6章 4話

「ザミス。少し話をしようよ」


 何故そんなことを自分から言い出したのかわからなかったが、彼も拒むことはなかった。


 だから、多分、今日はそういう日だった。


 真夜中の自室、ラルディムはザミスと向き合いながら、自分の過去と向かい合っていた。


「君とは真面に話したことがなかったね」

「……そうですね」


 ザミスが少し目を伏せる。

 彼にも思うところはあるのだろう。


「ことは君が私を嫌いだとか、そう単純なことではないんだと思うんだ。君は私を通してもっと多くのことを見ている、そうだね?」

「……根っこが別のところにあるのは認めましょう」

「君はこの国が嫌いなのか?」


 ザミスの目が、答えに迷うように揺れる。

 その逡巡の時間だけで十分な答えだった。


「そうなんだね」


 ただ微笑めば、ザミスは下を向く。


 伏せられていても、その表情に悔しさが滲んでいるのがわかった。


 兄を敬愛する彼は、兄のようにはなれなかったのである。

 何の疑いも持たず、いや、疑いを持っていたとしてももっと大きな何かのためにそれを見過ごすような、そんな生き方は彼にはできなかった。


「兄も父も、国のために戦い死ぬことが幸福だと言います。僕はそうは思えない。どうしても」


 何を見ても、自分の信じる正義から外れることができない。

 彼はそういう人間だった。


 国や王家のためには生きられない。

 まして戦場や政治で命を無駄にすることなんて。


「それで良いと言ったら、君は欺瞞だと怒るかい?」


 ラルディムは翡翠の目をついと細める。

 ザミスは少し顔を上げて、その鋭い目でラルディムを睨んだ。


「臣下は王家のために死ぬのが当然だと、貴方がそう思っているとは思いません。しかし貴方がどう思おうと、現実は変わらないのです。ですからその言葉には、何の意味もありません」


