5章 5話
それはよく晴れた午後の日のことだった。
花の咲く庭園、穏やかな陽射しを受けながら、気まずげな表情で彼女は座っていた。
ラルディムはどうしたものかと内心でため息をつく。
先程までは母もいたのだが、二人で話しなさいと言って立ち去ってしまった。
彼女のことは必要最低限しか知らない。
メミラという名前であること、南部領主の姪であること、それからこの集まりに嫌々参加しているということだけだ。
本当に、どうすれば良いのだろうか。
「あの、メミラ嬢」
沈黙に耐えかねて口を開く。
すると彼女は顔を上げて、勢いづけるように口を開いた。
「殿下、お願いがあるのですが」
「お願い?」
きょとんとしてその顔を見る。
メミラは必死な様子で、机の上の手をぐっと握り込んでいた。
「今回のお話、殿下の方から断って頂けませんか?」
それは大層真剣なお願いだった。
「あの、私からお断りすることは身分上できませんので……その……」
言いづらそうに言葉を濁して、メミラは頭を下げる。
「無礼なことを言っているのは承知しております。ですがお願いします」
「無礼とは思いませんよ」
ラルディムは頬を緩めた。
ずっと何かを考え込んでいるような顔をしていたから、何を思っていたのかと思えば、そんなことだったとは。
「構いませんよ。私もお断りするつもりでしたし」
「本当ですか?」
彼女の顔がぱっと明るくなる。
きらきらと瞬くような笑顔に少し驚く。
「良かったぁ」
安心したように息を吐き、メミラは嬉しそうに笑う。
「そんなに結婚が嫌でした?」
思わず尋ねてしまう。
自分も結婚をするつもりはなかったが、ここまで嫌がる人というのも珍しい気がした。
メミラは少し口を尖らせて不満げに言う。
「結婚が嫌というわけではないのです。ただその……家庭に入るということに抵抗がありまして」
「なるほど」
「大人しく殿方に付き従うような女にはどうしてもなれないのです」
ロガレルの身内らしい女性だと思った。
彼の妹分にあたる人ならば、この古い国でそういう考えを持っていても不思議ではない。
「殿下もあまりご結婚には前向きではないと聞きましたが、どうしてです?」
メミラが不思議そうに言う。
ラルディムはどう説明したものかと首を傾けた。
「自分が……家族を持てるという確信がなくて」
手本にもならないような親子関係。
長年の引きこもり。
対人への恐怖感情。
どれをとっても自分が誰かと家族を作るのに相応しい人間だとは思えなかった。
メミラが意外そうに目を丸くする。
「それだけですか?」
「それだけと言えばそれだけだけれど……」
「そんな確信など誰も持ってはいないと思いますよ」
思う、と言いつつメミラは断定的な口調で言った。
「例えばロガレルは近いうちに結婚しますが、彼が真面に家族を作れると思いますか?」
「いや……どうだろう?」
「彼にはそんな気はないと思いますよ」
メミラの指摘はもっともだと思う。
ロガレル本人に聞けば、できるわけないでしょうと笑われるだけだろう。
メミラが苦々しげな顔になる。
「この国が私たち貴族の結婚に求めているものなんて、どうせ後継者を作ることくらいですわ。真っ当な家族を作ろうだなんて誰も考えていません」
「だから私たちは結婚という制度が嫌なんじゃないかな?」
「そう、そうなんです!」
よく表情の変わる人だと思った。
さっきまでは苦い顔をしていたのに、今はもうまた明るさを取り戻している。
「愛のある結婚なら大歓迎なんですけれど。もっとも、生まれてこの方そんな縁もありませんでしたが」
メミラが苦笑いを浮かべる。
「昔は愛せる相手を探していましたが、もう諦めてしまいました。私、人よりも本や政治の方が好きみたいです」
「ロガレルに似ているんですね」
「それは褒め言葉のおつもりですか?」
「もちろん」
ラルディム自身も人と向き合うよりは本と向かい合っている方が好きな性質だが、彼女たちのそれとはどうも毛色が違うと思った。
