最終話 りんご甘いか酸っぱいか
4年後、都築建築設計は千葉県に移転した。都内の社屋は老朽化が激しいうえに再開発の波にのまれた。社長は吠えた。
「地価ばかり高くてやってられるかー! これからはオンライン業務で海外の仕事を取るつもりでいく! 都内だけが日本じゃないからなっ! 中小企業の意地を見てろ!」
新しい社屋は高台にあり、太平洋が見えた。中はやはり雑然とCADシステム搭載のマシンが並び、社員になった洋子は『再生産される昭和』と戦う毎日だ。
「休憩所のコーヒーメーカーで、好きな時に自分で淹れるの、いいでしょ?」
シルバーグレーは「洋子さんが淹れるからコーヒーが美味しい」と、とぼけ声。
大輔がガードに入る。
「少しは遠慮してください、洋子さんは社屋統括管理者で、カフェやってるんじゃないですよ」
「ああ、新婚はいやだねぇ、愛があるから大丈夫ってかぁ」
都築社長はあいかわらずで、今は千葉の現地雇用の女子と戦っている。大輔も驚くスピードでCADを操る深谷女史だ。洋子は彼女の黒革のコートを見るなり、『同志!』と相槌を打った。今日も退社時に彼女のバイクが高らかに警笛を鳴らしている。
社長は「ま、元気が一番だ」と、あまり気にしない。
都築大輔と都築洋子は会社の駐車場が舗装なしだったので、社長にかけあって一本のリンゴの木を植えた。
「洋子さん、実がなったらみんなで食べよう」
「甘いですかねぇ」
「酸っぱいかもなぁ」
二人は激辛の麺を食べて泣いた夜を忘れなかった。
子供のように泣く大輔と大輔のために泣いた洋子。
あの晩、彼女は泣く泣く言った。
「取り戻しましょ、取り戻せますから。これから私と一緒にたくさん泣いたり笑ったりして、大丈夫、愛があるからってシルバーグレーが言ってましたから」
あの日を境に、辛いものを食べる回数は減って、いろいろな味を楽しむようになった。洋子も大輔も台所に立って、ああでもない、こうでもないとぶつかりながら長い婚約期を送った。
泣きっぱなしの子供をあやすようにして、昭和の澱からゆっくりと自分たちの時代を歩んでいく。時代の変わり目に時につまづきそうな時は、世代を超えた知恵が飛び出す。千葉に来てから社風は変わりつつあった。
「大輔さん、この先どうなると思う?」
「先の心配は止めて、今やることに集中だ」
「過去は?」
「消せないけど、縛られる必要はない。そう考えるようになった。洋子さんのおかげで」
「うん。やっぱり大輔さん、私より一歩先の大人だね」
「そう言ってくれる洋子さんも、僕より大人の部分がある」
「そう?」
洋子は大輔の指に触れ、しっとりした感触を心地よいと思う。
初めて触れた時よりずっといい指だと、洋子は握り返した。
激辛鍋が空になるまで セオリンゴ @09eiraku
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