、ハクトは額を抑えた。
神の声が頭に響く。
『覚えておけ。今のは未来だ』
「うるさい、黙れ」
『乙女に喪服を着せるのはどんな悲しみだろうな』
「それはお前が生涯理解しないものだ」
強い拒絶を持って神を拒む。
薄暗い部屋の書棚に凭れるようにして、首を横に振れば。現れたときと同じように唐突に、神の気配は去っていった。
外を見ずとも、雨が降っているのだろうと感じる。
「お前らの人形遊びになってやるつもりはないんだ」
確かな意思だった。
神だか、運命だか知らないが、そんなものに操られるつもりはない。
誰もが抵抗をやめてしまうのだとしても、せめて自分くらいは、最後まで。
戦えるのだろうか。
自分に問いかける。
たった一人の戦いだとしても、自分にそれができるのだろうか。
「……リディなら、オレを信じてくれたかな」
暗がりに吐き出す。
自分では自分を、信じられそうになかった。
だから微かな光に縋ってしまう。
それがどんなに遠い光だとしても、確かに今も自分の傍にあるのだから。
朝焼けの年譜 第1部 四十内胡瓜 @kyuuri_aiuti
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。朝焼けの年譜 第1部の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます