問題です

月真猫

問題

問題です


 翔琉の口癖が、二日酔いでカラカラの頭に響く。枕に沈む空っぽの癖に重たい頭が、その軽快な声に震え、私の心を苛立たせる。


「問題です。僕が作った朝ごはんはなんでしょうか?」


 その声変わりを終えていない中学生のような高い声が、アルコールが溜まっている私の心底で、足踏みをしてストレスを踏み固める。


「問題です。今何時でしょうか?」


「うるさいなぁ」と枕の中に呟いて布団を被り直す。


「問題でーす!今日、翔琉と美羽は何処に出掛けるのでしょうか?」


 んー…と呻きながら仰向けになり、枕の横に放られているスマホ画面に指を這わせる。

 画面に映る13:46という文字を見て、バッと布団を跳ね除けて身を起こした。


「ごめん!起きた!今起きた!」


 翔琉の声がする方を向くと、その顔を左手で覆い首をやれやれと振っているのが見えた。


「問題です。翔琉君は今日のお出掛けを諦めて、家でゆっくりすることに決めました。それは何故でしょう?」


 クイズが私のストレスを刺激する。しかし、寝坊して彼を裏切っている私は、そのクイズに答えないという回答をすることは、今は許されないだろう。


「私が昨夜飲み過ぎて、二日酔いだから……です」


「問題です。こういう時、人はなんというでしょうか?」


「ごめんなさい」


こうして、彼のクイズで私の一日は始まる。



 翔琉との生活は、一言で言えば「クイズ漬け」だった。それも普通のクイズではなく、水平思考クイズ――いわゆる「意味が分かると怖い話」に近いものだ。彼はそれが大好きで、何かにつけて問題を出してくる。


 例えば――


「問題です。この家には『窓』が全部でいくつあるでしょう?」


 夕食後、リビングでテレビを見ている時も突然始まる。「知らないよ」と答えると、「じゃあヒント出す?」と嬉しそうに言う。その顔を見ると、「もういいよ」と言いたくなる自分を抑え込むしかなかった。


 ある日、彼が出した水平思考クイズが妙に記憶に残っている。


「問題です。一人暮らしの男が家に帰ると、『おかえり』という声が聞こえました。でも男はその瞬間、警察に通報しました。なぜでしょう?」


 私は考え込んだ。「一人暮らしなのに誰かいるから……?」と言うと、「惜しい!」と彼は笑った。そして答えを教えてくれた。


「正解は、『その声が自分の声だったから』だよ。一人暮らしなのに、自分そっくりな声が聞こえたら怖くない?」


 その時は笑って流したけれど、その後も妙な既視感や違和感が胸の奥底に残った。翔琉自身もどこか普通ではないような気がしてならなかった。


 大学生として忙しい毎日を送る私にとって、社会人である翔琉との関係は次第に負担になりつつあった。彼の世話焼きな部分も最初こそ微笑ましかったものの、それが過剰になるにつれて、私には息苦しささえ感じられるようになっていた。


 例えば、私が友達と飲みに行くと言えば、「問題です。その友達、本当に信頼できる?」などと言われる。

  最初は冗談だと思っていたけれど、それが繰り返されるので、次第に不安感さえ覚えるようになった。


 さらに奇妙だったのは、翔琉の異常な記憶力だ。私が何気なく言ったこと――例えば、好きな映画や嫌いな食べ物の事。それらすべてを完璧に覚えている。それだけならまだしも、それを使って水平思考クイズ風に絡んでくるのだ。


ある晩、私はふと口走った。「最近疲れてるんだよね」と。その翌日――


「問題です。美羽ちゃんが疲れている理由はなんでしょう?」


 その問いかけにはぞっとした。「どうしてそんなこと聞くの?」と思わず返すと、「だって昨日言ってたじゃん」と笑顔で返された。その笑顔にはどこか冷たさが混じっていた気がする。


 ある日、その違和感と彼に対する飽和した感情が、心から溢れ出したのを感じ、意を決して翔琉に別れ話を切り出した。これ以上、この奇妙な関係を続けてはいけないと思ったからだ。


