6章 3話

 好きなもの、なんてものが人生にできると考えたことはなかったが、海のことは好きだと思う。

 ハクトは船の淵に顎を置いて、ぼんやりと光る海面を眺めていた。


 今日船に乗っているのは、ルジームからの提案でだった。少しの間大陸にあるルジームの屋敷で馬術の訓練をしないかという、まぁ提案に見せかけた半ば強制的な話だ。


 ハクトとしても別に異論はなかったので、大人しく船に乗っている。


 それにしても眠れるというのは気持ちの良いことだった。

 薬を飲むようになってから、悪夢や予知夢を見ることはなかった。


 くありと欠伸をして、腕の中に顔を埋める。

 耳を擽る波の音が心地良かった。


「ハクトさんが海を好きになってくれたみたいで、嬉しいなぁ」


 顔を見なくてもにこにこと人懐っこい笑みを浮かべているのがわかる声音で、イジェルが言う。

 ハクトは少し頭を上げて、横目に彼を見た。


「別に好きじゃないよ」

「そんなこと言って」


 知ってるんだとでも言いたげな笑顔でイジェルは首を振る。

 ハクトはそれ以上否定することもなく、薄い笑みを返した。


「そうだ。君に会ったらポレットってどんな国なのか聞こうと思ってたんだ」


 ディアードに聞いても良かったのだが、彼以外がその国をどう語るのか、興味があった。

 しかしイジェルは困ったように眉を寄せる。


「いやぁ……僕もあまり詳しくなくて。なんせポレットを出たのは小さい頃でしたから……」

「印象程度でいいよ。こんなのはどうせ雑談なんだから」


 自分で言って、自分で少し驚く。

 他人と雑談をしようなどと思うのは、かなり稀なことだった。

 不本意ながら、自分の性格も変わっていると思わざるを得ない。


 イジェルが伺うようにルジームたちの方へちらと目線を向ける。


「えっと……海に面した小さな国だったんですけど、特徴といえば王様のいない国で。議会が国を動かしていたんです」

「へぇ」


 少し目を見開く。

 そんな国があったのだとしたら、それはまさしくロベッタが理想とした国の姿だろう。

 もしかしたらあの街の手本だったのかもしれない。


「今はクリュソの属領になっていますが……僕らは戦争が激化する前にクリュソにとある神官様の手引きで脱出した人たちで、だからあまり大きな声でポレット人とは言えないんですけどね」


 そう言ってイジェルは困ったように笑った。

 とある神官、というのは間違いでなければ知っている男のことだろう。


 ハクトは首を傾げる。


「なんで?」

「なんでって……?」

「なんで自分の故郷を主張できないの?」


 イジェルが青い目を揺らす。


「だって……国に尽くしたわけでも、長く暮らしていたわけでもないし、それにそんなこと言ったら周りが……どう思うか」

「どう思われたくないわけ?」


 海風が強く吹く。

 鬱陶しい髪を耳にかけて、その目を合わせる。


「どう思われたって良いでしょ。生粋のポレット人が不快に思ったって、クリュソの奴らに目をつけられたって、別に君が困ることはない」

「……そう、かもしれませんが」

「誰だって他人の心の故郷は奪えないものだよ。オレもクリュソ人じゃない」


 イジェルがその大きな目を瞬かせて、それからゆっくりと、微かに頷く。

 二度、三度頷く。

 その顔に笑みが浮かぶのを見て、ハクトも小さく笑った。


「……ポレットは、本当に美しい国なんです。白亜の街に、色とりどりの染め布が街に翻っていて……黒の女神様に祈りを捧げる神官様たちの声が聞こえていて……。太陽が、ここより少し明るいんです」

「うん」

「海のそばにいると、少しでもあの国の近くにいられるような気がして……変だな、あの国には十歳になるまでもいなかったのに」

「オレも見てみたかったよ。そんな国なら」


 ハクトはまた海に向き直る。

 その後ろ姿に、イジェルはふわりとした声で尋ねた。


「ハクトさんの故郷は、どこなんですか?」

「オレの?」


 ロベッタが己の故郷であると、言えるだろうか。

 いや、そう言いたいだろうか。


 考えて、どうもしっくりこないなと首を傾げる。


 アニエはもちろんのこと、カロアンであってもレミであっても、迷うことなくあの街を故郷と呼んだだろう。


 リディは?


