帰る
京野 薫
陰影
私が彼女……
長い長い戦争が終わり、熱に浮かされていたような全てから何かがすぽっ、っと抜けてしまったような。
そんなふわふわした空気。
全てが終わった後に漂う、ふんわりした静けさ。
そんな中で出会った。
当時12歳の私が住んでいた街は空襲が酷かったので、お母さんと一緒に田舎に避難したが、そのせいもあって静寂に覆われていた。
お母さんも、こっちに来てからずっと塞ぎこんでいて、私の事は放り出し。
集落の子供たちもよそ者の私にはまるで石ころのように無関心。
だけど、私はそれを苦に思わなかった。
元々、1人で静かな環境に居る事が好きだったので、むしろ嬉しい。
なので、今日も人が死に絶えたかのようなあぜ道を1人歩く。
夏の強い日の光が、クッキリとした陰影を描き出す。
草いきれの匂いが肺を満たす。
砂利を踏む自分の足音さえも鮮明に聞こえるほどの静寂。
クッキリした陰影って、なぜこんなに美しいんだろう……
絵を書く事が好きなので、何回も書こうとしたけど無理だった。
自然を見て綺麗、と思った物を人の手で表現しつくす事は出来ない。
だって、それは仏様の作品の模倣に過ぎないんだから。
特に四季の中で一番陰影の鮮やかな「夏」は仏様の産み落とされた最高傑作。
私は立ち止まると、自分の両手を顔の前にあげる。
下を見ると、自分の腕で出来た影が地面に映る。
そして自分の細く、白い腕が。
少女である自分も好きだ。
だって、男の子は綺麗じゃないから。
だから住まわせてもらっている叔母さんの家も嫌い。
家も、そこで私とお母さんに向けられる言葉も、視線も綺麗じゃない。
集落の大人も子供たちも綺麗じゃない。
みんな汚い。
汚いのは嫌い。
だから、1人で居たい。
ああ……この夏の光と音に吸い込まれて消えてしまえたらいいのに……
私はその場で両手を広げたままクルクル回る。
人に見られたら変に思われるであろうこの行為をしていると、いけない事をしているような気分になって楽しい。
水筒のお水をこくり、と飲むと私は神社の階段を登る。
一番のお気に入り。
だって、緑も多くて涼しくて……何より神社は陰と陽が一番クッキリしている。
神社の境内に向かいお参りすると、当てもなく歩いた。
すると、境内の影から声が聞こえた。
「ねえ、何してるの?」
人が居るとは思わずに驚いて顔を向けると、そこには1人の女性が立っていた。
私は目を離せなかった。
その美しさに。
肩まで伸びた黒い髪。
藍色の着物。
そして、その顔の造作に。
こんな人が……こんな集落に。
あ……そういえば、叔母さんが言ってたな。
集落の外れに「キチガイ女」が居るから関わっちゃいけない、と。
でも……この人じゃないよね。
私は小さく頭を下げた。
「お散歩をしてます。特にどこに行くわけでもなくて……」
そういいながらも胸の激しい鼓動が収まらない。
目の前の女性から目が離せなかった。
仏様が頑張ってお作りになられた方なんだな……
女性は私を見て、優しく微笑むと歩いてきた。
「そうなんだ。私も一緒。当てが無いの」
女性は私の目の前に来ると、そっと私の髪に触れた。
そして言った。
「ねえ、大丈夫? 汗……凄く沢山。良かったら家に来ない? 冷たい麦茶があるんだけど」
私はその夏の夜空のような深くて黒い瞳に吸い込まれるように頷いた。
●○●○●○●○●○●○●○●○
女性は、静さんと言うらしい。
埃一つ無いお部屋の座布団に座った私は、ちゃぶ台と仏壇。そして風鈴以外何も無いお部屋に漂う畳の匂いと風鈴のちりん、と言う音だけが現実につなぎとめられてるように感じた。
あと、お隣の部屋から漂うお線香の香りが……
「ありがとう、来てくれて。この集落に来て以来初めてのお客様。ねえ……お名前、聞かせてくれる? 出来れば年齢も」
「安藤……
「そうなの……里香ちゃんって言うのね。まるで外国の人みたいだね」
私は無言で俯いた。
この名前でよく「敵国のガキみたいだ」と男の子たちに苛められたことを思い出す。
私は、沈んだ気持ちを変えようと麦茶を飲んで、言った。
「有難うございました。とても美味しかったです。あの……じゃあ、そろそろ」
私がそう言うと、静香さんは薄く微笑んで私の隣に座った。
「ねえ、里香ちゃん。麦茶のお礼……欲しいな」
私はギョッとして静香さんの顔を見た。
「あの……お礼って。私、お金とか無くて……」
静香さんはゆっくり首を振った。
「そんなのいらない。ただ……あなたを書かせて欲しいの」
「書く……」
「そう。実はね、怒らないで聞いて欲しいんだけど、私ずっとあなたを見てたの。あなたがお外を散歩する時にいつも合わせて、外に出て。何で? あなたが……可愛いから」
そう言うと、静香さんは私の髪をそっと撫でる。
「私、綺麗なものが大好き。でも、この集落はどこも綺麗なものがない。辛くて死んじゃいそう。変な事はしない。そんなの綺麗じゃないから。ただ、あなたを書かせて欲しい」
私は静さんの瞳、そして畳の匂いと蝉の声。
……風鈴のちりん、と言う音と、お線香の香りに脳の奥がしびれるような気持ちになって、頷いていた。
私の返事を確認した静さんは二度ほど頷くと、隣の部屋に入り大きな画材を持ってきた。
そしてなぜかちゃぶ台を片付けて、代わりにお布団を敷く。
うろたえながら見る私に静さんはクスクス笑った。
「大丈夫。そういう絵を描きたいだけ。……さ、横になって」
静さんの声はまるで鈴の音のように澄んでいて、軽やかだった。
それを聞いてると、もっと浸っていたいとさえ感じる。
そうだ。
このまま帰ってもどうせ、嫌な目や声で怒る叔母さんや壁ばかりぼんやり見つめる母親。
苛めてくる男の子ばかり。
それに比べて、このお部屋は。
そして静さんは……綺麗だ。
私は無言でお布団に横たわった。
すると、静さんは画材を広げ準備し終わると私を熱っぽく見つめて筆を走らせる。
そして、途中で筆を止めると私に近づき、お着物の胸元と足元をそっとずらした。
驚く私に静さんは笑顔で唇に指を当てる。
「大丈夫。こっちの方が美しいと思っただけ。……ねえ、思うんだけど『美』って、完璧なものだけが美じゃないと思うの。曇り一つ無い純白に落ちた、一滴の墨。それが美になったりする。綺麗な里香ちゃんの乱れた姿……好き」
好き……
久しく聞かなかったその言葉は甘美な蜜のように私の心にぽとり、と落ちた。
そしてまるで透明な水の中の一滴の墨のように広がっていく。
私は目を閉じると、顔を横に傾けた。
静さんはさらに書き続ける。
そして完成した私の絵は……妖しく、美しかった。
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