「翔琉……もう無理なんだけど」


 その言葉に彼は驚いた様子だったが、すぐにいつもの調子でこう言った。


「問題です。美羽ちゃんは本気でしょうか?」


 その瞬間、私の中で何かが切れた。「本気だよ!」と強い口調で言い放つと、翔琉はしばらく黙り込んだ。そして最後に、「分かった」とだけ呟いて去って行った。

 その背中にはいつもの子供っぽさもなく、大人びた冷たい影だけが漂っていた。


 翌る日、スマホを手にしたのは、夜中の静けさが一層不気味さを際立たせる時間帯だった。部屋の明かりは消え、月明かりだけが薄暗く差し込む中、突然スマホが震えた。その音が静寂を切り裂き、心臓を跳ね上げる。

 

 画面には「FINE」からの通知。そこにはただ一言

 

「問題です」


 私は震える手で画面を開いた。そこには夜の海の画像が表示されている。波打ち際がぼんやりと映し出され、その暗い色合いはどこか不吉だった。そしてその下に新たなメッセージが現れる。

 

「ここは何処でしょう?」

 

「やめて……」

 スマホを閉じようとした次の瞬間、再び通知音が鳴り響く。恐る恐る画面を見ると、次の画像が表示されていた。

 砂浜から海へ近づく視点で撮影された写真。それはまるでカメラを持った誰かが海へ歩み寄っているような構図だった。そしてまたしてもメッセージが届く。

 

「問題です。これから私は何処に行くでしょう?」

 

 スマホ画面には暗闇に浮かぶ波打ち際が新たに受信されるとともに、メッセージが表示された。

「問題です。この場所はどこでしょう?」

 

 私がその画像を見ると、耳元で水滴が落ちる音が聞こえた。それはスマホのスピーカーから鳴っているようだった。

 次々と送られてくる画像には、不気味な変化が加わっていく。


 指先は冷たくなり、画面を操作する力すら失いそうになる。

 次々に受信される画像とメッセージ。

 海に身体が浸かっており、水面に反射する月光が不気味に揺れている。

「問題です。私は今悲しんでいますか?」

 

 水中に半分までカメラが浸かったアングル。画像下半分には泡が浮かび上がっている。

「問題です。私は絶望していますか?」

 

 海底へ沈んでいくような、既にカメラ全体が水中に潜っている画像。暗闇ではあるが、うっすらと無数の手のような影がぼんやりと浮かび上がっている。

「問題です。私の答えは間違っていましたか?」

 

 赤黒い色調に染まった水中。泡立つ暗闇の中で叫び声を上げているような歪んだ顔がぼんやりと見える。

「問ダイです。私はじぎくニますか?」

 

 何も映っていないようでいて、よく見ると無数の小さな泡だけが浮かび上がっている。泡の奥で赤く染まる苦しみ歪んだ顔が複数写り込んでいる。

「ダイで。この先、ワタし、どコヘかいのでにちょう?」

 

 最後には真っ赤な背景の画像。そこには血文字で「あなたも来るべき場所」と書かれていた。


 私は耐えきれずスマホを強制的に電源オフにしようとした。しかし、電源ボタンを押しても画面は消えない。それどころか、さらに強制的に通知音が鳴り響き続ける。

 

「はっはっひっっく」と声にならない息を吐く。次に試したのはアカウント削除だった。しかし、「FINE」のアプリを開こうとすると画面全体が真っ赤になり、「削除できません」という文字だけが表示される。そしてまた新たな通知が来る。


 私は耐えきれずに受信したものを確かめないままスマホを投げ捨てた。しかし、スマホが壁に打ち付けられる音すら虚しく響くだけだった。

 そして再び通知音――壁際に転がるスマホが赤く光っている。

 

「問題です。この画像の中にあなたはいますか?」

 画面には暗い海底。よく見ると、その中には自分にそっくりな顔が一瞬だけ浮かび上がった。


 私は遠目から見えるその忌まわしい画面から目を離すことが出来ないまま、永遠とも思える時間、恐怖を感じていた。翔琉自身がおぞましい存在へ変貌したような錯覚さえ覚える。そして、一度暗転したスマホがすぐに赤く光って、自分自身への問いかけとも取れるメッセージが表示される。