 心の帰る場所を故郷と呼ぶのであれば、リディにとってのそれは、真に故郷たるレオラではなくて、あの埃っぽいスラム街であって欲しいと思う。


 ロベッタを故郷とは呼ばない。

 だけれども、そこにリディがいるのであれば、正しく自分の心の帰る場所であるだろうと、そう。


 ハクトは目を瞑った。


「オレは紙吹雪みたいなものだから。誰の籠から生まれてどの地面に落ちても、宙にいる時間が一番長い」


 答えのような、答えにもならないようなことを言うだけ言って、また意識を海に戻す。


 還るのならば、こんな穏やかな海が良いかもしれない。

 空に生きて、海に終われるのならば、それは良い生き方ではないだろうか。


 瞼の裏側からでも、海の光は目に届いていた。


────────────────────────


 それは随分と広い屋敷だった。

 門に入ってからも、しばらく馬車に揺られ続ける。


「そうだ、君には我が家のことを少し話しておかなければいけないな」


 ルジームが思い出したように言う。


「我が家は常に喪中でね」


 こともなげに言われるその言葉にハクトは眉を動かす。

 ルジームの目からは何の温度も感じ取れなかった。


「女主人が……まぁ私の妻だが、彼女が死んだのが四年前。息子たちが死んだのが二年前だ。喪に服する必要はないと言っているが、家人は忠実でね。いつまでも葬式中のような家だよ」


 妻にも息子にも先立たれて、この男は何を思っているのだろうか。


「我が家の醜聞はいずれ耳にすることになるだろうが、あらかじめ話しておこう。私の次男は反逆者でね。ことが露見し、兄が弟を始末した。だが心が弱かったのだろうね、兄も後を追ったよ」

「…………それは」

「君から悼む言葉や気遣いを引き出そうとは思っていないさ。気にしないでくれ」


 別に、そんな言葉を言おうとしたわけではなかった。

 ただ何かを言いたかったのだ。


 それが何かはわからない。


 ルジームが宰相を辞めたのも、次男の裏切りがあってのことだろう。

 それでも、息子が見限ったこの国にこの男は尽くし続けている。

 

 まともな精神ではない、と思う。

 それとも誰も愛してはいないのか。

 それを測れるほど、ハクトはこの男のことを知らない。


「ただ君に理解してもらいたいのは……小さなお姫様についてだな」

「お姫様?」

「私の幼い娘だ。母の愛を知らず、代わりに愛してくれた兄たちを失って、不安定になっている。出会うことがあったら、理解してやってくれ。君が小娘の言動を気にするとは思わないがね」

