第2話 月の光

 クィントゥスは、スピウスとの不毛な会話を一方的に打ち切ると、一人、広間を抜け出した。誰にも見咎められることなく、大理石の廊下を進み、自室へと向かう。途中、中庭の傍を通りかかる頃には、広間の喧騒が嘘のように辺りを静寂が支配していた。


 ふと、そのまま中庭を通り過ぎようとしたクィントゥスの足が止まる。何かを確かめるように耳を澄まし、辺りに視線を巡らせた。やはり聞き間違いではない。まるで静寂の音を旋律にしたかのようなピアノの音色がクィントゥスの耳にしかと届いた。それも広間からでははなく、中庭に面した応接間の方から聞こえてくる。


(誰だろう。シャーロット姉さんなら、さっき広間に居たのを見たし……)


 次女のシャーロットは、今年から社交界デビューを果たし、嫁ぎ先を見つけるため、母マルシェラと躍起になっていることをクィントゥスは知っている。今晩の夜会には、貴族の若い令息たちも多く招待しているため、この機会を逃す筈がない。


 長女のマリアンヌは、ちょうど二人目を妊娠しており、つわりがひどい所為で、そもそも今晩の夜会には参加していない。


 残る可能性があるのは、三女のミリエルだが、彼女は、今年八歳になったばかりで、夜会の邪魔にならないよう、既に侍女が寝かしつけている筈だ。例え、起きて部屋を抜け出したのだとしても、ピアノの練習をサボりがちなミリエルの腕前を考えると、彼女が犯人だとは到底考えられない。


 クィントゥスがピアノの演奏者について誰何すいかしていると、広間へと続く廊下から男女の楽し気な笑い声が近づいて来るのが聞こえてきた。遠目で顔まではっきりと見えないが、その男の声には聞き覚えがある。見つかったら面倒だと焦ったクィントゥスは、咄嗟に近くにあった扉を開けて、素早く身体を中へと滑り込ませた。その間も、ピアノの音色は途切れることなく、むしろはっきりとクィントゥスの耳に聞こえる。


 男女の笑い声は、徐々に近付いてきて、クィントゥスの居る部屋の前で止まった。クィントゥスがそっと聞き耳を立てていると、男の方が中庭の方へと女を誘導する声が聞こえた。そのまま二人の声が扉の傍から離れて行くのを確認し、そっと扉を開ける。僅かな隙間から外の様子を伺うと、二人が中庭のベンチに仲良く並んで腰かけている姿が見えた。


(参ったな……この調子じゃ、まだしばらく居座りそうだ)


 クィントゥスの自室へ戻るには、どうしても中庭の傍を横切らなければならない。今出て行ったら、確実に見つかってしまう。


 どうしたものかと悩むクィントゥスの耳に、ピアノの旋律がそっと優しくいざなうように聞こえてくる。


 クィントゥスは、部屋の中を見回した。窓の外から入る優しい光が、部屋の中を薄く照らしてくれている。片方の壁には、暖炉が静かに暗い口を開けて、傍には主のいない肘掛け椅子がぽつねんと鎮座している。サイドテーブルには、未完成の刺繍が置かれ、それを持って寛ぐ母マルシェラのたおやかな姿がクィントゥスの頭に浮かんだ。


 しかし、それ以外には何もない。手持無沙汰になったクィントゥスは、暖炉の向かい側にある扉を見つめた。その先には、家族で食事をとるための食堂があり、更にその先は、応接間へと続いている。応接間には、父の書斎に入りきらない書物を保管している小さな書棚と、姉妹たちが花嫁修業の一貫として練習に使っているグランドピアノがある。

 

(ちょっと、行ってみようかな)


 クィントゥスの心の中に、好奇心の芽が顔を出す。一体誰がピアノを弾いているのか、クィントゥスには見当もつかない。身内でないのならば、招待客の誰かだろう、というのは分かるが、明るく賑やかな夜会を抜け出してまで、このような暗がりに一人でいることを選ぶ物好きは自分だけだとクィントゥスは思っていた。


 淡い期待がクィントゥスの足どりを軽くする。クィントゥスは、ピアノの音がやまないようにと祈る気持ちで扉を開けた。


 クィントゥスが応接間へと続く扉を開けると、ピアノの音色は、一層はっきりとクィントゥスの耳に聞こえてきた。音は、突然の侵入者には気が付いていないようで、途切れることなく軽快なリズムを奏で続けている。軽やかな清流のように、かと思えば、深い水の底を揺蕩うように、そして、せめぎ合いながら空へと舞い上がる夢を見る鳥たち――――優しく、どこか物悲しくもある音色は、クィントゥスの心を無性に切ない気持ちにさせた。


 クィントゥスの目が応接間の奥へと注がれる。そこには、ちょうど窓と窓の間にある影に身を隠すように佇むグランドピアノと、その向こうに、人の姿があった。グランドピアノの開かれた屋根と譜面台の隙間から見えるのは、白く細い顎と、陽が暮れたばかりの空の色をした髪、深紅のドレス。


 クィントゥスは、立つ位置を少しずつずらしながらピアノの方へと近づいて行った。やがて、奏者の全容を視界に捉えた時、クィントゥスの瞳孔が見開かれる。


 鍵盤に白い指を這わせていたのは、一人の少女だった。


 窓の外から差し込む月光に照らされ、少女の肌が真珠のように煌いている。それが物悲しいピアノの旋律と相まって、まるで夢を見ているかのような錯覚をクィントゥスに与えた。彼は、それまで感じたことのない胸の高揚と共に、息をするのも忘れて目の前の情景に魅入っていた。


 やがて旋律は、静かな湖面へと収束し、少女の指が止まる。ちょうど曲を弾ききったのだろう。少女がほっと肩で息を吐く。そして、次に弾く曲を何にするか考えるように視線を空にさ迷わせ、クィントゥスの瞳とぶつかる。


「だれっ?!」

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