「問題です。私を振った女は地獄に堕ちますか?」


 その夜、私は眠ることが出来なかった。スマホを拾い上げ、近くにあるゴミ箱へ投げ捨てた後も、頭の中で「問題です」という翔琉の声が何度もリフレインする。

 あの高い声、子供じみた口調。それが今では、頭の中を駆け巡り、耳元で囁かれている様に、背筋が凍るような恐怖に変わっていた。


「どうしてどうしてどうしてどうして」


 呟き続けても答えは出ない。翔琉との別れ話を切り出した時の彼の表情が、何度も脳裏に浮かぶ。あの時、彼は笑っていたようにも見えたし、泣いていたようにも見えた。どちらとも取れる曖昧な表情が、今になって追い詰めてくる。


 翌日、親友の沙織に会うことにした。沙織は大学時代からの付き合いで、私が心を許せる数少ない人物だった。カフェで向かい合いながら、昨夜の出来事を全て話した。


「それ、本当に翔琉からのメッセージなの?」


 沙織は眉をひそめながら言った。「だって、別れたんでしょ?普通そんなことしないよね?」


「そうなんだけど……でも、あれは絶対に翔琉なの……」


「でもさ、SNSってハッキングとかもあるじゃん?もしかしたら誰かが悪ふざけしてるだけかもよ?」


 沙織の言葉には一理あった。けれど、心にはどうしても拭いきれない違和感が残っていた。あのメッセージには、翔琉特有の「クセ」があったのだ。それは彼と長く付き合った私だからこそ分かるものだった。


「……でもさ」


 沙織がふと口を開く。


「もし本当に翔琉だったら……それって、生きてる人間じゃないよね?」


 その言葉に、思わず息を呑んだ。


 その日の夜、自分の部屋で一人考え込んでいた。翔琉との日々を思い返すうちに、彼が出してきた数々の水平思考クイズが頭をよぎる。


 ある日、翔琉がこんなクイズを出したことがあった。


「問題です。一人暮らしの女性が毎晩寝る前に必ず玄関を確認します。でもある日、その確認を怠った結果、大変なことになりました。それは何故でしょう?」


 その時、私は答えられなかった。翔琉は嬉しそうにこう続けた。


「正解は、『玄関の鍵が開いていたから』だよ。そのせいで泥棒に入られて……まあ、大変なことになっちゃうんだよね」


 その時はただの怖い話だと思っただけだった。でも今になって、そのクイズには妙なリアリティがあるように思えてならなかった。まるで、翔琉自身が何かを暗示していたかのように――。


 その夜、再びスマホが鳴った。「FINE」から新しい通知だ。


「問題です」


 思いがけずに「ひっ」と声が出た。添付された画像には、今度は私の部屋が映し出されていた。それも現在進行形で撮影されたような鮮明さだった。


 ベッドに置かれたクッション。

 デスクに散らばるノートやペン。

 そして最後には、私が写り込んだ画像。それも背後から撮影されている。


 私は恐怖でスマホを放り投げた。そして震える手で部屋中を見回すが、誰もいない。窓も鍵も閉まっている。それなのに、この写真はいったいどうやって撮られたというのか。えもいわれぬ恐怖が私を包み込む。


 不意にまた通知音が鳴り響く。


「問題です。この部屋には今何人いますか?」


 私は耐えきれず部屋を飛び出した。その足で沙織の家へ向かう。インターホンを押すと、眠そうな顔をした沙織が出迎えてくれた。


「どうしたの?こんな時間に……」


 私は震える声で事情を説明する。「お願い、一緒にいてほしい」と懇願すると、沙織は快く頷いてくれた。


「大丈夫だよ。今日はここで寝ていいから」


 沙織の優しさに少しだけ安堵するが、その夜も安眠とは程遠かった。浅い夢の中で繰り返し聞こえるあの声。


「問題です。私を振った女は今どこにいますか?」


 目覚めると汗びっしょりだった。そして枕元には、自分では見覚えのないスマホが置かれていた。その画面には、新しいメッセージが表示されている。


「問題です。このスマホは誰のものですか?」


 私は枕元に置かれた見知らぬスマホを凝視していた。震える手でそれを拾い上げると、画面には再びメッセージが表示されている。


「問題です。このスマホは誰のものですか?」


「……何……これ……」


 反応を待つかの様に、再び表示されるメッセージへ思わず呟く。さらに不気味だったのは、そのスマホの壁紙が翔琉の顔写真だったことだ。笑顔でピースをしている翔琉。その姿が今では異様に見える。


