6章 2話
レオラには祝日がいくつかある。
今日がその日だと気がついたのは、ロガレルから指摘されてからだった。
「忘れてましたか、白花の日ですよ」
「あぁ。どうりで城が賑やかだと思った」
白花の日というのは、白玉教由来の祭日だ。別に国教というわけでもないのだが、慣例的に国民の休日になっている。
女性から家族や恋人に花束を贈る慣習があるが、宗教嫌いのロガレルには関係のない日であるし、そうなるとラルディムにとっても関係のない日だった。
「まぁ何かに託けて騒ぎたいのは人の常ですからねぇ」
「ロガレルは婚約者と過ごさなくて良いの?」
「夜はそのために空けてありますよ。それまではいつも通りお仕事です」
「君も忙しいね」
笑いながらそう言えば、ロガレルは少し面白がるように首を傾げる。
「いや、案外貴方も忙しくなるかもしれませんよ」
「どうして?」
そう尋ねたのと、ノックの音が同時だった。
ザミスが面倒そうに顔を見せて口を開く。
「メミラ嬢がお見えですが……」
「彼女が?」
「はは、気まずいのは嫌なんで俺は入れ替わりますね」
ロガレルはそんなことを言って笑いながら部屋を出て行ってしまう。
「通しますか?」
「あ、もちろん」
彼女から自分を訪ねてくることがあるとは思わなかった。
何か言い忘れでもあったのだろうかと、不思議に思いながら迎え入れる。
「すみません殿下、突然お訪ねして」
そう言って微笑む彼女は、令嬢の服装というよりは町娘のような格好をしており、何事だろうと首を傾げる。
「もし良ければ、街に行きませんか?」
それは意外な申し出だった。
「街に?」
「はい。王都はちょっとしたお祭りみたいになっていますから」
白花の日の王都は大層賑わう。小さい頃には何度か、馬車の中から見たことがあった。
「私で良いんですか?」
祭日の王都を楽しむのであれば、もっと適した相手もいるだろう。
しかしメミラはゆっくりと微笑んだ。
「殿下が良いから、お誘いしているんですよ」
「それは……光栄です」
どういう心境の変化だろうか。
彼女の考えていることが読めなかった。
だがまぁ読めないならばそれなりに、乗ってしまえば良いかと思った。
「良いですよ、行きましょうか」
「ふふ、良かったです」
となると困った顔をするのはザミスである。
「王都に出る時は事前に言って頂かないと警護が大変なのですが」
「あぁ、その問題があったか」
「僕一人で二人を守れなんて言いませんよね」
自由の効かない身というのも困ったものだ。
どうしたものかと首を傾げていると、「大丈夫ですよ」とメミラが言う。
「事前にある方に話をつけてきたので。もちろん陛下と王妃様の許可も取ってますわ」
「ある方?」
「ザミスくんも、お兄さんがいれば不満ないでしょう」
「はぁ? 兄上を巻き込んだんですか?」
ザミスが驚いた声を上げる。
メミラは大して大事とも思っていない様子で微笑む。
「だって警護をお願いするのにそれ以上の適任はいないでしょう」
「兄上は忙しいんですが」
「都合が悪かったら了承はされてないわ。それに、彼にも息抜きくらい必要よ」
彼女の言うことはもっともだが、それにしたってよくジスクを動かそうと思ったものだと思う。
ラルディムは苦笑いを浮かべた。
「そこまで話が済んでいるなら、問題はありませんね」
「はい、ということで行きましょう」
そう言ったメミラの笑顔は綺麗で、何の裏もないように思える。
何にでも疑い深くなったのは最近の自分の悪いところだと、胸の内で反省した。彼女が何を思っているのかはわからないが、何だとしても悪いことではないだろう。
気楽に考えようと思う。
そういえば長いこと王都にも出ていなかった。良い気分転換になるだろう。
扉を開ければ夏の気配を感じる。
ラルディムは眩しい陽光にそっと目を細めた。
────────────────────────
王都へは馬車で行くことになっていた。
ジスクが手配してくれたのだろう、彼の他にも警備だと思われる兵士が三人ほどいた。
「ご無沙汰しています、殿下」