 そう、ザミスの言葉は正しい。

 誰が何と言おうと、この国において臣下の命は王のものであり、ラルディム一人の意思や思想など何の意味も持たなかった。


「それ故に、君は私とは永遠に相容れないわけだ」


 それは単に事実の確認であった。

 ザミスがどう思っているのかの。

 なんと答えが返ってこようとも、それで諦めるつもりはなかった。


 だがザミスが見せたのは、意外な反応だった。


 困ったような顔で、彼は首を横に振る。


「僕はどうすれば良いんですか」

「……どうとは?」

「貴方に八つ当たりをするのは、手近で反撃をしてこないものを選んでいるだけに過ぎないでしょう。それは自分でもわかっているんです」


 そんなに正直に彼が話すのを聞くのは初めてだった。


「僕はこの国の在り方に怒りを抱いている。でもそんな怒り、何にも通用しない。せいぜい貴方を思い悩ませるくらいだ。今はもうそんな虚しさもない」


 ザミスの八つ当たりには真面に対応しないと、そう言った。

 つまり彼の答えのない踠きは、今やラルディムを苦しめることすらできなくなってしまったのだ。


 それでもザミスの意見には、意思には正面から応えたいと思う。


 問題は彼が、自分の怒りと正義をどう区別するかだった。


「君は自分が間違っていると思うかい?」

「……いいえ、断じて。ですが手段は誤りました。僕の敵は初めから貴方ではなかった」


 ザミスの敵はラルディムではない。

 その言葉を聞いて、ラルディムはようやく過去から解放されたような気がした。


 そうだ、自分の敵もまた、ザミスではないのだ。


 ザミスは幼いラルディムにとって、最も大きな恐怖だった。

 今はもう、そうではない。


 そうではいられない。


「敵でないのなら、友になれるだろうか」


 ラルディムは手を伸ばして、ザミスの手を取った。


「私にはまだ何の力もない。世界を変えることはおろか、国一つ動かすことはできないだろう」

「…………」

「けれど私はいずれ力を得る。然るべき者たちの協力と賛同があれば、だが。それに君の望みを賭けてみてはくれないか」


 何かを約束することは苦手だ。

 それを果たせる力が、自分にあるとは思えないから。


 それでもザミスには、何かを約束してやりたかった。


 彼の、この古臭い時代にはそぐわない正しさを、本当の正しさにしてやりたかった。


 ザミスのことが好きだからではない。


 それが正義だと思うからだ。


 彼のためではなく、彼の願いが叶えば良いと思う。


「貴方に陛下より、ファズレム様より良い治世を作る覚悟がおありだというのですね?」


 ザミスの青い目は、相変わらず逃げることを許さない光を湛えていた。

 今はその光が、自分を支えてくれると感じる。


 ここで立ち続けさせてくれると。


「はっきり言って、殿下の治世は戦乱の世になるでしょう。陛下の代でクリュソとの因縁が終わるとは思えません」

「ああ、そう思う」

「国の外と戦争をしながら、かつ国を変えるだけの力が、貴方にあると?」


 ザミスは一つ勘違いをしていた。

 ラルディムの強さとは、ラルディム自身も自覚的ではなかったが、個としての能力の高さではない。


「私にそんな力はないだろうね」


 ラルディムは微笑む。


「だが君にはその力がある。ジスクにも、ロガレルにもあるだろう。だから私には、君が必要なんだ」


 ザミスがゆっくりと、目を閉じて、開く。


 力が、何か張り詰めていた気負いのようなものが、抜けたようであった。


 そして微かに、本当に微かに笑った。


「そうか。兄上は貴方に夢を見たのか」


 ザミスの中での、一つの納得だったのだろう。

 何度か確かめるように頷く。


 ザミスはラルディムの手を握り返した。


「ですが、僕は捻くれた人間です。性質は真っ直ぐじゃないし、別に性格も良くない。だから貴方をすぐには自分の王としては認めません」

「もちろん。それでこそ正当だ」

「ですから貴方の側で、貴方がそれに足る人物なのか見定めようと思います。貴方の最も近く、最も忠実な裁定者として、貴方を測り続けましょう」

「……私の近侍で居続けてくれるかい?」


 それが今日問いたかったことだと、口にして初めて理解する。


 ザミスが自分から離れるのではないかと思っていた。

 今日は、そうなってもおかしくはなかった。

 それを止めたいと、思っていたのだろう。


 何故か。


 ラルディムの意地であり、戦いたい場所は常に彼のあの青い目の届く場所であったからだ。


 ザミスはすっと目を細める。


「貴方が嫌だと言っても、側で仕えますよ」


────────────────────────


 レオラの王城には地下がある。


 それは牢であったり、保管庫であったり、どちらにせよあまり人がいつく場所ではないのだが、今晩は珍しく二人の姿があった。


「遅くまでご苦労だね、ジスク」

「……ロガレルか」


 警戒をふっと解いて、しかし表情は厳しいままジスクは壁にもたれる。


「こんな夜に何を?」


 ジスクが怪しんでそう問い掛ければ、ロガレルは「なんでもないさ」と手を振る。


「眠りが浅かったから、昔の資料を見ててね」


 資料といっても、こんなところにあるのは行政上の諸々で、さほど面白いものでもないだろうにと思う。


 ロガレルの手元に酒瓶があるのを見つけて、しかし別に何か言う必要もないだろうと無視する。


「東部領主殿はこんな時間まで拷問かい?」

「尋問だ。まぁなんの意味もなかったがな」

「政治犯じゃあなかったか」

「ああ。ただの盗賊の類だ。貴族の馬車を狙って、ここ最近犯行に及んでいたらしい」

「レオラの治安も終わったもんだねぇ」


 ロガレルがけらけらを笑う。

 自分の主君とも言える人が襲撃されたというのに、なんとも冷たい男だ。


 ことの重大さを、そのよくできた頭でよく理解しているだろうに、まるで理解していないかのように振る舞う。


「笑い話ではないんだがな」


 意味のない苦言を呈してしまうのは、自分の愚かさだろう。

 ロガレルが笑みを引っ込める。


「メミラのことは一度叱らなきゃならんかもな。あいつ、まさか街にまで連れ出すとは思わなかった」

「彼女らしい行動だろう」

「君が協力しなきゃこんなことにはなってなかったんだぜ?」

「判断が甘かったのは認めるが」


 確かにこの落ち着かない時勢に、殿下を街に連れ出したのは過失だったかもしれない。


 だがあの人もいつまでも城の中にばかりいるわけにもいかないだろう。

 王族が城に籠っていれば、国は弱る。


「ま、万が一すらない面子を揃えてくれていたわけだし、良しとするか」


 ロガレルが酒瓶を煽る。