「沙織……!」


 私は隣室で寝ている沙織を呼ぼうとした。しかし、声を出そうとした瞬間、スマホが再び震えた。


「問題です。隣の部屋にいる人は本当に沙織さんですか?」


 そのメッセージを見た瞬間、私の体は一瞬硬直した。しかし、親友の安否が気になり、心を奮い立たせて硬直をなんとか解き、恐る恐る隣室のドアを開ける。


 薄目でドアから覗ける範囲をゆっくりと確認すると、沙織はベッドで静かに眠っているのが見えた。私は安堵し、そっと近づいて肩を揺さぶる。


「沙織……起きて……」


 しかし、沙織は反応しない。再び肩を揺さぶると、彼女の体が不自然にぐらりと力無くだらりと傾いた。服を着せた重たい肉の人形の様だ。反発されずに指がめり込み、グニグニとした感触が手に残る。


「嘘……」


 私は後ずさりしながら叫びそうになる声を必死で押し殺した。沙織の顔色は青白く、まるで息をしていないように見える。だが、それ以上確認する勇気はなく、その人型を見つめるだけしか出来ない。


 その時、背後でスマホが震える音が響いた。


「問題です。この部屋には今何人いますか?」


 振り返りたくなかった。しかし、振り返らざるを得なかった。一刻も早く後ろのドアから外に出て、玄関に向かわなければいけない。


 ドアの方へ振り返り、玄関へ向かう導線へ身体を動かすが、沙織が横たわる部屋の中に気配を感じ、祈る思いで振り返ってしまった。

 そこには、ぼんやりと立つ人影が立っている。びしょ濡れで、髪から滴る水滴が床に落ちるぴちゃぴちゃという音まで聞こえるほどだった。その影が一歩ずつゆっくりと近づいてくるたび、私の心臓は壊れそうなほど激しく鼓動した。


「か、翔琉……?」


 震える声で名前を呼ぶ。しかし、その影から返事はない。ただじっと、私を見つめているようだった。そして次の瞬間、ゆっくりとした歩みを止め、その影が口を開いた。


「問題です」


 その声は、間違いなく翔琉の声だ。しかし、それは以前聞いた明るく軽快な声ではなく、低く湿った、不気味な響きを持つ声だった。


「問題です。僕がここにいる理由はなんでしょう?」


 私は答えられなかった。ただ震えながら後ずさることしかできない。すると翔琉、いや、その影はさらに続けた。


「問題です。僕をこんな風にしたのは誰でしょう?」


 その問いには明確な答えがあった。しかし、私にはそれを口にすることができなかった。わかっているが、答えに出来ない。翔琉がこうなった原因には、自分自身にも責任があるからだ。


 翔琉との付き合い始めの日々、私には翔琉へ抱く複雑な感情があった。それは愛情だけではなく、どこか依存的で支配的な彼への嫌悪感があった。そしてその嫌悪感から、時折冷たい態度や無意識に傷つける言葉を投げかけてしまうこともあった。


 例えば、ある日の出来事――


「問題です。この服、美羽ちゃん的にはどう?」


 翔琉がお気に入りだと言って買った服について尋ねてきた時、私は疲れていたせいもあってこう答えてしまった。


「ダサいよ、それ」


 冗談半分だった。しかし、その時の翔琉の表情は一瞬だけ曇り、その後無理やり笑顔を作ったような顔になった。それが今でも記憶に焼き付いている。そしてその日から、翔琉が少しずつ変わっていったようにも思えた。


 彼のクイズ好きもエスカレートし、次第に執拗さや異常性を帯びていった。それでも私は「彼が変わった原因」を自分自身だとは認めたくなかった。そして別れ話を切り出すことで、その責任から逃れようとしていた。私自身は一時の感情をぶつけただけなのかもしれないが、翔琉からすると、大きく自分自身を否定され、蔑まされ、プライドをへし折られた気持ちなのかもしれない。