「……わかった」


 ちょうどその時、がたりと音を立てて馬車が止まる。

 ルジームの後に続いて外に出れば、ぱたぱたと小さな子供の駆ける音が聞こえてきた。


「お父さま!」


 屋敷の扉から、侍女の手をするりと抜けて少女がルジームに飛びつく。


「おかえりなさい、お父さま」

「ああ、ただいま。ニーヤ」


 ニーヤと呼ばれた少女は黒い服を揺らしながら、安心したように息をついて、父から離れる。 

 そうしてハクトを見た。


 一瞬の沈黙。


 それから、彼女は思い切り顔を顰めた。


「あなたがハクトね」

「まぁ」

「わたし、あなたのこときらいよ」


 少女にできる精一杯の抵抗の顔なのだろう。小さな顔を一生懸命に歪ませて、何かを訴えようとしている。


 ハクトは何とも言えず、首を傾げた、


「はぁ」

「ニーヤ。他人にそういうことを言うのはやめなさい」

「お父さまもいけないのよ。わたし、ぜったいにいやだから!」


 それだけ言うと、ニーヤは逃げるように屋敷の中へと駆け込んでいった。

 ルジームはハクトを振り返って、肩を竦める。


「そういうわけだ。理解してやってくれ」

「ガキにどう思われても構わないけど、なんで嫌われてるわけ?」

「まぁ、なんだ。私が兄たちの代わりを見つけてきたと思っているんだよ」


 予想外の言葉だった。


「君のことはそこそこに話題になってる。私が自分の後継を探してきたんだという噂も含めてね。まぁ根も葉もない噂とは言えないね」

「はぁ?」


 身に覚えのない話に顔を顰める。


「そんな話は聞いてないぞ」

「言ってないからね。私が後継を探しているのは事実、その無限にいる候補から君を外す理由はわざわざない」

「外しとけ」

「ゆっくり考えることにしよう」


 ルジームは微笑む。

 ハクトは睨むように目を細めて、歩き出そうとするルジームに声をかけた。


「アンタは腹が立たないの?」

「……何にだい?」

「息子たちに代わりなんていないでしょ」


 それは多分、この男の善性を確かめたいという質問だったが、半分くらいは彼の表情が揺らぐところを見たいという思いからだった。


 息子が死んでも、それも事故や病気ではなく残酷な死を迎えても、たった二年で代理を探す人間だと思われて、この男は何を思っているのだろうか。


 怒りすらもないのだろうか。


 ルジームは青灰色の目を少しも揺らすことなく、ゆっくりと微笑んだ。


「個人の考えで言えば、人は一人ひとり特別であり、代わりはいない。家としての考えで言えば、一刻も早く代わりは必要だな」

「…………」

「お気に召す答えではなかったようだね。だが世間の風評や血の通わない言葉に逐一怒っているようでは、あまりに生きるのが大変じゃあないか」

「息子たちを愛してる?」

「もちろん、愛していたとも」


 愛していないと言われたのならば、この男は建前に生きているか、あるいは冷血人間なのだと、関心を寄せる価値もないと思えただろう。


 愛していると答えたのならば、この男の善性を見つけることができただろう。


 だが得た答えは、愛していた、だ。


 全ては過去の話。

 単純な事実の話でしかなかった。

 結局、ルジームのことは何も読めない。


 ちっと舌打ちをすれば、ルジームは愉快そうに笑った。


「はは、君も若いね」

「うるさい」

「というわけだ。食事の席では皆と顔を合わせることになるだろう。ニーヤの無礼は許してやってくれ」

「はいはい」


 クリュソらしい木造建築と石造りの土台が絡まった、複雑なこの屋敷を見上げる。

 窓は皆、黒い布で覆われていた。


 屋敷に入っていくルジームの背中に、ハクトはため息をついた。


────────────────────────


「なかなか上手かったじゃないか」


 半日馬に振り回されて、草原に寝転がったハクトにロルフが声をかける。

 ハクトは疲れ切った頭を左右に振った。


「動物は嫌いだ。何考えてるのかわからない」

「人間の考えていることはわかるのか?」

「……わからんやつもいる」


 思い浮かんだのはもちろんルジームのことである。


「アンタの主人ってどうしてああなの?」

「ルジーム様のことか? ああ、とは?」

「いつも何もかもわかってますよって感じで笑って、全然読めない」

「他人を読もうとするのが傲慢だろう」


 ロルフが呆れたように言う。


「そもそも我々とは考えていることの次元も違う。理解などできるはずもないさ」

「でも同じ人間だろ」