別に彼女たちは人が嫌いなわけでも、怖いわけでもない。
それでもなお人よりも学問のことを愛しているのだ。
真似できないなと素直に思う。
「でもそれなら、南部領主家は貴女にとって良い環境ですね。ロガレルの元でなら政治参加もしやすいでしょうし」
「そうなんです。お兄様は私が口を出しても歓迎してくれますから」
「そうだな、実際問題そうはできないのかもしれないけれど、貴女が領主を継げれば良いのに。そうすればロガレルも国政に集中できますしね」
思いつきで言ってみる。
そうなれば今のロガレルの微妙な立場も解決するし、良いことばかりのように思えた。
メミラが声をあげて笑う。
「あら、殿下もロガレルに似ていますね。全く同じことを言うんですから」
「そうなの?」
「口癖のように言っていますよ。本当に、そうなれば良いのに」
ということは、そうはできない事情があるということだ。
そもそも女性が領主を務めたという話を、ラルディムは聞いたことがなかった。
「うん、ロガレルは殿下のことを不思議な人と言っていましたが、その理由がなんとなくわかりました」
「不思議ですか?」
「考え方がこの国の人間らしくないんですね。もちろん、良い意味で」
「ロガレルに育てられたからかな」
褒められているだけではないと思うが、少し照れ臭くて笑みを浮かべる。
メミラはそれを受けて首を横に振る。
「彼に会う前から殿下の根本は作られていたと思いますよ。そもそも大抵の人間はロガレルのことを不快に思いますから」
「そうかな」
「私も時々腹が立ちますもの。殿下がロガレルと上手くやってると聞いた時から、どんな方なのか気になっていたんですよ」
「上手くやれているなら良いのだけれど」
実際のところはわからない。
問題がないのでそれで構わなかったが、ロガレルが自分のことをどう思っているのかなどは知れたことではない。
内心で失望されていたとしても、驚くべきことではなかった。
「六年間も一緒にいて、一度も彼の顔を殴らなかったのなら上出来ですよ」
メミラが頷きながら言う。
ラルディムは苦笑いを浮かべた。
「貴女は殴ったことがあるんですか?」
「拳で殴るのは可哀想なので、言葉で殴ります。慎みのない女ですから」
照れたように微笑む。
レオラの慣習に馴染めない様子のメミラであったが、案外性別さえ違えば戦士としても上手くやれていたのではないだろうか。
どちらにせよ窮屈な国である。
「でも残念です。こんな出会い方でなければ、殿下とはもっと親しくなりたかったのに」
メミラがため息混じりに言う。
ラルディムは首を傾げた。
「別に、今からでも良い友人にはなれるのでは?」
「そう思ってくれますか?」
「貴女みたいな人のことは好きですよ。まぁ、私は友人として面白い人間ではないですけれど」
母がメミラを気に入ったのがよくわかる、と思う。
確かにこんな人が伴侶であれば、その人生はより良いものに変わっていくだろう。
どちらにもその気がないのが残念な話であった。
「ふふ、それならば今日のこの会も意味があるものになりますね」
楽しそうに笑うメミラに、ラルディムも笑みを深める。
出会い方は散々だったが、この出会いがあって良かったと思う。
「今度ロガレルも一緒に話しましょう」
「あら、素敵。きっと楽しいお茶会になりますね」
メミラはそう言って笑ってから、少し真面目な顔になる。
「殿下はロガレルのことを信頼されているんですか?」
内心の迷いを見透かされたようでどきりとする。
ラルディムは誤魔化すように少し顔を背けた。
「信頼していますよ。母は信頼できる伴侶を作れと言いますが、彼がいるならいいかなと思うくらいには」
「彼と人生を共にすると?」
「はい。彼のための私ですから」
そう言って微笑むラルディムに、メミラは顔を顰める。
「それはいけませんわ、殿下」
「いけない?」
