赤
あの日以来、私の「家」は静さんの所になった。
引っ越したわけじゃない。
ただ、私にとって帰る場所は静さんのところ。
それまでの家は食べて寝るところ。
「ただいま」を言う所じゃない。
静さんの家に行くたびに私を書いてくれた。
その作品を見る事はたまらなく甘美だった。
今日もお布団に横たわる。
そして、目を閉じる。
そうすると感覚の全てが鋭敏になり、夏の暑い風が木々を揺らす音。
蝉の声。
風鈴の音。
そして、静さんの息遣いや私を絵を書く時の筆の音まで全てが鮮明に聞こえて心地よい。
まるで、もう一つの世界に入ったみたい。
まるで夏と言う繭の中に帰っていくような……
そう思いながら目を閉じて顔を横に向けると、私のお着物の胸元と足元をずらし、そこに何かヒンヤリしたものを所々に塗るのを感じ、流石に驚いて目を開けると、それは……赤を浸した筆だった。
見ると、私の胸元や太ももにあちこちに赤い絵の具が塗られている。
「前も言ったでしょ。綺麗なものほど汚したい。里香ちゃんの肌ってまるで陶器みたい。それに、赤を塗ると……もっと綺麗。……そんな顔しないで、何も変なことしないから」
そう言いながら、今度は指で私の身体にそっと赤色を塗る。
血のような赤を。
「変なことなんてするはず無い。だって……汚いじゃない。体液とか」
え……
その言葉にゾッとした。
まさか……
「本当に……? でも……怖い」
「怖がらないで。私は綺麗なものが好きなの。美のために汚しはするけど、欲望で汚しはしない。それじゃ壊れちゃう」
「私……もう……帰る」
怯えながら言う私を見ると、静さんは突然目を輝かせた。
「嬉しい……知らなかった。怖がる顔って……綺麗なんだね」
私は、身体の芯に何か氷を詰め込まれたような気がした。
そして、慌てて立ち上がったとき。
隣の部屋から突然「ずる」と、何か大きなものが落ちる音がした。
それが何かは分からない。
でも、私はこれ以上ここに居てはいけない気がした。
「あの……お母さんとお約束が……今日はもう……」
あの音って……なんなの?
静さんは変わらず優しい笑顔で見ていた。
でも、その笑顔は良く見たら私ではなく「私の後ろの誰か」を見ているようだった。
「そう、分かったわ。また……来てくれる?」
無言で頷く私に静さんは満足そうに微笑んだ。
「約束よ。次は……もっと違うことしてあげる。もっと身体の奥から出てくる美しいこと」
私は必死に作り笑顔を浮かべて頷くと、静さんは能面のような表情で首を振った。
「ダメよ、里香ちゃん。そんな顔、綺麗じゃない」
私は何も言わずに家を出た。
蝉の声も風鈴の音も聞こえなかった。
お線香の香りも。
●○●○●○●○●○●○●○●○
あれ以来、静さんの家に行く事はなくなった。
会うことが怖くてお散歩もしなくなった。
そうして数ヶ月が過ぎると、戦地からお父さんが帰ってきたという話を受け、私たちは故郷に帰った。
それからは、お父さんはアメリカ軍相手の事業を始め、それが上手く行って私たちは人もうらやむ生活となった。
お母さんも別人のようににこやかになり、私の方は女学校に入学し当時としては最高峰に近い教育を受けた。
そして、急死した父に代わり事業を引き継いだ私は、会社をより発展させた。
その日々は刺激的だったが、時は驚くほどの速さで過ぎた。
そして40年が過ぎた。
自分の髪にも白いものが混じり、身体も以前ほどの活力が湧かない。
そろそろ事業も、息子に譲るときか。
わが子も25歳。
そろそろ良い頃合だ。
そんな事を考えつつ、ぽっかりと空白となった数日間をどう凄そうかと考えた私の脳裏に、ふとあの家が浮かんだ。
静さんの家。
あの一時は何だったんだろう……
今でもよく分からない。
でも、たまらない衝動……そして好奇心に突き動かされ、私は再びあの場所を訪れる事にした。
久しぶりの集落はすでに存在していなかった。
いや、正しくは存在していたがすでに人は住んでいない。
私が苛められていた子供たちの家も、意地悪な叔母さんの家も全てが無人だった。
あの神社はまだあったが、長い風雪にあちこちが痛んでいる。
でも、この夏の日の陰影だけは変わらない。
あぜ道を照らす夏の光。
それが作る、絵画よりも美しい景色。
蝉の声や風の音。
私は両手を上げてみた。
高級な服に包まれ、皺や染みが目立つ腕。
でも、意識はあの少女の時に戻る。
そのままクルクル回る。
あの時は見つかったら、と怖かったが今はそんな人はいない。
当時の人たちはどうしてるんだろう……
