6章 1話
「上の空ですね」
ばさりと本で頭を叩かれて、ハクトはぼんやりと顔を上げた。
ディアードが呆れたように首を振る。
「何かあったんです?」
「別に……」
「やる気がないだけなら授業は打ち切りますからね」
「……不眠が酷くて」
あの蛇に出会って以来、毎日のように嫌な夢を見ていた。
予知夢の散漫な印象とは違う、過去や未来に死が付き纏うような夢ばかりだ。毎度嫌な気持ちで目覚め、一度目が覚めてしまうとどうにも寝付けなくなる。
ディアードが案ずるように眉を寄せる。
案外面倒見の良い男である。
「サハトには相談しましたか?」
「いや……なんで?」
「医者に相談するのが一番でしょう。神秘のある国では神官が医者の役目も務めていますからね」
クリュソでは診療所なども神殿の管轄にあると聞いたことがある。
だからこそ医者にかかるという選択肢はなかったのだが。
ハクトは肩を竦めた。
「神官どもに色々話すつもりはないから」
「話したほうが得だと思いますけれどねぇ」
ディアードはそう言うと、ぱたりと本を閉じた。
「どの道、今日はこのままでは授業になりませんね」
「じゃあ帰っていい?」
「帰っても眠れないなら意味はないですよ。良い機会ですから、君の状態を確認しましょうか」
何をするつもりかと怪訝な顔で見上げる。
ディアードが白い手を小さく振ると、燭台の灯りが明るくなり、聖堂は昼間のような光に包まれる。
「君の魔術の使い方が非常に危ないと報告を受けていまして」
「危ない?」
「君、無意識で魔術を使っているでしょう」
指摘されて、きょとんとする。
魔術をどう使っているかなど考えたこともない。
「あぁ、やっぱり自覚なしですか」
ディアードが額に手を当てる。
「一応指摘しておきますがね、自分の意思に関係なく魔術が発動されたり、傷が治療されたりというのは非常に拙い状態なんですよ」
「はぁ……」
「並みの人間ならば魔力の枯渇でぶっ倒れてますからね」
「……それって視力とかが異常に優れていたり、身体能力が高いことも入ってる?」
昔から世間の常識とは違うことが多くあった。
感覚は誰よりも優れていたし、筋力も俊敏性も高かった。
ディアードは困ったように顔を顰める。
「魔術で瞬間的に身体能力を強化することはできますが……それも常時行ってるとすると、身体にガタがくるのも当然ですよ」
「なるほどねぇ……」
「普通はそういうことが起きないように神殿で教育を受けるんですよ。ちょっと診察をしても良いですか?」
ディアードの手が額に触れる。
その冷たさにハクトは身を竦めた。
「今から少量の魔力を君の中に注ぎます。その抵抗で状態を確認するので、少し違和感が生じると思いますが」
「いいよ、やって」
頭の奥を触られたような小さな衝撃が来るのと、ディアードが弾かれたように手を離すのが同時だった。
信じられないものを見たかのように、ディアードは青い目を瞬かせる。
「……なんです、今の?」
「今のって?」
「……君の内側には君ではないものがいる。何を飼っているんですか」
ハクトは何も答えずディアードの顔を見上げた。
そのまましばらく沈黙が周囲を支配する。
いつの間にか燭台の光はほとんど消えそうなほどに弱っていた。
「……黒の女神ですね」
自分の手のひらを見つめながら、ディアードがぽつりと言う。
ハクトは驚いて目を見開いた。
「この感覚には覚えがあります」
「知ってるの?」
「……一度だけ邂逅を果たしたことがあります。あまり良い記憶ではありませんが」
愕然とした思いで、目の前の男を見つめていた。
白い横顔には様々な色が宿っているように見える。
「彼の神に出会ったという話は何件か残されています。そう珍しい話ではありません。何かが滅びる時、必ず彼の神は姿を見せます」
「……ポレットが滅んだ時?」
「そうですね」
ディアードが遠くを見つめる。
「あれは彼の国最後の夜でした。ただ目の前に現れて、滅びを見届けろと、嘲笑われました」
「あの神らしいね」
「私とポレットの話を、していませんでしたね」
こちらに向き直ったディアードは諦めのような悲しむような、そんな表情をしていた。
「私がクリュソにいる理由ですが、端的に言えばポレットを裏切ったからなのですよ。敵わない国と戦争をして敗れるくらいならば、少しでも良い条件で属国になれればと思いました」
「……でもポレットは」