生真面目な顔でジスクが頭を下げる。
「ああ、しばらくだね。忙しいだろうに、すまない」
「いえ」
相変わらず口数の少ない人だなと思う。
ザミスの方へもちらと目を向けたが、黙って頷くだけだった。ザミスは不満そうに肩を揺らす。
「ごめんね。ジスクくんだけで良かったのに、色々手配してくれちゃった?」
「この前色々あったばかりですから」
ジスクが少し気まずそうに言う。
メミラは悲しそうに眉を下げてから、またにっこりと微笑んだ。
「ソジットのことなら大丈夫よ。ロガレルも色々手を打ったみたいだし、私も引きずってないわ」
「なら良かった」
ジスクが小さく微笑む。
ロガレルとソジットが親しかったと言うのであれば、メミラもそうであったはずだ。今の今まで考えてもいなかったことに気がつき、また反省する。
自分のことばかりに必死になっていて、あまり気を回せていないように思う。
この身で考えられることなど小さなものだとはわかっているが、近しい人への心は忘れたくなかった。
馬車に乗り、大通りへと出る。
都は確かに大層な賑わいだった。
店や屋敷の入り口は花で飾られ、道端に出店も多く出ている。
「わぁ、久しぶりに来たけれど、やっぱり良い日ですね」
メミラが馬車から外を眺め、嬉しそうに言う。
「去年は街に出なかったんですか?」
「ええ。我が家は白玉教の家系ですから、祭事があって。でも今日はこれを言い訳に逃げてきちゃいました」
「あぁ、なるほど」
南部領主家は白玉教の信徒であると聞いたことがあった。
他にも西部や北部なども信仰の基盤はあるようだったが、今の領主たちで熱心に信仰しているのは南部くらいのものだった。
それもロガレルの代で消えるだろう。
「東部は宗教行事とかないから良いよね」
メミラがジスクの方を向く。
ジスクは曖昧に首を傾げた。
「私は宗教は嫌いじゃないですよ。戦場では人の心を救ってくれる」
「そうだったっけ」
「最近はね。まぁ行事に駆り出されるのは御免ですが」
その会話がどうにも親しいもののように思えて、ラルディムは首を傾げる。
「二人は仲が良いの?」
「あれ、ご存知なかったですか?」
メミラがきょとんとする。
「ジスクくんが一時的に南部にいた時代からの幼馴染ですし、そもそも彼は私の最初の婚約者です」
「え? あぁ、そうなの?」
元婚約者、というのは親しいものなのだろうか。
ジスクが苦笑いを浮かべる。
「十代も前半の頃です。とっくに破棄されて、以降は普通に友人ですから」
「とすると、この集まりは少し気まずいね……」
ラルディムも苦笑する。
一人わかっていなそうなのはメミラだ。
「気まずいですか?」
「まぁ……」
別に誰にも何の事実も感情もないとしても、やや複雑な関係性ではあるはずだ。
「……ちなみにどうして破棄になったのか聞いても?」
家柄の問題もなく、幼馴染で友人だというのであれば何の問題もなかったはずだ。
ジスクとメミラが顔を見合わせる。
「お嬢様に破棄されただけですからね」
「え、私のせいにしないでよ。私はこの大切な友情が婚姻関係で壊されるのが嫌だっただけです」
友情が壊される。
必ずしもそうなるとは思わなかったが、確かに彼女にとっては大事なことだろうと思った。
「なるほど、貴女らしいや」
「なので気まずいことはないですよ」
堂々と笑うメミラに、ザミスも含め残りの三人は首を傾げる。
「いや、普通に私は気まずいですけどね」
ジスクが言う。
「えぇ、なんでそういうこと言うの?」
「貴女と親しいと思われるのも、今の婚約者に悪いですし」
「君の婚約者はそんなことうるさく言わないでしょ」
「どうかな?」
記憶が正しければ、ジスクの婚約者は東部領主に代々仕えている家系のご令嬢だったはずだ。
同意してくれないジスクに、メミラが困ったような顔をする。
「じゃあ断ってくれたら良かったのに……」
「冗談だよ。気まずくないし、誰も気にしない」
ジスクが顔を背けて笑う。
こんな風に振る舞う彼を見るのは初めてのことだった。
何だか微笑ましいなと思う。