「殿下はロガレルという男を善良なものだと思いすぎているようですね」
まさか彼の身内からもそのような指摘を受けるとは思わなかった。
何も言えずに、次の言葉を待つ。
「ロガレルは優しい男ではありますが、それは才能への優しさです。愛情ではありません。人生を預けて良いのは、信じられる愛のある相手にだけです」
「ロガレルは何の才能もない私にも優しいですよ」
「同意しかねますが、本当にご自身に何の才もないと思うのであれば、利用されていないか警戒するべきでしょう」
滅多に言われることのない、厳しい言葉だった。
ラルディムは薄い笑みを浮かべて首を振る。
「利用されているならばそれで良いんですよ。ロガレルの才能の役に立てるのならばそれで私の意義としては十分です」
「いいえ、いけません殿下」
メミラの口調は固かった。
信念がそこにあると思った。
「私たちが命をかけるのは殿下のため、信頼できる王家のためです。ロガレルのためではありません。殿下は我々臣下の信頼に御身で応えなければなりません」
考えたこともなかった。
自分のために命を賭け、他の命を殺す人々がいるのに、自分が彼らのために在るのでなければ、それは裏切りになるのではないか。
ザミスの暗い青い目を思い出す。
自分を嫌っていても、本心でなくても、自分のために生き殺し死ぬ人々がいる。
それにラルディムは応えなければならなかった。
ロガレルを信じているといえば聞こえは良かったが、それはその責任から逃げているだけなのではないだろうか。
黙り込んだラルディムに、メミラがはっとした様子で頭を下げる。
「申し訳ありません、殿下。偉そうなことを言って……」
「いや、良いんです。そう考えたことはなかったと思って、自分の未熟さを実感していました」
メミラに頭を上げるように促す。
ラルディムはため息まじりに笑った。
「惜しいな。貴女のような考えのある人が王族なら良いのに」
「それは……」
メミラが何やら言い淀む。
ラルディムは気がついて、慌てて首を横に振った。
「あぁ、すみません。別に他意はないんです」
「殿下はその気がないのにその気があるようなことを言いますね」
「そんなつもりはなかったのだけれど……」
「人たらしってよく言われません?」
言われた覚えがあるので黙り込む。
それが面白かったのだろう、メミラはまた楽しそうに笑った。
「ふふ、殿下にその気があったら大変でしたね」
「すみません……」
「いつか殿下も安心して家庭を築けるような、心から愛せる人に出会えると良いですね」
心の底からそう思ってくれたのだろう、メミラは花のように微笑む。
その笑顔が心底綺麗だと思ったが、口には出さなかった。
それは伝えるべき言葉ではない。
「多分だけれど、私は人のことを愛することはないんじゃないかな」
代わりに自分の内側の誓いを口にする。
「国のために生きることと、個人を愛することは矛盾してしまうと思うから」
「…………」
「父は母や私に十分な愛を注いでいるとは言えないけれど、それが正しく王の姿なのだと思う。だから私は、誰も寂しい思いをしないように一人で生きようかと思って」
メミラは何も言わなかった。
そのまま緩やかな沈黙が降りる。
夏の午後の風は穏やかで暖かかった。
「それでは……それでは殿下が寂しくはありませんか?」
長い沈黙の後に、メミラが思い切ったように言う。
ラルディムはただ笑顔を返した。
それで全てだった。
────────────────────────
「で、どうだったんだ?」
帰ってくるなり、ぼうっとしたまま何も言わない従妹の頭を小突く。
メミラは深いため息をついて、机に突っ伏した。
ロガレルは眉を寄せる。
「見合いをして来てそんなに不機嫌になる奴がいるかね」
「不機嫌なわけじゃないの……」
「じゃあどうしたのさ」
長い黒髪を撫でる。
メミラは嫌がるようにその手を払いのけた。
「やっぱり不機嫌じゃないか」
「違うの、お兄様に怒ってるの」