「ええ、滅びました。私の裏切りは事前に露見し、結局ポレットは強硬策を取り、その歴史を閉じました。国民の多くはもう一つの大国であるセロ国に亡命、今はもう失われた国です」
ディアードはポレットを美しい国だったと言った。
その国を侵略したクリュソを恨んでいるとも。
その言葉が本当ならば、美しい祖国を裏切った自分自身のことも恨んでいるはずだろう。
ハクトは何も言えずにその顔を見つめていた。
「彼の神に嘲笑われても、それが当然としか思えませんでした。ただ私の信じていた神とは何だったのだろうと、そう思っただけです」
例えば人生を信仰に捧げていたとして。
その信仰を奪われた人生はどうなってしまうのだろうか。
ディアードの人生の根幹にある、諦観のようなものに手を触れたと思った。
だからこそ、この男はこうして夜に住んでいるのだろう。
「君も神に出会ったんですね」
ディアードが微笑む。
ハクトは黙って頷いた。
「世界が変わってしまいましたか?」
「……うん」
「可哀想に、その若さで。神の愛子というやつでしょう」
蛇がそう自分を呼んだことを思い出す。
「その愛子ってやつ、何なの?」
「時々いるんですよ、黒き女神の寵愛を一身に受ける人間が。とはいえ幸せになれるわけではありません。一生を神の手によって狂わされてしまうだけです」
自分以外にもそういう人間がいたという事実は救いのようで、誰もどうにもならなかったというもう一つの事実が重くのしかかってくる。
「どうしてアンタはそんなこと知ってるの?」
そう尋ねてみれば、ディアードは真面目な顔で答える。
「クリュソに来てから真面目に黒華教の研究を始めました。そのくらいしかやる事もなかったので。この国の書庫や禁書棚に入れるようになれば、色々と知れる事も増えますよ」
「どうしたら入れるようになる?」
「試験に合格してください。やることは同じですよ」
ぱしりとまた軽く頭を叩かれる。
「さて、大体の事情はわかりましたが、女神が関わっているとなると根本解決は無理ですね」
「じゃあどうするの?」
「あまり良くはないですが、対症療法です。薬を飲みましょう」
そういうと着いてこいと扉の奥へと向かう。
ハクトは黙ってその後に続いた。
長い廊下を抜けると、何やら保管庫のような場所にたどり着く。
つんとする薬の臭いに、ユシレの研究室を思い出した。
「……おや」
扉を開けたディアードが立ち止まる。
部屋の中にはジラーグがいた。
そこで初めて気がつく。
ディアードの顔を初めて見た時に感じた既視感、あれはジラーグと似ていたからだった。
そのまま何も言わず、ジラーグは不愉快そうな顔のまま立ち去る。
ディアードは曖昧な表情のままため息をついた。
「似てる」
そう言ってみれば、ディアードは困ったように首を振る。
「血縁がありますから」
「親子なの?」
「あの子の親はサハトですよ。私にそう名乗る資格はありません」
何やら複雑な事情があるのだろう。
そう思ってそこで聞くのをやめても良かったが、どうせ今日は色々な話を聞いたのだ、ここで遠慮する意味はないだろうと思う。
「なんで?」
「本当に質問の多い子ですね」
ディアードが言いづらそうに顔を顰める。
「……クリュソを裏切らない担保として結婚して子供をもうけました。小さい頃は関わってやれませんでしたし、愛のない環境で育った子です。結局サハトに全て任せてしまって今に至るわけです」
「嫌いなの?」
愛してもいない女との子だから愛せないのだろうか。
そう思って尋ねてみれば、まさかと首を横に振られる。
「嫌いではありませんが、愛する資格もないというだけです」
小難しく、その賢い頭の中で考えているのだろう。
だがハクトには全く理解のできないことだった。
「資格がなくても、愛してくれた方が嬉しいと思うけどね」
実の親がいるのに愛されないのであれば、それはなんてつまらない話だろう。
別に親の愛などなくても生きてはいけるが、あるならあるに越したことはない。
ディアードが少し目を見開く。
「……そうですね。君ならそう考えますか」
「アンタらは難しく考えすぎ」
「世界は難しいんですよ」
「自分で難しくしてるだけじゃない?」
愛しいものは愛する。
憎いものは憎む。
どうでもいいもののことは考えない。
それだけが単純で良いじゃないかと思う。
少なくともハクトの世界はそう回っていた。
「そうかもしれませんね」
ディアードが薄く笑って、それから小さな小瓶をハクトに手渡す。