 その反動から、得意なクイズを私に繰り返し出題して、自分の存在を私よりも優位に立たせたかったのだ。

 

 目の前の翔琉――いや、それらしき存在は静かに私へ問い続ける。その声には怒りも悲しみも混じっているようだった。


「問題です。僕が絶望した理由はなんでしょう?」


 私はとうとう涙を流しながら叫んだ。


「私だよ! 私が悪いんでしょ? 私が冷たかったから……私があなたを振ったから……!」


 その言葉に影、翔琉は一瞬動きを止めた。そして低く笑うような声を上げながらこう言った。


「正解」


 その瞬間、部屋全体が真っ赤に染まった。壁や天井からぱちゃぱちゃと水滴が滴り落ち、床には黒い水溜まりが広がっていく。そしてその中から無数の赤黒い手が伸び、私へと迫ってきた。


 無数の赤黒い手から逃れようと必死にもがきながら叫んだ。しかし、私の脚を一本の腕が掴み、身体が固定される。バタバタと手が私の脚から、腹へ徐々に重なる様に覆い被さって、身体が床に広がる黒い水溜りへ引き摺り込む。

 声にならない声で必死に声を上げるが、その声も次第に水音へと飲み込まれていく。

 そして最後に聞こえた声――


「問題です。この先、美羽ちゃんはどこへ行くのでしょう?」


 水音に包まれながら、目の前の光景が現実なのか夢なのかすら分からなくなっていた。水上に見えるのは赤く染まった部屋、体の半分を覆う、底から伸びる無数の手。それらすべてが、私を引きずり込もうとしている。


「やめて……お願い……!」


 ガボガボと泡を吐き出しながら水中で必死に叫ぶが、その声は虚空に吸い込まれるように消えていく。そして再び、あの声が響いた。


「問題です。この先、美羽ちゃんはどこへ行くのでしょう?」


 翔琉。いや、翔琉だったものの声だ。その問いの答えはなんとなしにわかってはいたが、答えたくなかった。しかし、答えないことがさらに恐怖を呼び込むような気がして、葛藤する私は震える声で呟いた。


「……いや、いやだ……」


 その瞬間、部屋全体が揺れるように歪んだ。そして目の前の翔琉の影が、ゆっくりと笑みを浮かべた。


「ヒント。自殺した僕が今から行くところ」


 その言葉とともに、私の身体は勢いよく引き摺り込まれて完全に飲み込まれた。視界が暗転し、耳には遠くから聞こえる波音だけが残った。


 次に目を覚ました時、自分がどこにいるのか分からなかった。見渡す限り真っ暗で、湿った空気が肌にまとわりついている。足元には冷たい水が広がり、どこか遠くで誰かのすすり泣きが聞こえるような気がした。


「ここ……は……?」


 呟いた声も、自分自身の耳には届かないような感覚だった。その時、不意に足元から何か硬いものを踏んだ感触がした。恐る恐る拾い上げると、それはスマホだった。画面にはメッセージが表示されている。


「問題です。この場所はどこでしょう?」


その問いに私は答えられなかった。ただ震えながらスマホを握りしめるしかできない。そして次の瞬間、画面が切り替わり、新たなメッセージが表示された。


「ヒント:ここは僕が堕ちた場所です」


そのメッセージを見た瞬間、全身に寒気を覚えた。「堕ちた場所」という言葉。やはり、そこは翔琉が自ら命を絶った事で行き着く場所を指しているのだろうか。


 震えながら指さきを唇にあてて考え込む私の耳に、不意にまたあの声が響いた。


「問題です。僕が堕ちた理由はなんでしょう?」


 振り返るとそこには、びしょ濡れで不気味な笑みを浮かべた彼が立っていた。その姿は以前よりもさらに異様だった。肌は青白く、水滴が滴り落ちる音だけでなく、その体から漂う腐臭まで感じられる。