友情に傷をつけたくなかったのだろうが、こうしているとよく気の合う二人のように思える。
いや、だからこそ大切なのか。
このままが良いから、このままで在れるようにと手を尽す。
それも一つの愛であるように思えた。
「ジスクくんは年々意地悪になるねぇ」
メミラがつまらなそうに口を尖らせる。
「いつまでも他人をからかえると思わない方が良いですよ、メミラ嬢」
「今度からはザミスくんをからかうか」
急に話を振られたザミスが顔を顰める。
「兄上の友人でも僕とは友人ではないんですが」
「仲良くなろうとはしてくれないの?」
「僕には僕の友人がいますから」
ザミスは顔を背けて言う。
普通に、自分が嫌われているのだと思っていたが、彼は兄以外には誰にでもこうなのかもしれないと思った。
二人きりでいるから息が詰まるのだ。
こうして間に人を介せば、そう息苦しいこともなかった。
「……ザミスくんと殿下は最近は上手くやれてるんですか?」
メミラが思いついたような口調を装って、つまりはずっとそれが聞きたかったのであろうことを聞いてくる。
ラルディムは思わず首を傾げた。
「私は上手くやれていると思っていますが……」
ザミスの方を見れば、彼も困ったように顔を顰めている。
「……子供ではないので、問題を起こしたりはしません」
「仲が悪いなら近侍を変えれば良いのに」
メミラが呆れたように言う。
確かにその通りなのだが、そうはできない事情もある。
ジスクが気まずそうに口を挟む。
「今の最適解がこれなんですよ」
「何も近侍を領主家から出す決まりはないわ。最高に腕が良くなくても、最低限のことができれば良いでしょう。近衛兵から年長の方を出してもらうのでも良いわ」
「殿下にも歳の近い相手がいた方が良いというのは、陛下の判断ですので」
「広い目で見ればジスクくんもロガレルも歳は近いわ。陛下は東部領主様に気を遣っているだけでしょう」
「……まぁ、そう言われると否定はできないんですがね」
家のことには言及しづらかったのだろう、ジスクが言いづらそうに目を逸す。
ザミスは東部領主家では微妙な立場だ。
妾の子でありながら、奥方の厚意で領主家で育てられ、奥方が亡くなってからは正妻の子となったが、となると今度はジスクとの間が複雑になってくる。
ザミスにジスクと反目する意はないだろうが、当然ザミスに跡を継がせたいと考えている人間もいる。
陛下が気を遣っているというのは、東部領主のお気に入りの息子であるザミスが家の問題に縛られないように、それでいてそれなりの地位を得られるように便宜を図っているという意味だろう。
「ザミスくんが近衛兵になるつもりだっているなら話は別だけれどね」
メミラが言う。
現状、ザミスがラルディムの護衛を担っていることは全く筋の通らないことである。確かに近侍としてではなく、近衛兵の扱いになるのであれば筋も通るだろう。
だがザミスの性格上、王家のために直接仕えるのは嫌なはずだ。
「全く、殿下にとってもザミスくんにとっても今の状態は良いことはないわ。早めに改善すべきです」
「まぁ、その通りかもしれませんが」
ラルディムは困り笑いを浮かべる。
「でも私はザミスと仲良くなりたいと思ってるんですよ。そっちの方が、新しい人と関わるより意味がありますから」
「それって意地ってことですか?」
信じられない、とでも言いたげな口調だった。
意地。
まぁそうだろう。
近侍をザミスから変えてくれと父に一言言えばそれで済むことではあるが、そうしないのは負けたくないからだ。
一度それで全てを放り出したのだから、今度は彼の目線に耐え切ってみたいと思う。
意地以外の何ものでもなかった。
「私にも意地くらいはありますよ」
「そんなの効率悪いですって」
納得いかない、という顔でメミラは首を振る。
本当にロガレルの妹なのだなと思う。
彼も、必要ではなく意地でザミスと一緒にいるのだと言ったら、同じ反応をするだろう。
「私、殿下のこと心配してるんですからね」
メミラが少し怒った口調で言う。
「大丈夫ですよ」