「俺に?」
どういう飛び火の仕方だと顔を顰める。
メミラは少し顔を上げて、恨めしそうにロガレルを睨みつけた。
「どうして殿下をあんなままで放っておいたんです」
「あんなって?」
「あんなに寂しい人、私見たことない」
「寂しい?」
考えても見なかった言葉にきょとんとする。
寂しいだなんて、問題視したこともなかった。
メミラがまたため息をつく。
「やっぱりお兄様には人の心がないのよ」
「酷いこと言ってくれるね」
「殿下のこと見て悲しくならないのですか?」
悲しい。
それもまた自分には縁のない言葉だった。
確かに切実な部分のある人だとは思うが、それは自分には関係のないことだし、それが何かの問題になるとも考えたことはなかった。
「殿下は寂しい人です。あんな人、あのまま放っておけません」
「誰かに思い入れるなんてお前らしくもない」
「私の心は氷ではなく炎でできているんです」
お前の心は氷でできていると言われたわけだ。
ロガレルは苦笑いを浮かべる。
「で、放っておけないならどうするんだ?」
「お兄様がどうにかしてくださいまし」
「生憎、氷の心では他人の心までは支えてあげられなくてね」
「心を支える気がないのなら、どうしてお兄様は六年間も殿下に費やしたんですか」
それは根本的な質問だった。
自分はなぜラルディムに仕えているのか。
何が自分をそうさせるのか。
誰もがそれを疑問に思っていることを、ロガレルは知っていた。
ただそれには答えず、ロガレルは微笑む。
「殿下に心を支える他者が必要と思うならば、お前がそうなってやれば良い」
「結婚すれば良かったとでも言うんですか」
「それも一つではあるだろうね」
メミラがまた腕に顔を埋める。
「考えても見なさい。どうせ殿下は誰かとはご結婚なさるんだ、それなら真面な相手の方がマシだ」
「殿下がいつか誰かを愛するとは思っていないのですか。私はそうなって欲しいです」
「そうなれば良いけどねぇ」
あの人が誰かを愛せるだろうか。
他人を信じられなくなり部屋に籠った人が、また他人を信じられるようになるだろうか。
ロガレルは甘い期待はしていなかった。
とりあえず、王妃として問題のない人と一緒になってくれさえすれば良い。
そこに愛がなくても、情がなくても、事実さえあれば良かった。
「殿下が幸せになれれば良いのに……」
メミラがくぐもった声で呟く。
ロガレルは声をあげて笑った。
「お前、それはまるで愛じゃないか」
メミラは抗議するように顔を上げ、しかし何も言わずにそのまま座り直した。
ロガレルは戸惑ってその顔を見る。
「なんだよ、言い返さないの?」
「……殿下は不思議な人です。こちらがどんなに警戒していても、抵抗があっても、いつの間にか心の中に入り込んでいる。あれは一種の才能ですよ」
「ずいぶん高い評価だね」
「お兄様もそうなんでしょう。どうせ実利や何かのために近寄ったけれど、あの人のために人生を捧げても良いと思うようになった。そういう不思議さがある人ですから」
ロガレルは否定も肯定もしなかった。
「愛ね。確かにそういうものなのかもしれない。心配だし、幸せになって欲しいと思うし、支えたいと思うわ」
「それで、どうしたいの?」
「わからないから困っているんです……」
本当にこの従妹が困り切っているのがよくわかった。
何事もよく考え素早く判断する彼女にしては、珍しいことだった。
不思議なこともあるものだと思う。
あんなに強固な姿勢で出かけて行った彼女が、こうしてあの人のことで悩んでいる。
「私、どうしちゃったのかしら」
メミラが誰にともなく呟く。
ロガレルはその答えを知っているような気がしたが、あえて何も言わなかった。
人の心の機微などは、自分の知り得ることではない。
あとは時間に任せるだけだった。
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