「俺はレオラ人ではないから、高貴な人などとは言うつもりはないが、理解の及ばない御方はいる」

「アンタと話してもつまんないわ」


 ハクトはごろりと横を向いて顔を背ける。

 他人を崇拝している人間というのは駄目だ。そこで思考が止まってしまっている。

 その時点で、ハクトとは分かり合えない。


「……それに、ルジーム様はお前が言うほど変な人ではないぞ」


 ロルフが隣に腰を下ろしたのがわかる。


「奥様が生きていらした頃は、もっとよく笑い口数も多い方だった」

「……今でもよく笑うしよく喋るけどね」

「お前がどう思っているのかは知らないが、あの方は冷酷ではない」

「怨みに取り憑かれた亡霊のような男……だっけ」

「……なんだ、それは?」


 ディアードの言葉を思い出し呟いてみれば、ロルフが怪訝な声を出す。

 その顔に少し目を向ければ、本当に何も思い当たりはないようであった。


「……別に」

「誰かがルジーム様のことをそう言ったのか?」

「まぁ」

「あの方は誹謗されることも多いが……そんなことまで言われる筋合いはないはずだ。そもそもあの方は誰への恨みも口にしない」


 本気で心外だと、怒っている顔であった。

 下手な話題を振ったなと後悔する。

 ハクトは目を瞑った。


「アンタはあの男を信じてる。崇拝してる。見えないものもあるだろうさ」

「誰よりもあの方のお側にいる」

「近いと目が眩むだろ」


 ロルフは言い返そうとして、言い返すことに何も意味はないと悟ったように口を閉じた。


 草原に静かな風が吹く。

 遠く、雨の匂いがした。


「……あの方を孤独な方だと思う人は多い」


 ロルフが呟く。


「俺がいても、誰がいても、皆そう思っている。俺も……そう思う」


 なぜそんな話を自分にするのか、ハクトにはわからなかった。


 自分がいればこの人は孤独ではない、などと思うのは傲慢だ。

 だが自分が隣にいても永遠に孤独な人を愛して、耐えられるだろうか。


 自分なら愛するのはやめるな、とハクトは思う。

 甲斐のない愛に注ぎ込んだところで、何もない。


 だが彼にそう言ってみれば、求めないのが愛なのだと言うだけだろう。

 そこまで、わかりきっている。


「なんでアンタはルジームに仕えてるの?」


 寝返りを打って、ロルフに向き直る。

 初めてこの男の顔をまともに見た気がした。


 その目は深緑色をしていた。


「親が仕えていたからだ」


 その簡単すぎる答えに、ハクトは思わず少し身を起こす。


「それだけ?」

「至って普通の話だろう。別に驚かれることじゃない」

「そんだけ入れ込んでるんだから、特別な何かがあると思うでしょ」

「特別な縁を感じるのに、特別な出会いが必要なわけではない」

「そりゃあ……そうか」


 自分の貧相な人間関係の中にはそんな安定して緩やかな縁はなかったが、とりあえずは黙らされる。


「父はあの方のために生きて、死んだ。俺もあの方を近くで見て、命をかける価値があると知った。それだけだ」

「命をかける価値?」

「自分の人生を使ってでも、支えたい人だと思ったんだ」


 馬鹿らしいと思う。

 例えそんな価値が存在するとしても、命をかけるなんて馬鹿らしい。


 だがそう思う自分は、リディの姿を見て、ユシレの瞳を見て、そこに命をかけなかっただろうか。


 彼ら彼女らのためになら生きても良いと思ってしまっていないだろうか。


 結局はこの男と同じ穴の狢というわけだ。


「まぁ、そういう人もいるよね」


 命をかけられるような人も、かけても良いと思うような愚かな人間も、どちらも。


 ハクトが否定しなかったのが意外だったのだろう、ロルフが気が抜けたように眉を上げる。


「お前はあの方に命をかけられるか?」

「いいや」

「国には?」

「それも無理だね」


 そうか、とロルフは微笑む。


「お前が兵士に向いてないというのは、そういうことだったのかな」

「……どうだろう?」


 キトの前の言葉のことを言っているのだろう。

 あれは、むしろ、逆のことを言っていた気がする。


 自分には情がありすぎるからと、そう言われたような。

 他人に命をかけるような夢想家では兵士として生き残れない。


 そんな考えに行き着いた時、鈍い頭痛がして、ハクトは顔を顰めた。

 予知の切れ端のような。


「どうした?」


 木陰のまだらな影を浴びているロルフの顔を見る。

 その予知の答えを、ハクトはまだ知りたくなかった。

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