「大丈夫になってから言ってください」
臣下に心配される王族というのは如何なものかと思うが、まぁ気にもされなくなったら終わりだろう。自分としては良い線だと思う。
「ザミスくんはどう思ってるの?」
メミラに尋ねられ、ザミスの青い目がこちらに向けられる。
相変わらず、落ち着かない心地がした。
「僕は……」
そうザミスが口を開いた時だった。
馬が嘶く声が聞こえ、ぐらりと馬車が大きく揺れ、止まる。
ジスクがラルディムの体を伏せさせるのと、馬車の窓に矢が刺さるのが同時だった。
「きゃあ!」
「強盗だ!」
騒ぐ声が聞こえる。
「ここにいてください。ザミス、残れ」
それだけ言うと、ジスクは馬車の外に出た。
剣と剣のぶつかる音が聞こえる。
「メミラ嬢、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です」
こんなことは初めてなのだろう、動転した様子でメミラが頷く。
「馬車にも乗り込んできますよ」
ザミスが短剣を抜き、硬い口調で言う。
彼の言葉通り、開いた扉から一人の男が乗り込んできた。
顔は隠しているが、見るからに盗賊の類といった様子だ。
「下がって!」
ザミスが短剣を投げつけ、男を蹴り倒す。
馬車の外に転がり落ちた男を追ったザミスの背後に、もう一人の姿があった。
「ザミス! 後ろ!」
声をかければ、ザミスは素早く反応して長剣で男を切り捨てた。
聞いてはいたが、本当に彼は強いのだなと思う。
二人を相手取っても、全く遅れを取らないどころか、確実に圧倒していた。
ザミスが最後の一人を打ち倒した頃、近衛兵たちに鎮圧されたのだろう、周囲の喧騒も収まって来た。
周囲に気をつけながら、ザミスの隣へと降り立つ。
「怪我はないかい、ザミス」
「…………」
ザミスからの返事はなかった。
顔を覗けば、暗い目で斬った男を見つめていた。
腹に剣を受けた男は苦しそうに呻いている。
「ザミスくん?」
様子がおかしいと思ったのだろう、メミラも馬車を降りる。
ぱっと顔を上げてこちらをみたザミスの顔には、明らかな怒りの色が滲んでいた。
そのまま、長剣を渡すようにラルディムの胸に押し付ける。
「ザミス?」
「貴方がとどめを刺してください」
「え?」
一瞬、言われた意味がわからなくてその顔を見つめ返してしまう。
ザミスの口元に嘲笑が浮かぶ。
「貴方のために人を殺すのはいい加減うんざりです。これからもそれを求めるのであれば、一度くらい覚悟を示してください」
「……ソジットのこと」
「別にあれはきっかけに過ぎませんよ。貴方が強くなったと言うなら、その手で示して見せてください」
ラルディムは長剣を受け取った。
硬く冷たい感触に微かな手の震えを感じる。
「君がそれで納得できると言うなら構わないよ」
ラルディムは息を吸った。
頭がはっきりとしてくる。
それから薄い笑みを浮かべた。
「だけど君はそれでは納得しないね」
「……何故です?」
「君の言いなりに人を殺すような人間にも、また命を懸ける価値はないからだ」
ザミスは何も答えなかった。
暗い青い目が、微かに揺れる。
「ザミス。私は君の挑戦に応えるよ。だが理解しておいた方が良い。君は気に入らないものに八つ当たりをしているだけだ。私はそんなものに真面に付き合うつもりはない」
いつか、ロガレルとこんな話をした気がする。
あの時と同じ気持ちで、真逆の言葉を口にしていた。
ザミスからは逃げられない。しかし、彼の憎悪とも呼べない悪感情に触れて、はっきりと彼の形を再確認していた。
真正面から向き合うべきはザミス自身であって、彼の悪意相手ではなかった。
ザミスの肩に軽く手を触れる。
「私をあくまで認めないのなら、それも結構だよ。他人からの理解なんて必要としていないんだ」
剣を男の首筋に当てる。
どこをどう貫けば、彼の苦しみを終わらせてあげられるだろうか。
心臓では骨に当たる可能性が高いから駄目だ。
首を落とすことはできないだろうが、気道に穴を開ければ死ぬだろう。
剣を振り上げる。
「殿下!」