「答えてよ、美羽ちゃん。」


 彼は一歩ずつゆっくりと近づいてくる。足を前に出すたびにびちゃりと音を立てながら。その声には以前のような軽快さも、優しさもない。ただ冷たい執念だけが滲んでいた。


「答えられないなら、一緒に考えようか?」


 そう言いながら翔琉はふやけている様なぶよぶよの手を伸ばした。その手には何か黒い液体がまとわりついているように見える。それが私へ触れる寸前のこと。


 私の頭の中に過去の日々がフラッシュバックするように浮かび上がった。翔琉との出会い、楽しかった日々、そして次第に歪んでいった関係性。その中で、私自身も気づいてしまったこと――


 私もまた翔琉を利用していたという事実だった。最初はただ頼れる存在として付き合っていた。しかし次第に翔琉への愛情よりも、「自分を好いてくれる人」という安心感だけを求めてしまっていた。そしてその結果として、翔琉を傷つける言葉や態度を繰り返してしまったこと。それこそが彼を追い詰めた原因だという答えに辿り着いた。


「私……私が悪かった……」


  私は涙ながらに呟いた。その言葉に翔琉は静かに微笑んだ。


「正解。」


 その時、周囲から水音とともに無数の手が伸びてきた。それらは更に地中深くへと、私の身体を引きずり込もうとするようだった。しかし、その中で一際大きな手だけが肩に触れた。それは冷たいけれど、不思議と優しさも感じられる手だった。


 再び、いつの間にか手に持っていたスマホから通知音が鳴る。画面にはメッセージが表示されている。


「問題です。この物語の結末はどうなるでしょう?」


 私はその問いに答えられなかった。ただ涙を流しながらスマホを握りしめていた。そして次第に視界全体が真っ暗になっていく中で、声が聞こえた。


「また会おうね、美羽ちゃん」


 それだけを心に残して、私は意識を失った。


 翌朝、二日酔いにも似た重たさを感じながら目覚めた。昨夜の出来事は夢か、それとも現実だったのか、わからないまま頭はぼんやりとしていて、自分でも何が本当なのか分からなくなっていた。

 沙織はキッチンで朝食を作っているようだった。その香ばしい匂いに少しだけ安堵しながら、私はテレビをつけた。

 

「速報です。昨夜未明、生田翔琉さん(26歳)が海岸で遺体となって発見されました」

 そのニュースキャスターの声に、私は思わず息を呑んだ。画面には翔琉の写真。見覚えのある笑顔が映し出されている。そして次の瞬間、ブンッという電子音と共にテレビ画面全体が真っ赤になった。

 

「え……?」

 リモコンでチャンネルを切り替えようとしたが、画面は真っ赤なまま動かない。カチャカチャと画面に向かってリモコンを操作するも、反応しない。画面には赤い背景に黒い文字で文字が浮かび上がった。


「問題です。この先、美羽ちゃんはどうなるでしょう?」


 その文字を見た瞬間、私は叫び声を上げてテレビを消した。しかし、その叫び声も虚しく響くだけだった。

 背後から滴る水音。それもひとつではなく複数だ。そして振り返った瞬間、身体が凍りついた。

 そこにはびしょ濡れの翔琉だけではなく、無数の手や見覚えのない顔、視線は私に向けられているが、一切目が合わない不気味な表情でこちらを向いている。

 直後、命というものを感じられないその無数の人々は凄まじい速度で、一斉に私へ向けて手を伸ばして――


「本日未明、大学生・三浦美羽さん(21歳)が自宅で死亡しているところを発見されました。死因について警察は調査中ですが、不審な点も多く……」

 

 キャスターは淡々と事件を報じていた。しかしその途中、不意に画面全体がブラックアウトし、赤黒い背景へと切り替わる。

 そして、大きな文字で、

 

「問題です。この物語、本当に終わったと思いますか?」

 

 その後、画面はニュースへと切り替わる。キャスター自身の顔が、びしょ濡れで苦痛にぐにゃぐにゃと歪んだ表情に変わり、水溜りに浮かぶ油の様に、映像がぐにゃぐにゃと揺れ、ぴちゃぴちゃと水音が鳴っている。

 しばらく、その奇妙な画面を映し出した後、ブンッと機械音を鳴らしてモニターの電源が落ちた。

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