第3話 秘め事
少女は、飛び跳ねるように立ち上がると、窓際の方へと一歩後退する。突然、見知らぬ男が暗がりから現れたのだ。少女の顔には、警戒と恐怖の色がありありと浮かんでいた。
クィントゥスは、少女を怯えさせないよう早く何か話さなくては、と口を開いた。
しかし、ちょうどその時、隣の食堂の方から扉を開ける音が聞こえた。
「……いいの? 勝手に入っちゃって」
「いいさ。ここの半分は、俺の家みたいなものだからな」
女と男の声が聞こえる。クィントゥスが先程、中庭で聞いた声と同じだ。
ぱっと食堂の方を見つめるクィントゥスの目が、食堂へと通じる扉に留まる。
(しまった、締め忘れた……)
そう気付いても、今更、閉めに戻るのは、もう遅い。
「なんだ、食堂か。確か……この隣が応接間だったかな」
そう言いながら男の声が応接間へと近付いてくる。クィントゥスは、警戒した表情のままでいる少女の腕を掴むと、咄嗟に近くにあった長椅子の後ろへと身を隠した。
――どうして隠れるの?
と、少女の不信げな瞳がクィントゥスに尋ねている。
でも、クィントゥスは、それに苦虫を噛み潰したような顔で答えると、人差し指を自分の唇に当てて見せた。
男が扉から応接間へと入ってくる。その背後から、女が様子を伺うように顔を覗かせた。
「誰もいない?」
「誰もいないさ。俺と、君の二人っきりさ……」
そう言って男が女に向かって腕を伸ばす。
空気が艶かしい色を帯びていく感触に、クィントゥスは、顔が熱くなるのを感じた。
(くっそ、あいつ……あとで覚えてろよっ)
それよりも、この状況を打開する策はないか、と思考を巡らせる。少女を見ると、彼女も事態の成り行きに気が付いたようで、身を硬くして下を俯いている。
(この暗がりに紛れて、中庭側の扉から外へ出るしかない)
そう考えたクィントゥスは、うつ伏せて床に腹をつけると、そろそろと扉の方へと移動をはじめた。少し進んでから、少女についてくるよう手で合図する。少女は、すぐにクィントゥスの考えを読み取り、後に続いた。
男と女は、互いに夢中で、床を這う二つの陰には気付かない。
こうして何とか気づかれないよう部屋を脱出した二人は、中庭の新鮮な空気を吸って、大きく息を吐いた。
互いに安心しきった顔を見せ合うと、どちらからともなく笑い声が漏れた。
そして、ひとしきり笑い合った後には、すっかり互いのことを、ずっと昔からよく知る間柄のような気持ちになっていた。
少女は、クィントゥスに向き合い、ドレスの端を指先で摘まみ、軽く膝を折ってお辞儀して見せた。その所作は滑らかで、先ほど大声を上げて笑っていた少女と同一人物とは思えないほど気品に満ちていた。
「私は、フォルトゥナ=リベロ=ルフス。ルフス侯爵の娘よ」
あなたは、とフォルトゥナの宵闇色の瞳が問うている。クィントゥスは、それを見て、慌てて姿勢を正した。
「クィントゥス=ユリウス=フェリクス。フェリクス伯爵の三男だ」
「三男? それなら、私と同じね。私も、三女なの」
フォルトゥナの瞳が再び少女のものに戻る。
侯爵と伯爵では、侯爵の方が階級は上だ。それでも、敢えて互いの共通点を見つけて喜ぶフォルトゥナに、クィントゥスは好感を持った。彼女は、クィントゥスの姉たちとは何かが違う、そう思った。
「今日、本当は夜会に来たこと、後悔していたの。周りは大人ばかりで話し相手もいなくて……でも、今は、来て良かったと思えるわ」
そう言ってフォルトゥナが微笑むと、時、クィントゥスの心臓が一際大きく跳ねた。
(フォルトゥナ……)
クィントゥスは、心の中で彼女の名前を呟いた。それは、不毛の荒野に瑞々しさを与えるように、クィントゥスの心を熱くした。今まで一度も人物画を描きたいと思ったことはなかったのに、彼女の絵なら描いてみてもいい、とクィントゥスは思った。
†††
「……やはり、ここを攻めるには、少し兵が足りぬか」
「兵糧攻めにするしかありませんな」
「しかし、そうなると、こちらも相応の準備が必要になる。兵糧はどこから……」
「アウネリウス子爵は、いかがお考えかな」
「え……わ、私ですか? 私は、その……見ているだけで……」
「なあに、そんなに重く受け止めることはないですぞ。これは、ただの
「わ、私は……その……父上の意見を聞いてみませぬと……」
アウネリウスは、自分に向けられた複数の視線に耐えきれないとでも言うように、自身の視線をそれらから外して答えた。
彼の目の前には、広い卓上に乗せられた一枚の地図と、その上に幾つかの駒が置かれている。卓の周りには、七、八人の紳士たちが等間隔に立っていて、アウネリウスの答えに、思わず互いの顔を見合わせた。
「まぁまぁ、アウネリウス殿には、まだ難しかったですかな」
髭を蓄えた一人の紳士がそう言って笑みを見せる。すると、それに同意するように他の紳士たちの中からも笑い声が上がった。中には、失笑を隠せない者もいたが、当のアウネリウスは、所在なさげに視線を動かしているので、それに気付かないでいる。ただ、その頬は、先ほどよりも赤みを帯びていて、答えられない自分を恥じているのか、もしくは、単に自分が話題の中心に上がったことに恐縮しているようにも見えた。
(愚かな兄さん……可哀想な兄さん)
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