メミラが静止の声を上げた気がした。
だが実際にラルディムを止めたのは人の手だった。
振り下ろしかけた手を、別の手が止める。
顔を上げればジスクがいた。
「それは生け捕りにしましょう。政治犯でない確証を得たいです」
「ジスク」
「愚弟がご無礼を」
有無を言わさぬ口調だった。
ザミスの方を見れば、珍しく、彼から俯くようにして顔を背けた。
ジスクがザミスに剣を返す。
それで終わりだった。
「メミラ嬢、残念ですが遊興はここまでにしましょう。お屋敷まで送りますよ」
「あの!」
声をかけられたメミラが、弾かれたように顔を上げる。
「殿下、お話が」
「え?」
「婚約のお話、やはりお受けしませんか?」
それはあまりに唐突で、誰も予想していない言葉だった。
全員が黙りこくって、二人を見る。
「……どういう心境の変化で?」
今日ずっと気になっていたことを言葉にしてみる。
彼女の様子がおかしかったのは、ずっとこのことを考えていたのだろう。
「思うのです。殿下にはやはり隣人が必要です。ですが、他の誰かにその役割を期待するのはやめました。私ならできます」
その言葉は必死さを持っていたが、確かな自信に満ちていた。
「私なら、貴方の孤独の答えになれます」
何を根拠に、と言ってしまうのは簡単だった。
自分は彼女のことを知らないし、彼女も自分のことは知らない。
誰のことも信じることはできないと思う。
だが、彼女のことを信じることができたらどうだろうか。
それはきっと、希望のような形をしているのではないだろうか。
「……私は多分、人のことを愛せませんよ」
自分は誰かのことを幸せにできる人間ではないだろう。
環境としても、性格としても、何かを与えられはしない。
しかし彼女は笑った。
顔貌だけでなく、その笑顔を美しいと思う。
「私が貴方を愛します」
それは光だと思った。
何か、脳が余計なことを考えるより先に、感情で信じたいと思った。
この冷たい世界で、誰かの手を取れるなら。
「理解を必要としてないなんて言わないで。世界を諦めないで。貴方が希望を見つけられないのならば、私が貴方の先導になります。幸せになるのは得意なんです、私」
私はあなたの瞳を覗き、その光の色で悟る。私の愛の存在を、あなたの瞳の内に見るのだ。
メミラの目には自分が映っていた。
自分だけが、そこにいた。
深い緑色の瞳が、その光が、ラルディムに真実を告げる。
そこに愛があるのだと。
確かに、探していたものがあるのだと。
「私は貴女を裏切ることになると思う」
泣いてしまいそうだった。
自分は変わっていく。
今のままではいられない。
その時多くのものを捨てることになるだろう。
夢とか、希望とか、理想とか、道徳とか、信念とか。
愛とか、友情とか、信頼とか。
それら全てを裏切る日が来るだろう。
だから今、彼女の手を取ってはいけない。
だが、メミラはラルディムの手を取った。
「裏切れるだけのものが育めるのであれば、それが幸福です。私はいつか来る別れを恐れて、今日別れる人間ではありません」
「……貴女を幸せにできない」
「私が幸せじゃない女に見えますか?」
彼女は強かった。
どこまでも気高く、高潔だった。
「……貴女と生きられたら、幸福なんだろうな」
言葉が溢れる。
彼女の横で、彼女の瞳を通して世界を見ることができれば、その時世界は違ったものに姿を変えるだろう。
メミラは緑の瞳を細めて、幸せそうに笑った。
「では生きましょう。死が私たちを分つまで」
正しい選択をできる強さがあったのなら、自分に彼女のような高潔さがあったのなら、決して頷きはしなかっただろう。
だが自分はやはり、弱い人間だった。
孤独には勝てない。
彼女の手を取り、その指先に口付ける。
「メミラ嬢。貴女の人生を、私に台無しにさせてください」
「はい、殿下」
確かなことがある。
これは悪い選択だ。
もう一つ確かなことがある。
この選択を悔いることはないだろう。
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