あの時。
集落の世界が自分の世界の全てだと思ってた。
だから、そこから逃げ出したかった。
今なら分かる。
私は逃げたかった。
でも、こうして50歳を過ぎて見てみると、あんなに嫌悪し恐れていた景色は存在しない。
居るのは自分。
どんなに怖くても。
どんなに嫌いでも。
それは世界の全てなんかじゃなかった。
人の作り出した箱庭だった。
本当の景色はただ、最初から変わらずそこにあるだけ。
苦悩していた自分が滑稽で愛おしい。
あれは歪ではあったが……青春だったのかもしれない。
私は水筒の水を飲むと、そのまま歩いた。
あの家へ。
これで全て終わる……私の青春は。
静さんの家も変わらなかった。
いや、長い年月で文字通りの廃屋になってはいたが、当時の少女の頃の景色が浮かび、塗りなおされた。
静さん……どうしてるかな。
私は胸が一杯になった。
今思い返すと、あの時の事も箱庭だった。
なんであんな事に怯えていたのだろう……
むしろ、今思い返すと……私はあの人に……恋していた。
仄かな淡い初恋……
私は笑みを浮かべると、家の中に足を踏み入れた。
当たり前だけど人の気配はしない。
ギシギシと床板がきしむ音がする。
虫もサッといなくなる。
当時の私だったら絶対に耐えられなかった。
「汚い物は嫌い、とか言って」
そんな娘の頃の自分に笑えてしまう。
当時の自分が今の自分を見たら、どう思うだろうか。
仕事のために汚いものにも手を染めてきた自分。
汚いものの中に「メリット」と言う美を見出した自分。
当時の私が目を逸らすであろう、大人の自分。
嫌悪に満ちた目で見るに違いない。
でもね……それも、紛れもなく「私」なの。
当時は遥か高くにあると思っていた天井も、驚くほど低い。
お話の中の未知の世界に見えていた家も、単なる小さな廃墟だ。
当時は人が住んでるとは思えないほど生活感の無い室内、と感じていた家の中は見てみると食器もカレンダーも布団もある普通の家だった。
そう。
至って普通の……
そう思ったとき。
私は足がその場に止まった。
なんで全部あるの?
充分に準備して引っ越したなら、家の中は何も無いはずだ。
なのになぜ、カレンダーも食器も……布団さえも。
「どういう事……」
そうつぶやきながらも私の足はあの部屋に向かう。
なぜか足が動く。
鮮やかな夏の光は、いつの間にか鮮やかな朱の光に変わっていた。
夏の夕暮れは、昼間とは別の陰影を生み出す。
部屋はふすまで閉まっていた。
私は自分が酷く震えているのを感じた。
汗が出ているのは暑いだけで無い事も分かる。
ここを開けてはいけない。
私の中の何かがそう告げている。
見るべきではない何かがある。
でも……私はふすまに手をかけた。
私の青春。
大切で……大嫌いな日々。
深く息をはき、ふすまを開けた私は、自分の悲鳴をどこか遠くで聞いているような気がした。
●○●○●○●○●○●○●○●○
どうやって家を出たのか覚えていない。
気がついたら神社の近くに来ていて、さらに走り、近くの街に着くとそこの電話ボックスから運転手に連絡して迎えに来させた。
電車で帰る気になどならない。
やってきた車の後部座席に乗り込むと、ようやく人心地ついた。
「……どうなされましたか、奥様」
「なんでもないわ。それよりもっとスピードを上げて頂戴」
少しでも離れたかった。
あの光景。
あの家に入った事を心底後悔した。
ふすまを開けた私の目に飛び込んだのは、部屋中に飛び散った赤……いや、どす黒さの混じる赤茶色。
そして、正面のふすまの数箇所に着いた同じく赤茶色の引きずったような跡の手形。
その中心には……
同じ色でこう書かれていた。
ひどく乱れた字で。
「おかえりなさい」
●○●○●○●○●○●○●○●○
結局警察は呼ばなかった。
あれは赤い絵の具。
そう思うことにした。
絵の具なら警察は必要ない。
私は広いリビングで一人、ダージリンティーを飲みながらそう繰り返した。
警察を呼べば全てがハッキリする。
でも出来なかった。
そうすることで、本当に取り返しのつかない何かを見つけてしまう。
そんな気がした。
だから、この景色は墓場まで持っていく。
私の歪な青春と共に。
そう、それでいい……
私はそう思いながら、ひと眠りしようと寝室へ向かう。
蝉の声と風鈴の音が心地よく響く。
どこからかお線香の香りも。
【終わり】
帰る 京野 薫 @kkyono
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