「それよりも君の弟の言動と、我が従妹殿の言動だよね」

「なんでお前はこの早さで詳細を知ってるんだ」

「どんだけの人が見ていたと思ってるのさ」


 つまり、人さえいればこの男には筒抜けだと思った方が良いと言うことだ。


「どっちから片付ける?」

「ザミスのことなら、あいつは反省しているよ」

「あいつがぁ?」


 信じられないとでも言いたげな、大袈裟な口調でロガレルは首を振る。

 謂れのないことでは全くないが、ロガレルからのザミスへの評価は酷すぎるような気もする。お得意の能力主義でなら、愚弟のことを許せる部分もあるだろうに。


「ザミスにも分別はあるさ」

「あるかねぇ」

「まぁ、ここ最近備わったといった方が正確かもしれんが。殿下との関わり方も、またあいつの中で考えるだろうよ」

「主君の手を汚させようとした奴を、まだ近侍に据えるつもりかい?」


 どうなんだろうな、と首を傾げる。

 どの道その決定権はジスクにはない。


 殿下は意地だといっていたが、彼に変える気がないのであれば、そのままで良いだろうとジスクは思っている。


 どんな決断だろうと、それが悪い判断だろうと、本人が決めたことならそれは尊重されるべきだ。


「殿下とザミスのことは、二人の間で決めることだろう。そのくらいは二人ともできる。お前は殿下を子供扱いしすぎているな」

「子供扱いってわけじゃないさ」

「じゃあなんだ?」

「……君にはわからんさ」


 ロガレルは何かを振り払うように首を左右に振る。


 全く掴みどころのない男である。


 殿下に対して、なんの愛もないかのように振る舞う姿が根底にあるのに、表面では人間的な情愛を持っているかのように生きる。


 いったいどちらがこの男の本性なのだろうか。


 どちらにせよ、ジスクにはロガレルを信用するつもりはなかった。


「そんじゃ、問題はうちのお嬢様だな」


 ロガレルが頭を下げて大きくため息をつく。


「全く、本気で婚約を受けるとはな……」

「別に良いんじゃないか?」

「君って変なところ軽いなぁ」


 そこまでロガレルが頭を悩ませる理由を、ジスクは理解していなかった。

 未来の主君に、能力も性質も信用できる人間がなるのであれば、喜ばしいではないか。


「君にも問題が降りかかることなんだからな? 元婚約者の関係なんて、良い噂の種になるぞ」

「噂話を気に掛ける俺だと思うか。どうでもいい」

「はぁ、あのお転婆が国母様か」


 そこまで聞いて、これは真面目に聞く必要のなかった話だなと思う。


 別にロガレルも本気で問題だと思っているわけではないようだ。


 当然、領主家同士の力関係など諸問題はあるだろうが、それはどうとでもできることだ。

 自慢の妹分が王妃になることの、喜びや実益の方が大きい。


「あの二人が上手くいくと良いと、俺は思ってるよ」


 実際、上手くいくだろうと思いながらジスクは言う。


 どちらも聡明で芯が強い。似たところはあるが、欠けているものを互いに持ち合わせている。


 メミラが口にしたように、それが殿下の孤独の答えになれるかはわからないが、少なくとも本当に独りでいるよりは大いにマシだろう。


「そりゃ、俺だってそう思うけどさ……」


 何やら口篭って、ロガレルは天を仰ぐ。


「駄目だな、酔ってるかもしれない」

「初めから大分酔っていたと思うが」

「嘘だろ。言ってくれよ」

「お前、酒は弱いだろうに」


 何から何まで、頭の中以外はまるきり子供のような奴なのだ。

 酒に弱いのも、弱いくせに好むのも、昔からだった。


「…………」

「それ、何を迷ってる顔?」

「何があってこんな場所で酒なんぞ飲んでいるのか、聞いてやるかどうか迷っている」

「聞いてくれなくて良いよ」

「口に出した以上は聞いたのと同じだ」


 ロガレルがふっと横を向く。


 灰色の目が、ランプの炎をじっと見つめていた。


「ソジットのことか?」


 その隣に腰を下ろす。

 ロガレルは曖昧な表情をしたが、否定はしなかった。


 この男のことは昔からよく知っている。

 ジスクは幼い頃、一時的に南部領主家に預けられていたことがあった。その時からの付き合いだ。


 ソジットのことも無論よく知っていた。


 仲の良い二人だった。

 誰が見ても、そう言っただろう。


 ロガレルとソジット、それからサガラムの三人は、明らかに強い絆で結ばれていた。


 同じ夢を見ていた人間たちだ。


 だがその夢は、今はもうない。


 誰も同じ場所にはいない。


 ロガレルが微かに口を開いて、息のような声を漏らす。


「……あいつ、俺のことを怒っていたかな」


 ジスクは何も答えなかった。


 答えを探すならば、是だろう。

 初めに裏切ったのはお前じゃないかと、あの男はそう言った。


 ロガレルがラルディムについたことを、裏切りと呼んだ。

 ロガレルが本当にサガラムの派閥から離れたのか、ジスクは疑わしいと思っているが、少なくともソジットはそうだと思っていたのだろう。


 だから怒っていたかと尋ねるのならば、怒っていたはずだ。


「別に俺は悪いことをしたわけじゃない。裏切り者には死を、そんなのは当然のことだ」

「…………」

「だから罪悪感なんてものはない。だけどな、あいつの夢を見るんだ」

「……責められるのか?」


 死んだ人間の夢を見るのは、珍しいことじゃない。

 戦場に生きる人間ならば、誰もが一度はそういう体験をしている。


 死んだ同胞を、殺した相手を、夢に見るのだ。

 恨み言と共に。


 だがロガレルは首を横に振った。


「あいつ、笑ってるんだ。何もなかった昔の頃のあいつ、そればっかり夢に見る」


 それは、何よりも、辛いだろうと思った。


 ジスクはサレンの夢を、ロベッタで殺した彼の夢を見ていない。

 だがふとしたときに、その笑い声を耳に思い出すことがある。


 その瞬間だけは、心の底に波が起きる。

 耐え難かった。


「呪いも祟りもないな、この世ってのは」


 ロガレルが乾いた笑い声を立てる。

 ジスクは首を横に振った。


「お前に言う言葉はないな」

「……そうかい。ありがとうな」


 慰めようとは思わなかったし、共感を口にしようとも思わなかった。

 そのいずれも余計なものだった。


 人の死は、自分で噛み締めるしかない。

 そうして死を連れて歩いていくのだ。


「これからもっと酷くなるぞ」


 それだけ言って、ジスクは立ち上がった。


 そのまま振り返らずに地下を出る。

 明日にはまた憎らしいまでのあの男の笑顔に出会うのだろうと、そう確信していた。

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