「魔力の巡りを阻害する薬です。鉱物の中には魔術を吸収するものがあるようで、そういう物とあとは色々混ぜて作られたものですね」
「色々って?」
「聞かない方が良いですよ。魔力の源とでも言っておきましょうか」
「魔術師の血ね」
顔を顰めて、瓶の中の錠剤を見つめる。
よく知ってますね、とディアードが微笑む。
「女王から教わりましたか?」
「なんでそう思うの」
「君が女王のお気に入りになっているのは有名な話ですよ。神官も端女も口さがないですから、密会をするなら場所を選ぶべきですね」
全くもって嫌な話だった。
ハクトはため息をつく。
重い話の後だからなのか、いつもからは考えられない楽しそうな様子でディアードは言う。
「君はもう少し自分が目立つ人間だという自覚を持つべきですねぇ」
「はぁ……」
「君は見目も良いですからね、噂の種になりますよ」
「面倒臭い……」
好きに振る舞っただけで厄介ごとになるとは、好きに振る舞ったせいだというべきなのか。
「いっそのこと全て利用したらどうです?」
「利用?」
「嫌でも目立つのですから、それで味方を増やせば良いのですよ」
ディアードが言い聞かせるように首を傾ける。
白い髪がさらさらと瞳を隠す。
「見目の良さはきちんと磨けば武器になりますよ。政治の世界で生きるのならば、魔術以外の武器も必要ですからね」
「……アンタもそうしてきたの?」
「ふふ。どうでしょうね」
白い髪の奥で、深い青の瞳が冷たく光っている。
それを見ていると、なるほど彼の言うことは真実だろうと思う。
美しさは人生を支配する。
リディにそうであったように、ユシレにそうであるように。
自分に誰かの人生を支配する力があるだろうか。
それに自分は耐えられるだろうか。
一つ確信があるとすれば、目の前のこの男は耐えられなかったのだろうということだけだ。
「君はもう少し高い位置で髪を結んだ方が似合うと思いますよ」
ディアードが思いついたように言う。
「自分の興味のないことにも関心を向けてみなさい。せっかく新しい世界で生きているのに、戦争と義務のことばかりではつまらないでしょう」
もう一つ、なんとなくわかったことがある。
この男はこうして他人に愛情を向けるのが好きな人間なのだろう。
本当ならば、自身の息子にそうしたかったはずだ。
だが生来の潔癖さがそれを許さない。
サハトがこの男を教師に選んだ理由がわかった気がした。
ハクトにとっても、ディアードにとっても、良い変化になると踏んだのだろう。
その通りになるというのはなんとも癪な話であったが、ハクトは小さく笑って見せた。
「こう?」
いつもより少しだけ高く髪を結い直してみる。
ディアードは笑ってハクトの額を弾いた。
「素直で結構なことです」
「気分によっては素直にもなるんだ」
「では素直に薬を飲んで眠ってくださいね」
手の中に握り込んだ小瓶を見つめる。
魔術について、自分についてもわからないことは多い。
それでも少しずつ、前に進んでいると思えた。
ロベッタにいたのならば生涯知り得なかったことだろう。
「魔術の制御について、少しずつ学んでいきましょう。私も方法を考えておきます」
「……もし制御ができないまま魔術を使い続けたらどうなるの?」
ディアードの表情が真剣さを帯びる。
「魔術は命を削って使うものだと心得なさい。魔術を無理に使い続ければ身体から蝕まれていきます。長くは生きられないでしょう」
命を削る。
そういうものだと予感はしていたが、事実として言われるのはやはり実感が違った。
「……もしかして、もう手遅れだったりしない?」
「……なるべく早く、制御の方法を見つけましょう」
ディアードは否定も肯定もしなかった。
ハクトも黙って頷く。
長くは生きられない。
そうだろうとも、そんなのは嫌だとも思う。
だが神の言うことが本当であるのならば、元々短かった命を無理矢理に繋いだのが自分だ。
いったいいつまで、死の手から逃げていられるのだろうか。
死ぬ気はないが、生きたいとも思っていなかった自分がこんなことに怯えるのは馬鹿らしいと思う反面、いつでも捨てられる人生では無くなったことを実感する。
昔のままの自分ではいられない。
生き延びることを考えなくては。
思考はぐるぐると渦巻いていたが、その日は全て忘れるように眠ることができた。
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